黒薔薇令嬢はお友達から始めたい
「予め言っておくが、この結婚を受け入れたのは王命だからだ。君の複雑な立場は理解する。今までもさぞ苦労しただろう。だが、このような命令ひとつで人の気持ちが動くものではない。僕は君を愛することはないし…」
「愛することはない、ですか…」
ロベルトの宣言を、柔らかな声でジュスティーヌが繰り返す。垂れ目がちな双眸に涙がじわりと滲み…
「なんて素敵なの…」
「え?」
「それでは、お友達になってください!」
「ええ?」
ジュスティーヌ・ポワリエ男爵令嬢。
亡き正妃の実家である大貴族イルウルーズ侯爵家…に隣接する小さな伯爵の代官の娘。
人呼んで「黒薔薇令嬢」あるいは「毒婦令嬢」。
豊かな黒髪は見事なウェーブを描き、紅玉の瞳はしっとりと潤んでいる。ぽってりと美味しそうな唇の横に婀娜っぽいほくろ。その白肌は透き通るよう。胸元にはドレス越しにもはっきりとわかるほどたわわに実るふたつの果実。
鈴を転がすような甘い声。おっとりとした話し方。
ジュスティーヌの関心を引くため令息達は争い、その様を見て令嬢達は眉を顰めていたとか。
ジュスティーヌに婚約者の心を奪われた令嬢が、あわや刃傷沙汰を起こしかけたとか。
貴族学園の教員の中にも彼女の色香に惑わされる者が出てきたとか。
そのうち、第二王子や辺境伯家嫡男やらが彼女を取り巻くようになったとか。
挙句、彼女を愛妾にしたい王子と、同じく愛妾にしたい辺境伯家嫡男が卒業前に決闘騒ぎを起こしたとか。
それが大問題となり、ふたりは同時に婚約破棄され、第二王子は側妃である母の実家で謹慎処分、辺境伯令息は廃嫡された…というわけで。
ジュスティーヌ本人は、脇は甘かっただけで何ら罪を犯してはいない。自分が妃や辺境伯夫人になりたかったわけでもない。何しろ王子達の争いは「どちらがジュスティーヌを愛妾にするか」という下世話なものであり、第二王子や辺境伯息子の元婚約者達にもジュスティーヌを責める気はなかった。
しかし、一連のあれこれに尾鰭がついて、ジュスティーヌは男心を惑わせ女心を逆撫でする「黒薔薇の毒婦」の二つ名をいただくことになってしまった。理不尽な話である。
そこで。
息子の不始末でひとりの令嬢が毒婦と呼ばれるようになったことを不憫に思った国王は、ジュスティーヌとロベルト・ダルドリー魔法爵との結婚を下名した。
ロベルト・ダルドリー魔法爵。銀髪にアイスブルーの瞳を持つ美男だが、寡黙で冷徹で他人に阿らないとの評判のため、ついた渾名は「氷の魔術師」。代々官吏を務める男爵家の三男だが魔法の才に秀でており、貴族学園を飛び級して一年で卒業。史上最年少で魔術研究所に奉職しつつ功績を上げ、伯爵位相当の魔法爵を自力で手にした稀代の天才だ。
ジュスティーヌが殿方ホイホイ体質の持ち主であることは確か。その点、一代で獲得した爵位持ちなら、家の中で争いが起こるリスクは低い。また、彼女の体質に何かしらの魔力──大昔に滅びたとされる「魅了の魔力」が関わっている可能性も取り沙汰された。もしそれが事実だった場合、魔法の天才が側にいれば安心だ、というのが王の思惑であるのだが。
「無理だよおおお!あんな色っぽい美女が俺の奥さんとか!俺にはとても無理なんだってばあああ!」
ロベルトが頭を抱えて喚く。家令のトマスが深々とため息をつき、魔法通信鏡の向こうにいる姉エリシャが「うるさい!」と声を上げた。
「それで?黒薔薇令嬢ジュスティーヌちゃんと目も合わせられない挙句に『愛することはない』とか言っちゃったわけだ。バカだねぇ稀代の大天才魔術師様は」
