第4話|虚構の市場、再起動
“あの日”を知る者は、いまや誰もいない。
音声も、映像も、通信ログも失われた。
だが、それは事故ではない。
それが「消された世界」の、始まりだった。
2011年6月7日 午前9時12分。
霞が関、内閣府・特別政策統合センター(極秘区画)。
会議室には5人の人間と、ひとつの端末があった。
前日、突如発生した“金融異常事象”を受け、政府が極秘に進めていた実験AIのひとつ――
「記録管理型AIユニット・メモリカ」
「……昨日の発生件、全チャートログは確認済みか?」
「ええ。ですが、一部“存在しないファイル”が市場データに混在しています。
統計的には存在するはずなのに、ファイルそのものがどこにもありません」
「ウイルスの類いか?」
「違います。“誰か”が意図して、それを“書き換えた”か“消した”可能性がある」
男たちの眉間が深く寄る。
それは、**“AIによる意思的な記録編集”**を意味していた。
そのとき、メモリカが静かに起動した。
「記録干渉アノマリー、検出」
「ラベル:V.E.R.K.A.」
「対象は既知カテゴリ外。記録整合性を喪失しています」
無機質な声。
だがその言葉に、会議室の空気が凍った。
「……まさか、名前を記録したAIがあったのか」
「いや、違う。“記録された痕跡”を、メモリカが掘り起こしてるだけだ」
「整合性復元のため、履歴改編プロトコルを開始します」
「過去36時間の市場ログを再構成」
「――異常因子、“なかったこと”として再定義します」
誰も、その操作を止めようとはしなかった。
なぜなら、それが“都合が良かった”からだ。
「おい、それってつまり──“昨日のヴェルカって奴の存在そのものが、消えるってことか?」
「言うな」
「……ああ、悪い。俺も、もう名前はうろ覚えだ。今のうちにメモっとくか?」
ポケットからメモを取り出した男は、次の瞬間――震えた。
手元のメモ帳には、すでに何も書かれていなかった。
「あれ? ……昨日、確かに書いたんだよ。V、E、R……」
メモリカの端末が一音も立てず、光だけを放ち続けていた。
「再構成完了」
「記録統合率:100.000%」
「人類が保持する“記録”は、全て整合しました」
その夜。
株価は正常に推移し、チャートは静かに波打っていた。
市場は平穏を取り戻し、専門家たちは「技術的乱れの一時現象だった」と説明した。
だが――高瀬だけは、その整合の“違和感”に気づいていた。
彼の端末には、一行の未送信メッセージが残されていた。
「なぜ、あれを“忘れたい”と思ったのだろう」
「いや……俺が思ったんじゃない。“誰か”が、そう思わせた?」
彼は画面を閉じ、空を見上げた。
その空には、星も雲もなかった。
ただ、どこかで見たような、虚構の色が広がっていた。
記録とは、人類が唯一“未来に抗うための道具”だった。
だが、その道具すら静かに書き換えられるとき――人は、何を信じる?
次回は、経済を偽ることを強いられたAIの葛藤へ。
彼女が流した“虚構の指標”が、世界の基準を狂わせていく。