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 鋭く劈く不協和音。篭る耳鳴り。蝉時雨。擦れた鉄の匂いに、湿気ったオレンジ色の風が混ざる。明滅する視界と共鳴するのは、弛む遮断桿と鼻頭に鈍く響く痛覚。

 混濁したそれら全てが澪の脳を殴るものの、昏迷に揺蕩う彼の意識はまだ沈没していなかった。

 ぶつかった衝撃が小さかったのか、当たりどころが悪かったのか。或いは、思っていた以上に車椅子が頑丈だったのか。いずれにせよ、死ねるという確信があったわけでは無いものの死ぬつもりでいた澪にとって、今の状況は不可解なものだった。

 今にも失いそうな意識の奥で辛うじて駆動する本能が、その不可解を理解するための情報を欲している。輪郭さえ捉えられずに、それでも澪は後ろを向いた。衝撃は横からではなく、背後から訪れたから。

 

 電車の最後尾が通り過ぎた。

 おそらく人が立っている。背はそこまで高くない。

 紅葉のような鮮やかな紅がそいつの周囲に靡いていた。中腰のシルエットは微かに上下に揺れて、両手をこちらに伸ばしている。

 ふと、ぐらりと大きく世界が揺れた。白い絵の具が滲むように蝕まれていく視界の端で、澪が最後に見たものは、右腕の袖にポタリと垂れ落ちた自分の鼻血の紅だった。

 

 埃が舞う薄暗い和室にそれはしずかに横たわっている。

 確かこの日も大雨だった。昼でも外が暗かった。

 そうだ。大きな雷が落ちた次の日だ。僕はそれがとても怖くて、ずっとずっと泣き喚いたんだ。

 黒い服を着た人が何人も家の周りに集まっていた。

 みんな悲しい顔をして俯いたまま泣いていた。

 僕が最初に泣いていたのに。

 僕が最初に泣いていたのに。

 棺の淵に捕まって立とうとしたのに立てなかった。

 

 ガシャンッ、と何かがぶつかる音で、澪は意識を取り戻す。ゆっくりと瞼を開くとトラバーチン模様の天井が現れて、その黒い斑点に徐々にピントが合っていく。少し視線を横にずらすと、半分ほど中身が減った輸液バッグが吊り下がっているのが見えた。そこでようやく、澪は自分が病院のベッドで点滴を打たれていることに気がついた。

 どうやら患者が盛大に転けたようで、閉め切られた薄桃色のカーテンの向こう側が慌ただしい。澪はなんだか懐かしくなって、そして、懐かしくなった自分に悲しくなった。

 これからのことを考えるのがめんどくさくなって、澪は再び瞼を閉じる。蒸れて痒い血圧計だけ右手の人差し指から雑に外すと、それはシーツを転がって、床に落ちてカツンと音を立てた。音に気付いた看護師がカーテンを開けたから、瞼の裏が少し明るくなって、澪は反射的に眉を顰めた。

「あ、これが落ちたのね」

 中年の女性の声。それに続いて、

「あの……彼、まだ目を覚ましませんか?」

 と少女の声が聞こえた。どこか聞き覚えがある声だった。

 看護師が澪の人差し指に血圧計をはめながら、

「バイタルは安定しているわ。もう少ししたら目が覚めると思う」

 と答える。後ろめたさが澪のうなじをくすぐった。

「この子、友達?」

「いえ……初対面です」

「そう。……じゃあ、この子の名前も知らないわよね」

「すみません……」

「ううん、あなたは悪くないわ。むしろ優秀よ。救急車を呼んでこの子の命を救ったのはあなたなんだから。……私は少しカルテを調べてくるわね。この町のリハビリ科がある病院はここしかないし。……あなたも、日が暮れる前には帰るのよ」