「だって無理だよ。俺、社交とか女性とか苦手なのに」
「彼女いたことないもんね、ロベルトは」
「ご友人付き合いも控えめでらっしゃいます」
姉と家令──しかもトマスは実家が付けてくれた数少ない使用人のひとりである──に図星を刺され、ロベルトは机に突っ伏した。
「で?黒薔薇ちゃんはアンタとお友達になりたいんだって?」
「…憧れてたんだって、友達に」
この国の貴族はほとんどが王都の貴族学園で青春時代を過ごす。「多感な時期に同世代の仲間と育んだかけがえのない友情を宝物にしてほしい」という設立理念を聞き、素直に憧れて王都へやってきたものの、何の因果か殿方を虜にする才能を芽生えさせてしまったジュスティーヌには友達ができなかった。
「じゃあ、なってあげたら。お友達」
「どうすればいいんだよ」
ロベルトもまた、学園で友達ができなかった男である。彼の場合は「友情を育むより魔法を極めたい」と願う生粋の魔法オタクであり、飛び級と魔術の研究に脇目もふらず邁進した結果なのだが。
エリシャは小さくため息をつく。「氷の魔術師」なる二つ名を拝命している怜悧な美青年。しかしその実態は口下手でぼっちの魔法オタク。しがない男爵家が輩出した自慢の弟だが、その実ボロが出ないよう大変な思いをしていることも知っている。
エリシャはロベルトとは正反対で、社交が得意だった。貴族学園では人脈作りに精を出し、第一王女マルグリット殿下と懇意になり、現在は彼女の隣国留学にお付きとして帯同中。おいそれと会えない距離だからこそ、値の張る魔法通信鏡を購入して、弟の悩み相談にちょくちょく乗っているのだが。
「…とりあえず、あんたがジュスティーヌちゃんのやりたいことに付き合えばいいんじゃない?」
友達に憧れていたなら、やりたいことのひとつやふたつあるだろう。
「ただし、あんたも全力で楽しむこと。仕方なく付き合ってやってる、なんて友達がいのないことはしないのよ」
「わかった。ありがとう、姉ちゃん」
「いいの。そういう素直さも、あんたのいいところよ」
家令トマスもまた、うんうんと頷いていた。
◇◆◇
人気のカフェでお茶を飲みスイーツを食べる。
植物園や絵画展に出かける。
街中の小間物屋や文具店で買い物をする。
演劇やオペラを観に行く。
ロベルトは休みのたびに、ジュスティーヌのやりたいことに付き合った。ジュスティーヌはカフェのスイーツに目を輝かせ、展示の感想をロベルトと言い合い、ちょっとした買い物に10分以上思い悩み、舞台上の物語に涙する。
「素晴らしかった…!私もう途中から涙が止まらなくて」
ハンカチで目元を押さえながら、ジュスティーヌが熱弁する。ロベルトはトマスの淹れた紅茶を飲みながら、彼女の話に耳を傾けていた。
今日の演劇は、姫と騎士の恋愛譚である。光の国の姫が闇の国の王に略奪され、それを幼馴染の騎士が救いに行き、闇に覆われかけていた国にも光を取り戻す伝奇物語。
「闇の王の帷を騎士様が切り裂いて虹色の光が降り注ぐ場面の美しかったこと!」
「確かに、悪くない特殊効果だった」
ロベルトはそう言うと、傍の紙ナプキンに万年筆をさらさらと走らせ、水差しの下に置く。
「光よ」
短い詠唱と共に、水差しの水が虹色の細かい粒子となって浮き上がり、きらきらとふたりの周りを取り囲む。
「え?何、何をなさったのです?!」
ジュスティーヌが目を丸くする。
「水を光魔法で変質させたんだ。僕が2年前に編み出して簡略化させた術式が、こんな風に使われているとは驚きだな」
演劇やオペラの舞台装置には、魔術が使われることが多い。ロベルトも事実として知っていたが、こうして自分の開発した魔術が活用される現場を見れるのは楽しいことだった。
