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炎天は青を霞め、白々しく熱を吐いている。
空が綺麗と最後に思ったのはいつだろうか。それを思い出そうとして、やめた。憎むことさえままならず、怨むほどの気力も無いものの、やはり世界は愛せないし、愛すべきものだとも思えない。そんなことを考えながら、否、すでに考えていたことを何度もなぞりながら、現乃澪が乗った車椅子は畦道を転がった。手押しハンドルに引っ提げたビニール袋の中で、カップアイスは原型を失っていた。
世の中には、死にたいと思ったことが無い人間もいるらしい。
そのことについて、羨ましいでもずるいでもなく、寂しいと感じてしまった己が癪に障った。アイスでも食べて機嫌を直そうと出掛けたはいいものの、引き篭もりじゃない人間が猛暑に喘いで棒アイスを軒並み掻っ攫っていったのだろう、コンビニには一度も買ったことの無い、味の想像がつかないカップアイスしか残っていなかった。
ビニール袋がタイヤに擦れて、摩擦で小さな穴が空いた。そこからポタポタと溶けたアイスが滴り落ちる。それに気付いた時には、その甘い香りに誘われて小さな虫が群がっていたので、ビニール袋ごと傍に投げ捨てた。二百十円には収まらない虚しさが澪の胸に込み上がるものの、それで希死念慮が上書きされるならそれでもいいと思った。
その程度で上書きされるようなものでもないくせに。そう内側で籠る声に耳を塞ぐことにも億劫だった。
家に帰るのもめんどくさい、と澪は思った。というより、もはや全てがめんどくさかった。
洗濯機には昨晩回した洗濯物がまだ残っている。
シンクには水に浸けてさえいない食器が重なっている。
部屋の掃除などもう半年もしていない。辛うじてゴミ出しだけは不定期にしているものの、空間は色んな臭いが混じって独特の異臭を放ち、部屋にあるもの全てに染み込んでいる。当の本人はその臭いに気付いていないため、周囲の奇異の目の理由も自分が車椅子に乗っているからとしか考えていなかった。というより、己が被る全ての不条理は、己の障害に起因するものだと思っていた。
生きづらいのはこの身体のせいで。
死にたくなるのは理解してくれない周りのせいで。
生きるのがめんどくさいのは、世界が僕を否定するからだ。
その思考の沼に落ちれば落ちるほど彼はそこから抜け出せなくなった。孤独が堕落を後押しするから、彼はますます一人になった。世界に失望したと嘯きながらも心のどこかで新生活に胸を躍らせていた面影は四月の教室に置き残したまま、かつて友人候補として眺めていたクラスメイトは今や全員仮想敵だ。
そんなことなので当然夏休みも予定がなく、何をするでもない四十日間の猶予を持て余していた。
澪の杜若色の髪は寝癖がついたままで、襟口がヨレヨレの黒いシャツの肩元にはフケと瘡蓋が散乱している。痩せた白い肌に薄い無精髭を蓄え、深い隈を携えた容姿は一見十六歳には見えぬ風貌だった。路上のホームレスにも似たその雰囲気は光を失った瞳によってさらに鋭さを増している。骨に皮が貼り付いただけの細く青白い両足には無数の細かな裂傷痕が刻まれており、その足が収まっている靴は対照的に擦り傷一つ付いていない。
空腹が裏返った吐き気が喉を昇った。苦味を伴う酸が口内に広がる。しかし吐き出すものがそもそも入っていないため、その残滓は喉奥に留まり続けた。
このまま血でも吐いて死ねないかな、なんて自嘲を温い風が攫っていく。その行先を呆然と眺めていると、訳も分からず苦しくなった。
