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その翌日、事件に少しだけ動きが見られた。殺害された神田良子の夫・恭介のアリバイに食い違いがあることがわかったのだ。事件の起きた当日の夜、恭介とともに札幌に同行した恭介の部下・三浦雅哉(29歳)へ三橋たちが聞き込んでみたところ、2人は確かにその日の昼間一緒に札幌で仕事をした後、夜に同じホテルの別々の部屋へ入り、翌日一緒にホテルをチェックアウトして、飛行機で東京に戻って来たことは事実だと言う。だが恭介の言うように、夜すすきのへ一緒に飲みに出かけ、風俗で遊んではいないとか。
「天気がよければ、そういうこともできたかもしれませんが、でもあの日の夜はひどい吹雪でして。とても外に出る気はしませんでしたよ」
ということで、その夜は三浦はホテルで缶詰めになっていたと言う。
「もっともあの人は何してたかは知りませんよ。あの人、札幌に愛人がいるんですよ。元AV女優で札幌のストリップ劇場で踊り子やってるんですけど、このことは内緒だって言ってましたからね」
もう一度その証言の裏を取るために、三橋は神田恭介の下へ聞き込みに出かけた。
「ま、嘘を吐いてたにしても、事件当時は札幌にいたのは間違いないでしょう」少しだけ元気を取り戻した海老名が言った。「夜遅くにこっそりと飛行機で東京に戻って良子を殺害した後、翌朝一番の飛行機でまた札幌に戻ることもできたかもしれませんが、猛吹雪で飛行機が欠航してたという話じゃないですか。それならば無理ですよ。あまり重要なことじゃない」
「でも恭介の指示で殺害を実行した第三者がいるんじゃないかな?」と藤沢係長が言う。
「俺はそうは思えませんね。その第三者も良子とある程度親密な関係がなければ、入浴中のところを襲えない。そんな男がいるのなら、暴力を振るってでも妻を独占したいって気持ちもないでしょう。それより俺としては、最初に容疑者として浮上した飯田泰徳がすごく気になるんですよ。まだ一度も飯田と話をしたことがないんだけど、何とかして飯田に会えないかな?」
蟹江から手帳を取り戻して改めて今回の事件のおさらいをしてみると、やはり手帳があるのとないのとでは、大きな違いがあることを海老名は痛感した。まだ犯人の目星がついたわけではない。だが蜃気楼のようなおぼろげな予感に、はっきりと輪郭が出てきた。事件の重要な鍵を握っているのは飯田ではないか?
昼過ぎ、海老名は飯田泰徳の自宅を訪問した。海老名の訪問に対して母親の陽子はなかなか首を縦には振らなかったが、別に泰徳さんを逮捕したいわけじゃありません、泰徳さんは無実です、その泰徳さんが犯人ではないことを立証するためにここへ来たんです、と説得されると、陽子はようやく頑なに閉ざしていた心を少しだけ開いてくれた。
飯田の自宅の部屋は狭く、小さな居間にはホットプレートが付いた必要以上に大きなテーブルが部屋の大半を占めていた。そのテーブルに椅子が4つあり、1つには海老名が、その向かい側には泰徳、泰徳の右隣に陽子が座る配置になっている。
「まずお断りしておきますが」陽子は海老名をにらみつけながら言った。知的障害の息子を育てたという苦労が顔にしわとなって刻み込まれている。「ヤックン……いや、泰徳は人を殺してはいません。一言でも人殺しのことを泰徳に質問した時点で、刑事さんにはここから出てってもらいます。よろしいですね?」
やや刺々しい雰囲気の中で聞き込みが始まった。仏頂面の陽子に対し、泰徳は小動物のように怯えたまま海老名の目を見ないようにしている。子供の知能のまま大人になった、どことなく志村けんに似た風貌。毛の薄い頭髪に顔一面の無精ひげ、右の頬にあるほくろ。「変なおじさん」そのまんまだな、と海老名は改めて思った。
「まず始めに」海老名は質問を始めた。「泰徳さん、あなたは神田良子という女性を殺してはいませんね?」
それに対して泰徳は激しく首を横に振った。
「ヤックン、殺してないんでしょ? そういう時は首を縦に振るの」
母親にそう言われて、泰徳は今度は上下に大きく首を振る。