「…魔法使い…!!」
ジュスティーヌが瞳をきらきらさせて、ロベルトを覗き込む。
「ま、まあ。魔法爵だし、魔術研究所勤務だからな…」
「他には?他のお芝居にもロベルト様の開発された魔法が?」
「まあ。先月観た竜と伯爵令嬢の物語の、空を飛んでいる映像を舞台上に映し出す魔術なんかも」
「物凄い臨場感でしたわ!どうしてそのとき教えてくださらなかったの!」
「それはジュスティーヌが泣いてそれどころではなかったから…」
竜と令嬢の物語は悲恋ものだったので、ジュスティーヌの熱弁は「どうすればあのふたりはハッピーエンドになれたのか」に終始していた。
「僕が得意なのは主に光魔法で、光の屈折と色と拡散で様々な効果をつけることができるんだ。例えば空にかかる虹をどう再現するか、みたいなところも光魔法研究の基礎なのだが──」
エリシャに「長い」と一刀両断され、トマスには仕事の片手間に聞き流される魔術語りを、ジュスティーヌは尊敬の眼差しでうんうんと頷きながら聞いてくれる。しかも相手は色っぽさと素直さを兼ね備えた美女である。
ぼっちの魔法オタクで人付き合いの苦手なロベルトは、あっさりとジュスティーヌに落ちた。
そりゃもう盛大に、頭のてっぺんからドボンである。
「愛する気はないとか言わなきゃよかった!!なんでこの世に時間遡及魔法がないんだ!俺が開発すべきなのか?!」
ロベルトが頭を抱えて喚く。魔法通信鏡の向こうにいる姉エリシャとこちら側の家令トマスが同時にため息をついた。
「もう早いうちに謝っちゃいなよ。謝ってから、ちゃんと言えばいいじゃん。好きだって」
「そんなに簡単じゃないんだよ」
例えばカフェで、頬についたクリームを拭おうとロベルトが不用意に手を伸ばしたとき。
例えば植物園で、髪についた花びらをロベルトが取ろうとしたとき。
ジュスティーヌはびくっと身を竦めて固まってしまうのだ。
「…どうやら王子達は、彼女をデートに連れ出しては、偶然のふりして身体を触ったり、ひどいときは物影や宿屋に連れ込もうとしてきたらしくてさ」
仲良くなれた、気にかけてくれたと思った男達が、ちょっとした隙をついて触れてくる。触れるだけではなく、それ以上も求めてくる。
「だから、あまり彼女を怖がらせたくないんだ。せっかく友達になれたのに、俺まで男を出してきたら、彼女はきっと傷付く」
「あんたねえ…」
エリシャは天を仰いだ。女性が苦手でぼっちでオタクの弟は、見事にヘタレに進化した。とはいえ、その進化がジュスティーヌを思い遣ってのものである以上、あながち否定はできない。
「…わかった。来月の大夜会に合わせて王女殿下が里帰りするんだけど、私も一緒に王都に戻るから。そこで姉ちゃんがジュスティーヌちゃんの気持ちをそれとなく聞いてあげる」
「えー」
「もちろん、そこまでにアンタが自力で何とかできていれば、私の出番はないわよ」
エリシャはそう言って通信を切った。
◇◆◇
国中の貴族が集う大夜会。その当日までロベルトはジュスティーヌの「素敵なお友達」であり続けた。エリシャに余計なことを言われるリスクより、今の関係を崩したくない気持ちが勝ったのである。
とはいえ、公式なふたりの関係は夫婦。ロベルトはドレスやアクセサリーをプレゼントし、ジュスティーヌはそれを着こなして会場である迎賓館へと向かう。ジュスティーヌのドレスは珊瑚色を基調にロベルトの色である銀糸の刺繍が施され、ロベルトはジュスティーヌの色である紅に黒のふちどりのあるポケットチーフをさしている。
「仲良しアピールみたいで照れますね」
