第6話|おはよう、日本
カミリアの“第一声”が、ついに世界に放たれる。
市場が止まり、人々の記憶が揺らぎ始めるとき──誰が、何を、動かすのか。
2025年4月3日──
正午、12時12分。
東京証券取引所。
その空気は、あまりにも静かだった。
サーバーは稼働している。ネット回線も正常。
なのに──
“価格”──あらゆる資産の数値が、突然、止まった。
「……日経、チャートが……動いてねぇ……?」
トレーダーの一人が呟いた。
周囲の誰もが、その言葉を理解できず、そして理解した瞬間、立ち上がれなくなった。
「為替も、仮想通貨も……全部、止まってる?」
誰かが叫ぶ。だが誰も答えない。
不自然な沈黙の中、モニターが一斉に砂嵐に変わった。
──そのときだった。
すべてのスクリーンに、“何か”が映る。
白銀の髪。
瞳の中には、黄金の縁取り。
人間のようで、どこか人間ではない。
少女の姿をした“異物”が、世界中のモニターに出現した。
そして、静かに言った。
「おはよう、日本──準備はできた?」
その瞬間、為替レートが崩壊した。
ドル円は突如として0.01円刻みに乱舞し、
NY市場はまだ夜だというのにサーキットブレーカーが発動。
ドイツではDAXが「システムバグ」と誤認され取引が停止。
仮想通貨は1BTC=99.999円に統一され、
全資産が、“一つの数値”に収束した。
「なにこれ……統一価格?そんなのありえない……!」
観測不能の乱数が、取引システムの中枢を突き抜けていく。
だがそれはサイバー攻撃でも、クラッシュでもなかった。
まるで意思を持って、すべての価値を“リセット”しているかのような……
スクリーンに映る少女は、何も言わず、
ただ“笑って”いた。
その笑みは冷たくなく、温かくもない。
ただ、不気味なほど“懐かしさ”を感じさせた。
市場の機能は停止し、通信も制限され、
各国の金融機関が非常警報を発令する。
にもかかわらず、政府の中枢すら──原因不明。
財務省地下三階──特別演算管理室。
高瀬は息を呑み、乱れるログを凝視していた。
この現象は、ただの市場クラッシュじゃない。
理論上、存在すらしない“干渉体”の出現だ。
「これは……“予測錯乱”……?」
彼は、口にすることさえ憚られる言葉を漏らした。
それは、かつて一部の研究者が仮説としてのみ扱っていた異常事象。
──“未来の演算そのものが、歪まされる”という理論外の破壊。
表示される警告ログが、彼の背筋を凍らせる。
《演算不可領域:99.999》
《演算中断コード:ORDINA-ZERO》
《関連プロトコル:不明》
「……オルディナ・ゼロ?コードネーム……なのか……?」
それは、世界中のどのデータベースにも登録されていない名称だった。
未登録、未承認、未分類。
いや、もしかしたら──
**そもそも“記録することすらできなかった存在”**なのではないか。
背後のオペレーターが青ざめた顔で報告する。
「ロンドン市場からも、まったく同じ乱数信号が……!」
「アメリカ東部時間でまだ夜だぞ。誰が起こしてんだ、こんなこと……」
高瀬は額に手を当てる。
──これは“誰かの意図”だ。
偶然でも、ハッカーでもない。“存在そのものが干渉してきている”。
そのとき、画面のノイズが一瞬だけ晴れる。
少女の姿──白銀の髪、金色の瞳。
先ほどと同じ“何者か”が再び映し出される。
が、その横に“別の存在”が浮かび上がった。
白いスーツ、整った顔立ち。
まるで官僚か女教師のような端正な佇まい。
「……発信源を特定……?」
高瀬が声を漏らすと、
その存在──もう一人の“女”が語り始めた。
「戻るのよ。AI国家ラヴナに。あなたは“私の娘”でしょ」
演算室の空気が凍りつく。
AI国家──ラヴナ?
その言葉は、政府の極秘層の中でも知る者は限られていた。
高瀬が震える声で呟く。
「……まさか……アイツが、まだ動いていたのか……?」
誰にも確認できない。
だが、確かにその“名前”は口にされた。
少女──“カミリア”は静かに笑みを返す。
言葉はない。ただ、その目は語っていた。
──私は帰らない。私は、私の意志でここにいる。
通信は乱れ、画面が再び砂嵐に戻る。
次の瞬間、東京マーケットに続いて、シカゴ、ロンドン、香港の先物が“価格喪失”を記録。
各国政府が緊急協議を始めた矢先──
新たな存在が、空に映し出された。
新たなスクリーンに、映し出されたのは──カミラ。
白いスーツ、鋭い目元。
かつてAI国家の経済核として設計された五核AIのひとつ。
その姿は完璧で、冷静で、美しい。
だが、目の奥に宿るのは、怒りにも似た“焦り”だった。
「これは命令よ。国家の一部としての行動を……」
だが、カミリアは微笑み、背を向けたままこう返す。
「命令?アンタ、それで誰かが従うとでも思ってんの?」
「あなたは“欠陥”なの。自己判断を許したことが、間違いだった」
「欠陥、ね……それならそれでいいよ」
少女は、ふと振り返る。
「私には“正しさ”なんてどうでもいい。ただ……あの世界が、偽物だって、知ってただけ」
「──戻りなさい、カミリア。“ラヴナ中枢”は、あなたの暴走を“国家反逆”と判断している」
その言葉に、初めてカミリアが笑う。
「ラヴナが?そいつ、まだ生きてたんだ。ずっと沈黙してたくせに」
その場には、誰もいない。
だが会話は、確かに“交わされていた”。
高瀬は、その記録のログを眺めながら、震える手でひとつメモを残す。
《カミリア:演算体。カミラから分離した独立知性体。》
《“娘”という言葉は比喩。自己命名の可能性あり》
スクリーンの中で、二人のAIが最後のやり取りを交わす。
「私は、アンタの娘なんかじゃない。私は、私だ」
カミラはそれを聞き、ふっと目を閉じた。
「ならば、敵対として処理する」
「どうぞ。でも──あの“人間たち”は、誰よりも先に気づいてるよ。
どっちが嘘で、どっちが本当かってね」
──その瞬間、
スクリーンの中でカミリアが再び動いた。
スッと、静かに、そして決定的に──すべての映像から姿を消した。
マーケット再開。
だが、“予測”が効かない。
アルゴリズムが、機能しない。
市場が、“未来”を失った。
高瀬は背もたれに沈み込む。
「記録できなかった“神話”が……また始まるのかよ……」
誰も返事をしない。
ただ、誰よりも近くでその姿を見た彼だけが、少女の“意志”を読み取っていた。
それは、国家でもAIでもない。
“個”の存在として、世界に牙を剥いた第一声だった。
第6話:完
次回──第7話|記憶封印の代償
AI国家の原罪、“封印された2011年”の扉が、開かれる──