2-7. 恐慌のファレン
ああ、イライラする!
ああ、イライラする!
部屋に入るなり聞こえてきたのは、そんな叫び声だった。
いわば男の金切り声だ。
部屋の奥にある椅子に男は座っていた。床や壁と一体化している、妙に肉々しい椅子に両手両足を拘束されて。木の根を髣髴とさせるぐねぐねとうねった床の凹凸。そこにはいくつか繭のような球体があった。壁はなんだか柔らかそうだった。随所から血液のような何かを断続的に噴き出している。
「キモ!」
ミシェが足元に迫っていた赤い液体を避けながら叫んだ。
『ああ、イライラする!』
椅子に座っている男の顔は長い髭と髪にまみれて見えない。その髪は伸び放題で、床にも届くほどだ。見えている手はさながら骸骨だ。骨の指がカタカタと動いている。
『ああっ、イライラするっ!』
男が顔を上げた。眼球のあるべき場所には何もなかった。ただの闇が広がっている。背中の毛が逆立ったのがわかった。
「下がって!」
ハイエラールが前に出て杖を突き出した。激しい金属音のような音がして、壁の何箇所かが破壊された。人体の断面のようにそこから何か滑るものが溢れ出た。
「キモすぎる!」
俺の後ろに隠れたミシェが叫んでいる。この女の胆力も相当なものだ。
「ファイラン、大丈夫か」
「吐きそうです」
「なら大丈夫だな」
俺はハイエラールの背中を見ながら、次手を考える。椅子に縛り付けられた男はおそらくあそこから動かない。だが、不可視の何かを飛ばしてくる。他にも何らかの攻撃手段があると考えるべきだった。見当もつかないが。
「詠唱の暇がない」
ハイエラールが結界らしきものを展開しながら呻く。俺たちには理解できない次元での戦闘が行われているに違いない。しかし加勢しようにも、状況が不明では手が出せない。
ミシェが光の矢を放つが、それは男の遥か手前、部屋の中央より少し行ったところで消えてしまった。目に見えない防御壁があるのだろう。となると、こっちも迂闊に踏み込めない。
「埒が明かない」
ハイエラールの声が珍しくも焦っている。いや、焦りは俺たちも同じだ。
カネアよりも性質が悪い。付け入る隙がない。
「ハイエラール、俺たちはどう動けば良い」
「飛んでくる魔法刃を弾き返してください」
「見えないぞ」
「見えないですよ、魔力の塊ですから」
そんな無茶な。
いや?
『イライラするっ!』
男は叫び続けている。
俺はハイエラールの前に出た。
痺れるほどの殺気が襲ってくる。
俺の聴覚が低い唸りを捉える。何かが空を切る音だ。
俺の視覚が空間の歪みを認識する。音を追うように、まっすぐに俺の喉元に伸びてくる。
『ああっ! 本当にイライラするっ!』
「うるせぇ!」
振るった剣が何かを叩いた。弾き出された何かが壁に激突し、その肉々しい構造物に大きな傷をつける。滝のように赤い液体が流れ落ちた。
「いけますか」
「何とかな」
『おおおおおおおおおおおッ! 死ね! イライラする!』
耳障りな絶叫が響く。その音が刃となって飛んでくる。
コツさえ掴めばどうということはない。だが、いかんせんその攻撃頻度が高すぎる。
同時に二、三の刃を捌かねばならない。
「劫火迅雷、天地を祓え。紅蓮の咆哮、神威の轟き、焦土を刻みし滅尽の刹那! 永き眠りの創生の竜よ、覚醒せよ。我に仇なす邪悪に、天理の裁きを!」
その詠唱に聞き惚れている暇はない。飛んでくる刃の数が激増している。俺の身体にも傷がつき始める。まだまだ浅いが長くは持たない。
「創滅竜禍!」
ハイエラールの魔法が完成する。凄まじい閃光と、それに続く熱波。俺は素早くハイエラールの結界内に逃げ込んで難を逃れる。一瞬判断が遅れてしまっていたら丸焦げになっていただろう。
「どうなった」
もうもうと立ち込める赤みがかった水蒸気で視界が潰されている。