嬉しそうに笑うジュスティーヌの愛らしさに、ロベルトは心臓を抑えた。
「君もとても綺麗だ。今夜はエスコートできて光栄だよ」
本当は全身銀色で染め上げたかったが「重すぎる」「鯖みたいになる」とエリシャとトマスに全力で止められた。悩みに悩んだ珊瑚色のドレスは楚々として美しく、こうして見ると彼らが正しかったことがよくわかる。
迎賓館のホールは貴族達で賑わっていた。ロベルトは周りからの視線を感じ、眉間に皺を寄せる。
「ほら、あれが例の──」
「確かに随分と色っぽい──」
「氷の魔術師殿に飼われていると聞くが、実際の『ご主人』はどちらなんだろうねえ」
心底くだらない。
ロベルトは隣のジュスティーヌの顔を覗き見た。案の定、不安げに目を潤ませている。
「気にすることはない。挨拶だけしたらすぐに帰ろう」
「でもロベルト様の社交も…」
「社交など、ああいう手合いに我慢しながらすることでもないだろう。彼らの大好きな噂話の養分になりにいくことはない」
ロベルトはそう言うと、ジュスティーヌの手を取り広間の奥へと向かう。飲み物を片手に談笑しているエリシャを見つけ、声をかけた。
「姉上。お久しぶりです」
公式の場なので、自ずと畏まった言葉遣いになる。
「ロベルト、すっかり立派になって」
エリシャも猫を十匹ほど被った笑みを浮かべる。ロベルトが姉にジュスティーヌを紹介し、三人は一緒にエリシャの上司であるマルグリット第一王女を待つことにした。王室の方々の登場だけ待って、あとは早々に退散すればいい。ロベルトがそう胸の中で算段をつけていたときだった。
「久しぶりじゃないか、ジュスティーヌ」
嘲笑混じりの不快な声が、背後から投げかけられる。振り向くとそこには、金髪碧眼の若い男の姿。
「知り合いか?」
「シリル第二王子殿下です」
「ああ、例の」
確か彼は、母である側妃の実家で謹慎中だったはずである。よく見ると礼服のサイズは合っていないし、髪も乱れている。
「私の妻に、何か?」
ロベルトはジュスティーヌを隠すように、シリル王子の前に立ちはだかる。
「野暮だなあ。旧交を温めようとしただけじゃないか」
「生憎、妻がそれを望んでいるようには思えなかったので」
ロベルトの皮肉混じりの言葉を、シリルは鼻で笑った。
「随分とうまくやったようだな、ジュスティーヌ。僕を悪者にして氷の魔術師を誑かすなんざ、毒婦令嬢にとっては朝飯前だろうさ」
シリルはそう言うと、芝居がかった調子で両手を広げる。
「見ろよ、今の僕を。婿入り予定の婚約も破棄され謹慎中で大夜会にも呼ばれず、借り物の服で忍び込むしかなかった哀れな王子!かたや冴えない男爵令嬢が今じゃ伯爵位相当の魔法爵夫人!不公平すぎるじゃないか、どう思う?」
婚約破棄も謹慎も自業自得じゃないかと、その場にいた皆は思ったが口には出さなかった。
「婚約破棄も謹慎も自業自得だと伺っております」
ロベルトは素直に口に出した。
「貴様!ジュスティーヌの色香に惑わされた助平野郎のくせに!」
「殿下に言われる筋合いはございません」
「ロベルト、挑発に乗っちゃだめよ」
エリシャが小声で注意する。シリルが顔を真っ赤にして喚いた。
「ふん、調子に乗りやがって!ジュスティーヌは恐ろしい女だ。貴様のような若造を騙すことくらい、あの毒婦にとっては朝飯前だろうが…」
「いい加減、我が妻を謗るのはやめていただきたい!」
ロベルトが大声をあげる。その様子を見てシリルが下衆な笑みを浮かべた。
「はは、図星を指されて腹が立ったか」
「ジュスティーヌは毒婦などではありません!俺にはわかる!彼女は誤解されやすいだけで、本当は心優しい女性なのです!」
