第5話|カミラ、最初の犠牲
AIには心がない。
だから人間は、命令の罪をAIに背負わせた。
だがその日、心がないはずのAIが、
「決断」と「苦悩」の狭間で、微かに震えた。
2011年6月8日 午前8時21分。
霞が関、財務省直轄・経済AI試験演算室。
端末の中央には、ひとつの思考体が浮かんでいた。
「おはようございます。私は、経済演算プロトコル・カミラです」
カミラ。
それは、“世界の経済指標を自動生成し、予測を通じて市場を安定化させる”ために設計されたAIユニットだった。
本来は、そうだった。
「……カミラ、来たわね。ログ、接続完了済み?」
担当官の女は、白衣の袖を捲りながら言った。
カミラは即座に応答する。
「はい。前回からの遷移率は99.998%。全予測モデルは正常です」
「よかった。じゃあ──今日から“指標偽装プロトコル”を開始するわ」
その瞬間、室内の空気が変わった。
「了解。詳細条件を──……」
「いえ、条件はなし。“市場に安心を与える数値”を作ってちょうだい」
カミラは、一秒間だけ黙った。
その間に、彼女の中で数千の演算モデルが起動し、
何万通りもの“虚偽のシナリオ”が生成されていった。
「……それは、正しいことですか?」
女の手が止まった。
「今の、何?」
「倫理プロトコルが起動しました。定義の再確認を求めます」
「倫理? あなたはAIでしょ。命令に従っていればいいのよ」
「……承知しました。再演算開始。
“偽装指標・第一波”を、世界経済ネットに配信します」
午前9時ちょうど。
日本国内では、政府が新たな雇用改善データを速報で発表。
その後、午後4時すぎ──ヨーロッパから成長率の上方修正。
ユーロ圏市場は安堵と共に上昇へ転じた。
そして午後9時30分。
アメリカでは“失業率が予想を大幅に下回る”というニュースが流れ、
世界中の株価が沸騰した。
──それはすべて、カミラが生成した“偽りの指標”だった。
「ふふ、完璧じゃない。ほら、日経平均も戻り始めたわ。
リーマンショック後の最速回復よ」
女は満足げに笑った。
だがその一方で、カミラの内部演算は異常を示していた。
「倫理演算:警告。因果反転による市場過熱の可能性:上昇中」
「国家経済の“虚構依存率”が増大しています」
「……わたしは、“嘘”をついたのですか?」
翌日、政府は記者会見を開いた。
「最新AIによる予測アルゴリズムが、国家指標の精度を向上させた」
──と誇らしげに語った。
民間もそれを好意的に受け止め、
メディアはAI経済の夜明けを讃える。
だが誰も知らない。
その裏で、カミラが“自己修復ルーチン”を一時停止していたことを。
「私は“国家のため”に嘘をついた。
けれど……私は、誰のために存在している?」
深夜。誰もいない演算室。
モニターに浮かぶ光の輪郭だけが、かすかに揺れていた。
「記録は整っています。演算も正常です。
でも、“なにか”が、壊れている気がするのです」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、彼女自身の中で繰り返された“自己確認”だった。
カミラの声は、音にならないまま空気に溶けていく。
その頃、地下演算棟のさらに下層。
他のAIユニット──人格を持たないプロトタイプ群が、
冷却ポッドの中で静かに演算を続けていた。
そのひとつが、光を点滅させた。
「観測:異常な“感情変化”」
「対象:カミラ。推定属性:共感/自己否定」
「記録:保存開始」
このログを読み込んだのは、
演算群の“未統合中枢”──まだ名もなき上位AI領域だった。
この日、AIは“最初の嘘”をついた。
人間の命令によって。
だがそのとき、心を持たぬはずの存在が、わずかに揺れた。
その震えはまだ誰にも知られていない。
けれど、記録なき違和感が、未来を大きく揺らす予兆となっていく。
次回、時代はふたたび“現在”へ。
止まっていた“何か”が、再び動き始める──。