枳町は国内有数の観光都市だ。傾斜のある土地にオレンジ畑が列を成していて、少しなだらかな場所へ降れば商店街が立ち並んでいる。もともとは城下町で当時の町並みも残っていたが、十五年前の大洪水でほとんど流されてしまって今は見る影もなく、特産品の柑橘類を使って起こした復興事業が功を成し、現在は国内外から多くの観光客が押し寄せていた。商店街を更に南へ突っ切れば海を一望できるが、海上都市開発とやらで海岸一帯が封鎖されており、ここ三年ほど地元民の出入りは一切できなくなっている。時々自然保護団体やらNPOやらが反対運動を催しているが、ここ数日の酷暑には耐えかねたのか、空色の襷を掛けた人間は今日は一人として見当たらない。
澪の住むアパートは山側に位置しており、眼下に望む商店街の喧騒も耳を澄ましてようやく聞こえる程度であった。そこまでは下り坂一本道なので行くのは容易いが、帰路を思えば行く気も失せる。それに、枳町で遊ぶ場所など商店街付近くらいで、知っている顔にも会いやすい。
その賑わいの欠片が視界に入るたびに、澪の胸の奥がチクリと痛んだ。自分と体型が似ている同年代の人間にあり得たかもしれない像を重ね、息が浅くなる。
ただ、普通でありたかった。
普通の身体で、普通の家庭で、普通の学校生活を送りたかった。
叶わない願いも、埋まらない欠落も、自分ではもうどうしようもできない。何かを信仰するほどの気力も持ち合わせていない。
ふと立ち止まってなぜ生きているのかを考えようものなら、そこで澪の人生は幕を閉じてしまうだろう。縋るものも護るものも無く、めんどくさいとボヤきながら惰性で寿命を浪費する生活に纏う虚無は、首を括る理由に十分だ。
言葉にならない不快感は心臓の更に奥から全身へと広がって、指先の感覚は浮腫んだように曖昧に鈍る。直後、視界がぐらついた。澪は今日起きてからまだ一口も水を飲んでいない。今になってアイスを捨てたことを後悔した。
本能的に察した。
命の危機。
このままでは、僕は死ぬ。
今すぐ動かなければ。生き延びろ、という脳からの命令が全身を巡る。
家に帰れば水がある。ここから走って五分の距離だ。あぁ、それも、今は遥か遠方に感じる。
ふらふらの意識で前に漕ぎ進む。
耳鳴りに混ざるのは踏切の警告音。その時初めて、澪は自分が線路を横切っていることを認知した。揺れる視界の端っこで点滅する赤灯は、さながら死までのカウントダウンのようで。黄色と黒の境界も朧気に、遮断桿は定刻通りに道路を塞ぎ、ついに澪は単線線路の真ん中に取り残された。
まだ、詰んではいない。遮断桿は潜り抜けられる。一漕ぎ、二漕ぎ、前に進めば最悪の事態は免れる。だが、澪の腕は動かなかった。
ここで終わるなら、終わってもいいと思ってしまった。
希死念慮が常態化しても死ななかったのは、死ぬ方がめんどくさかったからだ。
生きていても良いことが無いと本気で思っていたけれど、それを口にして誰かにぶつけた事なんて一度も無かったけれど、ここ三ヶ月ほどは生きる上で最低限の事しかしてこなかったけれど、それでも最低限のことを辛うじて継続できたのは、その方が楽だったからだ。
しかし今、手段を与えられた。しかも、こちらから能動的に動く必要は無い。
何をせずとも終われるのなら、いっそこのまま終わってしまいたい。
ボヤけた世界はやっぱり青くて、そして太陽はやっぱり紅くて、耳鳴りが酷くてよく聞こえないけれど、多分近くで蝉が鳴いていた。
少し甘酸っぱい匂いの風が、澪の前髪を撫でるように梳いた。これから死ぬという実感も、その風に流されてどこかへ消えてしまった。
蚊の鳴くような掠れた声で、澪は言葉を絞り出す。
世界に向けて、自分に向けて、最期の言葉を絞り出す。
「……ざまぁみろ」
人けの無い踏切で、車椅子に乗った少年が佇んでいる。
彼に気付いた電車の運転手は咄嗟に非常ブレーキを掛けた。
だが遅過ぎた。空走距離は物理法則に則って、彼の百メートル先まで続くのだから。
けたたましい摩擦音に火花を散らして、その鉄塊は今、彼を轢き潰す——
——はずだった。