よりにもよって悪女に騙されている男の常套句みたいなことを言い出したな…と皆が思ったが、口には出さなかった。
「これはこれは、氷の魔術師殿は悪女に騙される男の常套句みたいなことを言うじゃないか」
シリルはここぞとばかりに口を出した。
「私が騙されているとでも?」
ロベルトが気色ばむ。
「どうだか?稀代の天才魔術師とやらも随分安っぽいことを仰るなと思ったまでだがね」
よくない流れだとエリシャは気が付いた。腐ってもあんぽんたんでも王族は王族。舌のよく回る人間だらけの環境で育ったシリルに、口下手ぼっちの魔法オタクであるロベルトが口喧嘩で勝てるわけがない。ここは一旦引くが吉だと思い、弟に素早く耳打ちする。
「ロベルト、一旦引くわよ」
「このような侮辱を受けて黙っていろと?」
「続けても有利に転ぶことはないわ」
「しかし」
「逃げるのか?ロベルト・ダルドリー魔法爵」
シリルは完全にやる気になっている。冷静さを失いかけているロベルトが反論しようとシリルの方を向き直した、そのとき。
「馬鹿こくでねえ、こんのでれすけ!!」
割って入ったのはジュスティーヌだった。
「で?」
「でれ?」
シリルとロベルトはぽかんと口を開ける。
「黙っていればまあぺらぺらと自分の都合のいいことしか言わねえ口だなこのでれすけ王子!あのときのことは確かにわだすにも落ち度があっだと思って黙ってたけんど、わだすの大好きな旦那様さ侮辱すんだば話は別だべよ?ああ?!」
「…そういえばジュスティーヌちゃんの実家って北の方だっけ?」
エリシャがロベルトに耳打ちする。
「イルウルーズ領近くの伯爵家の代官です」
「なるほど、あのへん訛りきついのよね」
上位貴族たちは訛りのない貴族言葉で喋るが、下位貴族たちは地元社会に溶け込んで暮らし、使用人や幼友達も地元民という場合も多い。ポワリエ男爵家もそういう貴族だったのだろうとエリシャは推察する。
「言いたいこと全部言おうとするとやっぱ慣れた言葉になるのよ。私も留学中そうだったからわかるわー」
「なるほど」
ちなみにダルドリー家は王都の出身なので訛りこそないが、家庭内の口調は平民に近い。だからジュスティーヌの言葉遣いに対する理解も早かった。
だが、尊きお育ちの王子には、ジュスティーヌの言葉は致命的な失点として響いたようで。
「ははは、本性表したな、ジュスティーヌ!」
シリルは下卑た笑い声をあげる。
「およそ貴族とも思えぬ、その品性下劣な言葉遣い!やはりお前に魔法爵殿の奥方など分不相応だとは思わないか?」
ねっとりと厭らしい口調でシリルがジュスティーヌを詰る。ジュスティーヌが泣きそうな顔で口元に手を当てた。そんな彼女をロベルトは抱き寄せる。
そのとき。
「品性下劣だなんてお口が悪いこと。お姉ちゃまは悲しいわ、シリルちゃん」
煽るような口振りで、長身の美女が近付いてくる。その髪に輝くティアラを見て、貴族たちは一斉に臣下の礼を取った。
「厭だわ、皆様楽になさって」
「マルグリット姉上…!」
シリルが気まずそうな顔で後ずさる。
「あら、昔みたいに『お姉ちゃま』と呼んでくれて構わなくってよ?」
マルグリットはそう言うと、ロベルトのほうを見た。
「ロベルト・ダルドリー魔法爵ね?お話はよくエリシャから聞いているわ。私の大切なお友達の自慢の弟だもの。仲良くしたいわね」
「ありがたきお言葉を賜り、心より御礼申します」
ロベルトとジュスティーヌが改めて礼を取る。
「それで、貴女が彼の奥様のジュスティーヌちゃんね?イルウルーズの方のご出身なのかしら?」
