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 池袋北署捜査1係は、釈放された飯田泰徳やその母親である陽子に聞き込もうとしたが、陽子に拒否された。泰徳はまだ釈放されたばかりなんだし、警察に対する不信感も増した、しばらくの間はそっとしておいてくれないか……飯田陽子は知的障害の息子を育てたという苦労もあってか、かなり気が強いらしい。事件の解決にはまだ時間がかかるように思われる。

 だが悠長なことも言っていられない。海老名は蟹江に飯田陽子を説得するように言ってみようとしてみたが、その蟹江は重要参考人として署に連れて来た戸田和行の事情聴取にかかりっきり。取調室からなかなか出て来ない。そういえば今日は蟹江とほとんど口をきいていないことに海老名は気づいた。何だか海老名を避けているような……気のせいかもしれないが。

 飯田の周辺を色々と探っていたところ、新たな事実が発覚した。飯田が過去に公然猥褻(わいせつ)罪で逮捕された時、警察に通報したのが今回の事件の第1発見者である田中里美だったのだ。田中は聞き込みに際し、飯田の噂を耳にしたことがあるが会ったことはない、と海老名に言っていたはずである……海老名の記憶違いかもしれないが。手帳を紛失した今となっては、その証言も本当に事実だったのかどうかは少し怪しい。手っ取り早いのは同行した蟹江か、勝手に付いて来た丸出に聞くのが一番なのかもしれないが、その蟹江は相変わらず忙しくて、なかなか会えない。蟹江には話したいことが山ほどあるというのに。

 記憶があいまいなままではあるが、もう一度田中に聞き込みをしてみることにした。

 「確かにあの変なおじさんが私の部屋まで付いてきて、目の前でズボンまで脱いだんですよ」田中がうつむき加減でそう言った。「だから私、警察に通報したんです。あまりにもいかがわしい、思い出したくもない記憶だったんで、忘れることにしてたんです。でもあの時良子の部屋から出てきた人がその人だったのかどうか、それは自信が持てません。何となく顔立ちが似てるような気がしたというだけでして……とにかくパニクってましたからね」

 「なるほど、それ以上はその人のことはよく知らない、思い出したくもなかった、ということなんですね?」と海老名が念を押した。

 「話は変わりますが、あなたが所属している事務所の社長が今、署で事情聴取を受けています」海老名と同行した新田が言った。「社長にはサディズムの性癖があるそうです。そのことはご存じでした?」

 「え? そうなんですか? 全然知らなかった」田中が意外そうな表情で言う。

 「ちなみに社長はデリヘル嬢を自宅に呼んでいたそうでして、その中にはあなたの親友である神田良子さんも含まれてました」

 「そうなんですね。良子からそんな話は全然聞いたことはないです」

 「神田さんがデリヘルをしてたのはご存じということですが、SM趣味を持つ顧客がいるなんて話はされてましたか?」

 「いえ。デリヘルの話は漠然としかしてませんでしたからね。お客とどんなことをしてるかなんて聞いたこともないし、聞きたくもなかったですから。デリヘルなんてやめた方がいいよ、って何度も忠告したんですけど」

 「そういえば田中さん、この前ここに来た時、あのたんすの上に神田さんとの昔の写真がありましたよね?」海老名が田中の後ろにあるたんすを指差しながら言った。「見当たらないんですけど、どこにやったんですか?」

 「え? あの写真ですか?」田中が後ろを振り向きながら言う。「本当だ、どこに行っちゃったんだろう? さっき部屋の中を掃除したから、その時にどっかへ移動したらそのままになっちゃったのかもしれませんね。後で探してみます」


 「何となく引っかかるんだよな。何が引っかかるのか、よくわからないけど」帰りの車の中で助手席の海老名が言った。「ああ言葉が出てこない。もどかしいな。今回の事件で何となく蜃気楼みたいなものが目の前にはっきりと見えてるのに、その蜃気楼しんきろうが何なのか、はっきりと形になってない」

