1-2. 崩壊都市ゼンダリオにて、少女と出会う
――私の顔を潰し、鎧を隠しなさい。そして私を川に捨てるのです。
シエルの顔が赤く染まり、醜く形を変えていった。それはもうシエルなどではなかった。俺のよく知る、幼い姫の面影も、女王として精一杯背伸びをしていたその姿も、もうどこにもなかった。零れ落ちた深い空の色の瞳は、鮮明に俺を映していた。
シエルを壊したのは俺だ。
その亡骸を、俺は投げ捨て、獣に食わせた。ゼルデビットの兵士たちに程なく見つけられるだろうが、誰もそれを女王シエルグリタだとは思うまい。シエルの遺志を、その遺言を成し遂げるためには、そこまでする必要があったのだ。
……あったのだ。
太陽を追いかけて、月喰の森を抜ける頃には、すっかり日は落ちていた。
それまでどこをどんなふうに歩いたのか、俺は覚えていない。ただ足を動かし続けただけだ。シエルに託された聖剣ガルンシュバーグを携えて。
俺の記憶では――真西に進めているのだとすれば――この先に小規模な城塞都市があった。そこで食料を補充しようと皆で計画を立てていたのだ。
「……明かり?」
西の彼方の空が橙色に彩られていた。つい最近目にした忌まわしい輝きと同じ、すなわち火災の色だ。
「馬の一頭でもいれば!」
進めば面倒事に巻き込まれる。戻れば危険な夜の森だ。迂回しようにも食料が尽きている。だからそんな時間的余裕はない。
「ええい」
俺はガルンシュバーグを背負い、愛用の長剣を確かめる。度重なる戦闘を経てすっかりなまくらになってしまったが、ないよりはマシだ。
地面を蹴り、ひたすらに駆ける。俺たち角狼人は、人間よりも遥かに速く走ることができる。スタミナも何倍もある。戦士として生まれた種族なのだから当然だ。
だが俺は、絶対に守らなくてはならない人間を守ることができなかった出来損ないだ。
「これは……」
城塞都市ゼンダリオが焼け落ちていた。城壁の内側は、王都の惨状に勝るとも劣らない地獄絵図だ。
「これは、何の傷だ」
倒れている人々は鋭い何かで切り裂かれていた。剣の達人でも――たとえばじいちゃんほどの達人でも、この人数をこのように殺すことはできない。
「……ただの火事ではないということか」
俺は灼熱の街を歩き回る。危険は承知だが、俺も生きなくてはならない。旅に必要な物資はここで確保しなくてはならなかった。
しかし、どこを見ても凄惨な骸が転がっている。俺の頭の中に王都の、そしてあの月喰の森の戦いがフラッシュバックする。
「くっそ……」
目眩と吐き気。あらゆる不快感に襲われながらも、俺は保存食を扱っていたであろう店があった場所に辿り着いた。燃え残っていた腸詰めや干し芋を入手して、近くにあった少し焦げた麻袋に放り込む。
「しかし、こんなことをするなんて」
ゼルデビットの手の者だろうか。それにしてもゼルデビット辺境伯がここまであからさまにジグランス公爵に喧嘩を売るだろうか。両者は軍事力では互角だ。ということは、王都とその周辺の王家派の貴族たちとの戦いも続けているゼルデビットは不利だ。
「考えてもわからんか」
そして生存者も見当たらない。
――で、こいつは生存者ってわけじゃないな。
炎の中から現れたそれを見て、俺は瞬時に麻袋を投げ捨て、剣を抜いた。
鬼人だ。おそらくこの火事に乗じて悪さをしに来たということだろう。奴らは人間を攫う。食料にするため、そして、繁殖のためだ。人間との子どもは半鬼人と呼ばれるが、大人になるにつれて人間としての外見や性質、そして思考力を失い、成人の頃には完全に鬼人となる。奴らの繁殖力は爆発的で、そのため兵士たちの主な任務が鬼人狩りだ。
周囲にいるのは十体。おそらく俺が入ってきたのとは反対側の入口から侵入してきたばかりだ。何匹かの口元には赤いものが付着していた。手近な死体を食らったのだろう。
鬼人たちは俺を見て、ナイフや斧を構えた。俺が人間ではないことを見て警戒しているのだろう。遠巻きにするばかりでなかなか襲いかかってこない。かと言って、たかだか鬼人とはいえ、この数を相手にこちらから切り込むのは得策ではない。
その時だ。
絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「ッ!?」
近い。鬼人の別の一隊が燃え残っていた建物に入っていくのが見えた。悲鳴はその建物の中からだ。
これは悠長にはしていられない。
俺は全力で地面を蹴る。進路上の鬼人を切り捨て、その建物に踏み込んだ。同時に見張り役の二匹の鬼人の首を刎ね飛ばしている。
「ちっ」
部屋の中では男が、今まさに喉笛を掻き切られたところだった。奇妙な高音を発し、膨大な鮮血を吹き上げながら、男は倒れ伏した。その奥では若い女が震えている。
「お、お父さん……!」
少女の傍らには中年の女性も倒れていた。こちらは背中に手斧が突き立っていた。鬼人たちはこの若い女を生け捕りにし、繁殖に使うつもりに違いなかった。
俺は問答無用で室内の四体の鬼人を斬り伏せた。外にいて生き残っていた六体が部屋になだれ込んできたが、俺はそいつらも殲滅する。油断さえしなければどうということはない。まして屋外とは違い、数を頼みに一気に襲いかかることはできない。完全に地の利は俺にあったのだ。
「立てるか」
俺は剣を収めて、腰を抜かしている少女に手を差し出した。少女は角狼人を初めて見たのかもしれない。完全に歯の根が合っていない。俺は少女の父が持っていた長剣を拾い上げ、鞘に収め、少女に押し付けた。
「俺はギャレス。わけあってここまで逃げてきた」
建物から少女を連れ出し、俺は改めて少女を観察する。炎を受けてもなお黒いその髪は強く印象に残ったが、それ以上に俺の目を引いたのは少女の目だった。深い空の色の瞳――そこだけ見れば、この子はシエルグリタと同じだった。
「お前、名前は」
「ファ、ファイラン……」
「年は」
「じゅ、十六歳になったばかり……」
ふむ。
俺はゼンダリオの城壁の外に出るまで、黙って思案した。
「お前、剣を使ったことは」
「あ、ありません」
だろうな。
「覚えろ。俺が教えてやる」
「で、でも」
「生きるためだ」
嘘を吐く――。
ファイランのその深い空の瞳を見た瞬間に、俺は俺がやるべきことを知った。
俺はこの子をシエルグリタに仕立て上げるつもりなのだ。
「でも、私、もう」
「生きるのを諦める権利など、誰にもない。生きているなら、抗え。どんな状況であったとしても」
シエルグリタは優れた騎士でもあった。ファイランもまた、そうならなければならない。俺は拳を握りしめる。
ファイランの背後では、未だにゼンダリオが赫々と燃えている。ファイランの頬を伝う涙にも、俺の心は動かない。
――!
俺は瞬間的に剣を抜いて、旋回するなり斬り掛かった。
「強い魔力を検知したから来てみれば」
「なっ!?」
俺の一撃を完全に無力化しただと……?
俺の剣は、突然姿を現した銀髪の男の右掌で止められていた。それどころか、剣を引くことも叶わない。完全に動きを封じられてしまっていた。
「まぁまぁ、落ち着きましょう、角狼人の騎士さん」
男は赤い虹彩を赫奕たる炎の照り返しで一層燃え上がらせながら、にっこりと微笑んだ。