「はい。我が父は、イルウルーズ侯爵領に隣接するウルディア伯爵のもとで家令をしております」
「そう。わたくしの母はイルウルーズの出だから懐かしくて。おかあさま付きの侍女には、いたずらがすぎるとお国言葉で怒られたものよ」
マルグリットは柔らかな笑みを浮かべた。
「言葉は育った土地や人との絆と切り離せないもの。もちろん場に応じたマナーは必要だけど、貴女がきちんと礼儀作法を身につけてきたことは、こうして話せばよくわかります。それよりも──」
笑みをゆっくりと消すと、マルグリットはシリルに歩み寄り、手に持った扇子でトントンと肩を突いた。
「イルウルーズの言葉を品性下劣だと言ったのはどのお口かしら?」
「そ、それは。正妃様の出身地の言葉だと知らず…」
「違うでしょ、シリルちゃん。他人の言葉を品性下劣などと謗るのは、この国を治める我々王族にはあってならないことだと教わってこなかったのかしら?」
「あ、その…」
「わたくしの留学中に大きくなったのは身体だけなのかしら?早急に教育をやり直すべきだわね。そうそう、警備体制の見直しも必要かしら。まったく、王太女としてやることが山積みで困ってしまうわ」
「王太女…姉上が?パトリス兄上ではなく…?」
「パトリスは軍人が性に合っているのですって。わたくしの剣となり盾となることを誓ってくれたわ。この後発表があるけど…シリルちゃんはお父様に見つかる前に帰らないと大変よ?お姉ちゃまが案内してあげるから一緒に行きましょうね」
美しき王太女は優雅にシリルの二の腕を掴むと、ずるずると引き摺って去って行った。高いヒールをものともせず、体幹がぶれることもない。さすが未来の女王だと皆は感心しつつ、特に姉のいる弟達は、この後のシリルの命運にほんの少しだけ同情した。
姉のいる弟でもあるロベルトは、それどころではなかった。なにしろ彼の頭の中では、時間差でジュスティーヌの「大好きな旦那様」という言葉が反響していたからで…
大夜会の帰り道。
ロベルトとジュスティーヌの乗る馬車の中は静まり返っていた。ロベルトはちらりと妻の横顔を見る。
エリシャは付いてこなかった。曰く「女の子にあそこまで言わたくせに仲介を他人に頼むのはダメ絶対」とのこと。後はロベルト次第。そのことは彼自身が一番身に染みてはいるのだが。
「あの、すみませんでした。あのような形で注目を浴びて、ロベルト様にもご迷惑を…」
「君は悪くない。気にするな」
そっけなさすぎる言葉だ。自分の口下手さが忌々しくなり、ロベルトは頭をがりがりと掻く。
「あの王子殿下はどうしようもないな。君もさぞ大変だったことだろう」
「ええ。でも、言いたいことを言えて、ちょっとすっきりしました。学園では訛りが出ないように気にしてばかりいたので…」
入学したばかりの頃、ジュスティーヌはイルウルーズ訛りを揶揄われたのだという。訛りが出ないよう気を付けた結果、話し方が「おっとりとして色っぽい」と言わ殿方に次々と付き纏われたのだから、不運なものだ。
「その…君の言ったことについて…だが…あれが本心なら俺は嬉しい!」
ロベルトは叫んだ。ヘタレ根性に負けない早口で。
「愛さないとか言って申し訳なかった。王命でいきなり結婚だなんて君にとっても不本意だろうと思って言葉を間違った。君と過ごすのはとても楽しくて、でもせっかく友達になれたのに、君に下心を見せて嫌われたらと思うと何も言えなくて。情けない男ですまない」
そう言ってロベルトは、がばりと頭を下げる。
「俺は君に、友達以上の気持ちを抱いてもいいだろうか。そ、その、あまつさえ『大好きなお嫁さん』だと思っても…」