 「手帳さえ見つかれば、はっきりとわかるかもね。どこに行っちゃったのかは私知らないけど」新田が車を運転しながら言う。「ま、田中里美の件は問題なし。それより神田恭介の周辺がまたきな臭くなってきたじゃん。そっちの方が気になるんだけど」

 殺害された神田良子の夫である恭介。その恭介が役員を務める会社の年度末決算が発表されたのだが、前期と比べて利益が大幅な赤字になっていたのが発覚したのだ。莫大な広告宣伝費を投じて、テレビやインターネットなどで派手な宣伝をしていたにもかかわらず、それが売り上げや利益にはなかなか結び付かない。会社としてもここ最近はかなり落ち着かない状態であったのではないか、と予想される。もちろん恭介の精神状態も。そのような中での妻の死。ここに来て良子の殺害に関して、恭介が何らかの形で関わっているのではないか、と言う意見が再浮上し始めた。早速三橋たちが周辺を洗っているところ。


 その日の夜遅く、蟹江は池袋北署を後に帰宅を始めた。署を出るとすぐに人影が蟹江に追い付く。

 「警部補殿、駅まで送ってってやろうか?」海老名は陽気に声をかけた。「夜道は暗いよ。警官といえども女1人じゃ心細いでしょ? 夜の池袋は危険がいっぱいだからね。狼とか熊とか虎もいるし、ゾンビやお化け、強盗、追剥おいはぎ、ヤクザにチンピラ……そうそう、鍋で長時間揚げたような脂症の男とか、すりまでいるよ」

 「すり」という言葉を発すると、蟹江の肩が小刻みに動いたように思えた。

 「あ、紗香さやかなら、すりなんて怖くないか。すりが怖いのは俺の方だったりして。何しろ俺、手帳盗まれちゃったからね。もう警官失格。すられたみたいなんだよ」

 「ふうん、そうなんだ」と蟹江は小さな声で言う。「でもいいよ、エビちゃん、私1人でも歩けるし。それにエビちゃん家って反対方向でしょ?」

 「俺は別に構わないよ。いい運動になるしさ。それにちょっと話したいこともあるしね。だいたい今日1日、俺たち、ろくに話してなかったじゃん。同じ建物の中にいるのにさ」

 「そうね、今日はお互い役割が色々と違ってたから」

 「あの脂症のサディスト、結局嫌疑不十分で釈放されちゃったしさ、丸出の名推理がまたまた空振りに終わっちゃったもんね。戸田の事情聴取どうだった? あいつにじーっと見つめられること自体が拷問だったんじゃないの?」

 「うん……」蟹江はそう言って黙り込んだ。

 「紗香、今日は随分と無口じゃん。勇気が寝込んでるのが、そんなに心配か?」

 「それもあるけど……」

 「あ、わかった。さては男ができたな。ま、もう俺たち別れたから、別にお互い新しい相手を作ったって怒るような仲じゃないけどさ……どんな男だ? まさかすりが得意ってんじゃないだろうな?」

 蟹江が突然、歩みを止めた。

 「エビちゃん、もう気づいてると思うんだけど……エビちゃんに隠してることがあるの」

 「へえ、やっぱり男ができたんだ、それもすりが得意な男とか」

 「男じゃないけど、私にそっくりな女」蟹江が恐る恐る口にする「鏡で写したように私と瓜2つなんだけど、彼女……エビちゃんの手帳をこっそり手に入れたんだって」

 「やっぱりそうか」海老名は急に真顔になって言った。「おとといの今ごろ、おまえが急にふら付いて倒れそうになった時、いっそ身体を抱き止めない方がよかったのかもしれない……丸出に頼まれたんだな? 俺の手帳をすって何をしたかったんだ?」

 「丸出、エビちゃんを出し抜きたかったんだって。エビちゃんならすぐに犯人の目星を付けるだろうから、そうなる前に自分が手柄をたてたいって。エビちゃんの手帳を見れば優れた材料が見つかるだろうから、ぜひ手帳を手に入れてくれ、さもなくばあのことをマスコミにリークするぞって……」