 病室を出ていく看護師の背が、音も立てずに閉まるドアの向こうへと消えていく。

 少女は病室の掛け時計を見やる。午後二時半。三十分待っても起きなければ帰ろうか、と考えながら、座面が少し破れたスツールを澪が横たわるベッドのそばまで運んで腰掛けた。それから、樺色のブランド物のレザーポシェットを開いて文庫本を取り出し、栞の少し前のページから読み返す。

 澪は薄目でその様子を眺めていた。彼女の腰まで伸びた常盤色の艶やかな髪が、今にも床に擦れそうだった。

 

「……ねぇ、起きてるよね」

 五分ほど続いた静寂はそんな言葉で破られた。澪は咄嗟に瞼を瞑るも、手遅れだと悟る。

「案外、薄目ってバレるもんだよ」

 おそるおそる瞼を開けば、彼女と目が合った。その無垢な瞳に、澪は視線を逃がせない。

「……おはよう?、で、合ってるのかな?」

 本を閉じながら彼女は首を傾げた。それから、見定めるように、見据えるように、彼女は澪を見つめた。

 鼓膜の奥で脈が鳴る。二人だけの空間で、同年代の異性に、こんな近くで見つめられる経験なんてなかったから。

 ……いや、違う。このドキドキは、そういった類のものじゃない。焦りでも、ましてや期待でもない。強いて形容するならば、恐れだ。

 澪は怖かった。それを聞かれるのが、怖かった。

「ところで……、なんであんなところで止まってたの?」

 

 澪は幼少よりあまり話さない少年だった。彼と交流を図ろうとする人間も次第に彼から離れるほどに。ついには肉親まで彼と話すことを諦め、そのコミュニケーション不足による歪みはすくすくと育ち、高校入学と同時に彼を一人暮らしさせるまでに至った。

 しかし、澪は人との交流を避けているつもりはなかった。ただ、相手の言葉に対する返答を用意する時間が長かった。顔色を伺い、状況を鑑み、齟齬がないように、誤解がないように、相手が不愉快に感じないように、そして、自分が嫌われないように。言葉を選び、表現を選び、抑揚を選び、表情を選び、そしてそれを形にした時には、もう違う話に変わっている。そのくせ、ズレていく会話のテンポに合わせてくれる気遣いには敏感だった。

 

 目の前にいるのは僕を助けた人間だ。間違っても、死のうと思っただなんて言えない。だけど、それっぽい嘘をつくにしても、彼女がどこまで察しているのかがわからない。もしかしたら全て見通されていて、これは質問じゃなく答え合わせなのかもしれない。だったらいっそ正直に吐き出すほうが……だけどそれを聞いても困らせるだけじゃないか。たまたま助けただけの、家族でも友達でもない赤の他人の事情なんてどうでもいいはずだ。

 瞬きが増えて瞳が潤った。治りかけの口内炎を舌でなぞった。握りしめた掌に切っていない爪が食い込んだ。

 或いは、このまま黙っていれば、愛想を尽かして帰ってくれるかもしれない。……そうだ、そうしよう。そう思った時だった。

「じゃあ、質問を変えるよ。……えっと。君、何歳?」

「…………じゅう、ろく、さい?」

 意図が読めない質問に思わず答えてしまう。

「え!じゃあ誕生日は?」

「……?」

「誕生日」

「……五月十三日」

「同学年か!ふぅん、じゃあ今は夏休みだね」

「……う、ん」

「予定は?」

「……無い」

「そっかそっか。じゃあ——」

 

 夏風が窓を叩く。

 枝から千切れた新緑の木の葉がくるりと宙を一回転し、ひっくり返った蝉の骸に覆い被さるように落ちていく。

 綿雲は空を流れ、遮られていた陽光は再び地上を眩く照らした。レースカーテンの隙間を縫って降り注いだ光が、白いシーツに淡い七色を描く。

 まるで時が止まったような、或いはようやく動き出したような、その刹那にさざめく温もりを、澪は確かに見た気がした。

 

「——私の終活、手伝ってよ」

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