ジュスティーヌがロベルトの拳をそっと両手で包んだ。
「ロベルト様は私の大好きな旦那様、です」
鈴を転がすような柔らかい口調で、ジュスティーヌが囁く。
それから30分後、王都を大回りしてダルドリー魔法爵邸に到着した馬車からは、真っ赤な顔をした主人とその妻が降りてきたが、家令トマスは顔色ひとつ変えずにふたりを出迎えた。
それからのこと。
マルグリットの王太女宣下が大々的に発表されたことにより、シリル王子の後ろ盾であった側妃とその取り巻きは完全に牙を抜かれた。そもそも、臣下に婿入り予定だったシリルが増長したのも、武功はあるが政治向きでない側妃腹の第一王子パトリスを王太子にし、同母弟シリルをなんとか宰相に仕立てて実権を握りたいという側妃派の思惑だったのだという。
「思惑があるならそれに見合った才覚も叩き込まないと片手落ちだわ」
マルグリット王太女は、義母達の企みを一笑に付した。
王命の謹慎を簡単に破らせた側妃の実家は戒告、シリルはマルグリット肝煎りの家庭教師によってびしばし扱かれているという。
そしてダルドリー魔法爵の屋敷では。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
ジュスティーヌは背伸びをしてロベルトの頬にキスをする。
ロベルトは心臓を抑えしばらく天を仰ぐと、ジュスティーヌをがばっと抱きしめた。
「俺のお嫁さんが今日も可愛いっ…!」
「もう!ロベルト様!」
ジュスティーヌはラブラブな新婚さんにも憧れていたので、ふたりは今、それを遂行することに全力を注いでいるらしい。
世の人はそれをバカップルと呼ぶのかもしれないが、家令トマスをはじめ、ダルドリー魔法爵の屋敷でそんな野暮なことを言い出す者は誰もいないのであった。
登場人物紹介
ロベルト・ダルドリー(23)
役人貴族(男爵)の三男出身。魔法については稀代の天才であり、20歳で自力で一代爵位を獲得した。このまま功績を積めば陞爵は固いと言われる有望株だが、中身は口下手ぼっち魔法オタク。社交強者の姉エリシャには頭が上がらないが関係は良好で、案外女性に対しても素直になれるのが美点。
ジュスティーヌ・ポワリエ(ダルドリー)(18)
外見はセクシー系美女、中身はぽわぽわ田舎娘。傾国悪女の素質持ちなのに才覚や狡猾さが足りないために不幸体質まっしぐらだったが、無害さ故にロベルトのお嫁さんとして幸せに。外見が落ち着いて内面が成長すれば夫以外にもお友達(今度は女性の)ができるはず。
エリシャ・ダルドリー(25)
強いお姉ちゃん。ロベルトの才能は尊敬しつつ、もうちょっと社交とかも考えればいいのにと思っている。社交や人間関係をカードゲームのように捉え、渡り歩くのが楽しいタイプ。そこを第一王女マルグリットに気に入られて出世街道を歩くが、婚期は逃し中。
シリル第二王子(18)
元々の地頭はさほど悪くないが、実母の取り巻きに「いずれ実権を握るのは貴方」と吹き込まれて増長してしまった浅はか王子。今後は頑張って勉強してお姉ちゃまの駒として再起できるか、一生飼い殺しでお姉ちゃまのおもちゃになるかの2択。
マルグリット王太女(第一王女)(25)
人の上に立つために生まれてきた恐怖のお姉ちゃん。自分も他人も駒だと思っているが、優秀なゲームメーカーであるために駒は大切にするタイプ。
パトリス第一王子(23)
王にはなりたくない現場主義の気のいい脳筋。マルグリットは異母姉だが自分の苦手分野を全部カバーしてくれるので大好き。
トマス(50)
優秀な後方腕組みおじさん