 「紗香、おまえ、あの程度のことを秘密にしてまで出世したいのか。俺の手帳を盗んでまでさ。あの程度のことがおおやけになったところで、どうってことないじゃん。おまえのあの変なくしゃみのせいで、同僚が1人出世街道を外れたことなんか。あれはあの課長が勝手に勘違いしたことに過ぎないんだから」

 「そのことだけじゃないの。私、エビちゃんに……いや、このことは誰にも知られてないはずだったんだけど、丸出だけはなぜか知ってて……私、とんでもないことをしてしまった。というより、誰にもばれないと思ってたのが大間違いだった。私……」

 蟹江がひた隠しにしていたはずの秘密とはこうである。これは警視庁本庁へ移動する前、板橋いたばし西署にいた当時の話。一ノ瀬留衣のAVを夫だった海老名が隠れて見ていたことを知り、改めて自分の貧乳に劣等感を持った蟹江は、インターネットの通信販売を通じて貧乳矯正器なるものを買ってしまった。価格は5万円……だと思っていたら、0の桁が1つ多く、50万円だったことに後で気付く。だが気付いた時には後の祭り。器械を実際に使用しても全く効果はなく、詐欺で訴えようにも、購入した商品の内容は恥ずかしくて他人には話すこともできない。分割払いだし、家計に興味を示さない夫の海老名に発覚することはないだろう。だがあまりにも自分の行いと器械そのもの、その器械を販売した業者に立腹し、個人負担で支払いたくない、と思えてきた。そこで蟹江は空調査を繰り返して、架空経費を板橋西署に申告し始めてしまったのだ。50万円はこれで何とか帳消しにはなった。だが板橋西署から横領した50万円のことが知られたら、出世どころの話ではない。

 海老名は開いた口がふさがらなかった。

 「紗香、おまえ……知らないぞ、俺は。俺のせいじゃないからな。このことがばれても俺たちもう夫婦じゃないんだし、かばってやんないぞ。今の話は聞かなかったことにする。おまえ、本当に馬鹿だな。おまえのやったことに比べれば、俺がAV見てたことなんて安いもんだろ」

 「みんなエビちゃんが悪いのよ。エビちゃんが一ノ瀬留衣のAVなんて見てたから。貧乳の女は嫌いなんでしょ?」

 「だからそうじゃないって。何考えてんだ、おまえ」

 「ああ、でも私が馬鹿だった。私自身を半透明のポリ袋に入れて、燃えるゴミの日に出してしまいたい」

 「それで。俺の手帳はどこにやった?」

 蟹江は自分のハンドバッグを開けると、海老名に手帳を渡した。

 「確かに俺の手帳だ。神田恭介の特徴についても書いてある」海老名は自分の手帳をパラパラとめくりながら言った。「『高みに上りつめて天使にでもなったような顔付き』。こんなこと手帳に書くのは俺ぐらいなもんだ……なあ、紗香、もっと肩の力を抜けよ。出世なんてやめちまえ。俺だって人のことは言えないけど、勇気の世話だって義母かあさんにまかせっきりなんだろ? これからは俺ももっと身の周りのことに気を遣うからさ、もう一度やり直さないか?」

 思わずそのようなことを言ってしまった。海老名は今でも蟹江に未練があるのだ。蟹江は押し黙ったまま立ちすくんでいる。2人の間を通り過ぎる気まずい沈黙。お互い夫婦であったなら、その前に恋人同士であったなら、ある種の甘美なほろ苦さを感じたであろうような、そんな沈黙。

 「エビちゃん、私たち、もう元には戻れないの。それだけはわかってほしい。確かに今回のことは謝っても許されないことはわかってるけど。でも一度床に落ちた私たちの関係は、接着剤を着ければ元に戻るように装えても、間の亀裂だけはどうしたって消すことはできないんだから。だからお願い。二度とそんなこと言わないでくれる?」

 蟹江は今にも泣きそうな顔で言った。

 「もうここで別れましょう。付いて来ないでね」

 そう言うと蟹江は走り去って行った。

 後には海老名が1人、呆然と取り残された。


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