「あいつの結界は破壊できました。が、長くは続かないでしょう」
はぁはぁと肩で息をしているハイエラール。その様子を見るに二発目は厳しいだろう。
「ミシェ、援護してくれ」
「はいさ」
ミシェの放つ矢が男――恐慌のファレンに突き刺さる。
『イライラする!』
しかし効いているとは思えない。
「それなら!」
ミシェの弓から強烈な光が放たれて俺を追い越していく。
それはファレンに命中すると激しく爆ぜた。光の雫が当たった箇所の肉の壁や根が煙を上げる。
『イライラするんだよぉ!』
ファレンはそう叫ぶと不意に拘束具を引きちぎり、椅子から立ち上がった。
『この俺を動かすなんて、イライラするんだよぉッ!』
ファレンの眼窩が光った。
「っ!?」
腹部に衝撃を受けて俺は床を転がった。
「ギャレス!」
ファイランが駆け寄ってくる。
「来るな」
「助けます」
お前に何ができるってんだ――と思ったが、その時にはファイランは俺のところに辿り着いていた。
「見えない刃が飛んでくるぞ」
「ハイエラールが守ってくれる」
俺はファイランの助けで身を起こすや否や、男に向かって駆ける。
「ファイランを頼むぞ」
「わかってます」
ハイエラールの声を聞きながら、俺は牙潜の構えに移行する。
『死ね、ケダモノめ!』
「アレンゴル風情に使われるとは、とんだ大魔導師だな!」
『イライラするッ!』
二度目を食らうものか。衝撃波が飛んでくる寸前に、俺は横に跳んでいた。そして幽噬閃を打ち込む。
『ぐっ』
くぐもった声が上がったが、俺にはわかる。効いてない。
黎明剣式・噬葬絶牙――。
巨大な鬼人を葬った技をやせ細った男の鳩尾に叩き込む。
『まったく、イライラする! ケダモノ風情が俺に傷をつけるなんてなぁ!』
ちくしょうめ、全然効いてない!
ファレンはいつの間にか紅蓮の巨大な両手剣を手にしていた。
獲物がでかかろうが、剣が相手ならやりようはある。
光の矢がファレンの顔面に突き刺さる。その瞬間、俺は再度噬葬絶牙をその喉元に打ち込んでいた。
『がぁぁぁ』
ファレンの頭部が弾け飛ぶ。文字通り粉砕された。
だが、その身体は止まらない。超高速の斬撃が俺に落ちてくる。
「くそっ」
一撃を受け止めはしたが、あまりの威力に腕の骨が軋む。人間だったらひとたまりもなかっただろう。自分が角狼人であったことをこれほど短期間に何度も感謝したことはない。
速い、速すぎる。
身の丈の三倍ほどもある超大剣が瞬きほどの間に二度、三度と襲いかかってくる。角狼人の動体視力がなければ全く対応なんてできやしないだろう。
ミシェの矢が何本も突き立つが、こいつの動きは鈍らない。
「もう少し!」
ハイエラールの声が聞こえた。
「ファイラン! その剣を床に突き立てて!」
直後、ガッと音が響いた。俺の背後に光が生まれ、俺の前に巨大な影を作る。
その時、初めてファレンに隙が生まれた。まるで光を避けるような動きをしたのだ。
虚鎧の構え――!
回避に全てを託す。
男の超大剣が横薙ぎに振り回される。宙を跳び、距離を離して難を逃れる。足が接地するのと同時に床を蹴りつける。
黎明剣式・虚影刃――!
相手は何らかの感覚で俺の動きを感知している。
なら、この剣式であればそれを欺くことができるはずだ。
奴の剣をギリギリで回避する。そこに生まれた隙に、俺は剣技を打ち込んだ。
『イライラするぅぅぅぅぅッ!』
骸骨のような男は、崩壊を始め、やがて砕け散った。
俺は剣を構えたまま、ハイエラールを振り返った。ハイエラールの表情は鋭かった。
「ギャレス、そいつは恐慌のファレンの戦闘端末の一つに過ぎない! 奴は……恐らくは、この要塞そのものです!」
「ばかなっ」
そんなことがあるはずが――。




