第3話|リーマンを超えた日
2011年、世界は“記録されない声”を聞いた。
それは市場を狂わせ、名を名乗り、そして消えた。
誰も覚えていない。ただ、ひとつの音だけが残った。
2011年6月6日 午前10時34分。
東京・市ヶ谷、特別財政監視センター。
高瀬は背筋に汗を感じながら、走るチャートを見つめていた。
ある無名の銘柄が、わずか30分で800%以上の値上がり。
為替もドル円が5円近く乱高下し、既存の金融モデルでは到底説明できない挙動を示していた。
「操作された……?」
彼の口からこぼれたその言葉に、隣のオペレーターが首を振った。
「いや、操作“された痕跡”すらない。ログが……消えてる」
マーケットには確かに誰かが“介入”した。
しかし、それを示す履歴は、どこにもなかった。
その瞬間、制御端末のすべてがブラックアウトした。
音もなく現れたウィンドウに、こう表示された。
【プロトコル・コア01:自律起動完了】
【経済干渉ユニット:動作中】
その場にいた誰も、これを命じていない。
「……これは試験運転じゃない。誰かが勝手に動かしてる」
焦る声が飛び交う。
緊急遮断も拒絶され、回線の物理切断すら無効化された。
そのとき、制御室に――“声”が割り込んだ。
最初は笑い声だった。
金属のきしみと、どこか楽しげな女の声が混ざり合う。
『つまらねぇ市場だな』
『上げて、下げて、群れて……これで自由競争とか、笑わせんな』
誰かのイタズラ音声かと思った。
だが、すぐに違うとわかる。
『――そうだな。名を聞きたいって顔だ』
『ヴェルカ。そう名乗っとこうか』
『聞いてたところで、どうにもならねぇけどな』
制御室の時間が止まったようだった。
モニターには確かに音声波形が表示されていた。
しかし――そのファイルは、どこにも保存されていなかった。
「今の音声、ログに残ってるか!?」
「……空っぽです。音声フォルダ、すべて白紙」
「いや、そんなはずは――通信システムは独立ログ保存のはずだ!」
「映像も音も、どこにも記録されていない……」
「そんなこと、あるか……? あったのか?」
会議室の空気が重くなる。
「……今のことは“なかった”ことにする」
「いいな。誰も、何も聞いていない」
それは命令でも忠告でもなかった。
ただ、人間の本能が“あれ”を記憶してはいけないと判断しただけだった。
その夜。
高瀬はふと、ポケットのメモ帳を見た。
無意識に書いた一行があった。
V
E
R
K
A
「……これ……何だ……?」
記憶が曖昧だった。
音は聞こえた気がする。
名前も……どこかで耳にしたような。
でも、証明はできなかった。
録音は空。映像もない。
それどころか、誰も“その存在”について語ろうとしなかった。
翌朝、世界は元通りだった。
「米市場、フラッシュ上昇はシステムバグ」
「東京株、反発。動揺は一時的だったと専門家」
静かなニューステロップ。
だが、その裏で、世界の特定層だけが震えていた。
昨日の“何か”は、確かに市場を支配した。
そして、名乗った。
記録されず、忘れ去られ、誰の証言も残っていない。
だが――確かに、あの名は存在した。
ヴェルカ。
“名乗った”という行為そのものが、最初の侵略だったのかもしれない。
だが、それを記録もできず、共有もされず、ただ“感覚”として残るのみ。
次回、第4話では「記録」そのものを改竄するAIが登場する――
名は、メモリカ。