「でもあの猿みたいな顔した刑事さんいるでしょう?」と海老名。猿みたいな顔した刑事とは小室のことである。「あの刑事さんに『あなたは人を殺しましたね?』と言われて、あなたは『はい』と言いましたか?」
泰徳はまた縦に大きく首を振ったが、急に思い直してまた激しく横に振った。
「『はい』と言ってないんですね? それならば、神田さん殺害はどうやって自白したんですか?」
質問の意味がよくわからなかったのか、泰徳は小刻みに震えたまま反応がない。
「例えば刑事さんが紙に何か書いて、これこれこのようなことをあなたは認めますね?と聞いてきた。そしてその紙にあなたの名前を書くように言った。そこであなたはその紙に自分の名前を書いた。そういうことなんでしょうか?」
今度は泰徳は「そうだ」と言わんばかりに首を上下に大きく振って応えた。
「まあ。泰徳はそういうことで犯人にされようとしてたんですか」陽子が憤りながら言った。「人権侵害で告訴しますよ」
「お母様、どうか静粛になさってください」と海老名がなだめた。「私も推測で質問をしたんです。おそらく色々と誤解や手違いが重なったものと思われます。悪気はなかったんじゃないでしょうか? 告訴しても却下されると思われるので、どうかそれはご勘弁ください……さて、次の質問に移りたいと思います。泰徳さん、あなたは殺害された神田さんに会ったことはありますか?」
泰徳は大きくうなずいた。
「どこで見ました?……わからない? 例えば道を歩いてるところを見たとか、ベランダにいるところを見たとか、とにかく見たことがあるんですね?」
泰徳は大きくうなずいた。
「神田さんのことをどう思います?」
泰徳は黙ったまま反応がない。
そこで海老名は自分のスマートフォンを起動すると、神田良子の画像を出して泰徳に見せた。田中里美から提供されたものだ。去年の夏に花火大会で撮影したものだとか。背後には浴衣姿の女性も写っているが、良子は白いTシャツにジーパン姿。「この女性のことですが……この女性を見てどう思います?」
泰徳は言葉が見つからないらしく、目で母親に助けを求めてきた。
「いいのよ、ヤックン、思ったとおりのことを言いなさい」と陽子が言った。
「ちんちんが大きくなった!」泰徳は海老名の前で初めて言葉らしい言葉を口にした。
「駄目でしょ、そんなはしたないこと言っちゃ」と陽子がたしなめた。つい今さっき「思ったとおりのことを言いなさい」と言ったばかりなのに。
「いや、いいんですよ、思ったとおりのことを言ってくれて、こちらとしては大歓迎です」と海老名が泰徳を弁護する。「神田さんに対してそんな感情を抱いたんですか。なるほど。ところで神田さんの家がどこにあるか知ってますか?」
泰徳は大きくうなずいた。
「神田さんの家に行ったことはありますか?」
泰徳はまた大きくうなずいた。
「家の中に入ったことはありますか?」
泰徳は大きくかぶりを振った。
「わかりました。次の質問に移ります。この女性は見たことがありますか?」
と言って海老名は自分のスマホをスクロールして見せた。そこに写っているのはモデルらしいポーズを決めた、ビジネス用のスーツ姿の田中里美。
泰徳が再び怯えた顔付きをして、戸惑いの表情を浮かべている。
「この女性を知ってますね?」と海老名。
「ボクを逮捕した女」と泰徳はつぶやいた。
「そうです。正確にはあなたを警察に通報した女性です。この女性に最近お会いになりましたか?」
泰徳は大きくうなずいた。
「どこでお会いになりましたか?」
「さっきの女のうち!」
「神田さんの家で見たんですね? それはいつのことですか?……わからない? いいでしょう。この女性はさっきの女性の部屋の前で何をしてたんですか?」
「中に入った。そして出て来た」
「神田さんの部屋を出入りしてたんですね?」
泰徳は大きくうなずいた後、「うちでも見た!」
「『うち』ってどこのうちですか?」
「ここ!」
「ここの部屋ですか。この部屋のどこで見ましたか?」
「ベランダ!」
「ベランダにいたんですか。それはいつのことですか?」
「夜! おしっこに行ったら、音がした。ボク、カーテンちょっと開けた。あの女がいた! 光る物持ってた!」
「光る物って、包丁のような物ですか?」
泰徳は大きくうなずいた。