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 昼前。残り4時間。捜査は相変わらず足踏み状態が続いていたが、ここで思わぬ助け舟が入った。午後1時から捜査会議を招集する、飯田泰徳に対する正式な逮捕は一旦白紙に戻して釈放する、というもの。どうも丸出為夫が捜査方針に異議を唱えたらしいのだ。

 「捜査方針に異議を唱えたって……どんな異議なんですかね?」大森が首を傾げながら言う。

 「あいつのことだから、どうせろくな異議じゃないだろう」海老名が嘲笑しながら言った。「今回の事件では私の存在感が薄いですぞ、ここで私なりの意見を言わせて、花を添えてくださいな、とか何とかさ。ま、あいつの意見なんてケツの穴より価値のないものだからな。花を添えたらしおれちまうぜ」


 捜査会議が大会議室で始まった。署長の隣には丸出為夫が、そしてさらにその隣には、これまた場違いな人物が座っている。

 精神科医の和戸わどたける。通称ワトソン。丸出の親友であり、池袋駅近くの丸出の住居でもある「わどメンタルクリニック」の開業医。三船敏郎に似た強面の外見と野太い声。だがその外見とは裏腹にオネエ言葉を話す。男言葉を話す美貌の妻との間に3人の子供がいる。前々回のあの屈辱にまみれた事件では、ある意味で重要な役割を演じたことも。そんな和戸がなぜこの場にいるのかはわからないが、明らかに場違いな所にいるせいか、威風堂々と着席してはいるものの、目付きはどこか落ち着かない。

 まず河北署長が、なぜこんなことを説明しなくてはならないのか、とばかりに会議開催の経緯を異様に面倒臭そうに説明した後、「丸出先生の強い要請により」、今回の事件に関して「心理学・精神医学に詳しい専門家」として、和戸を刑事たちの前で紹介した。なぜかここで、和戸尊による犯罪心理に関する講義が始まることとなってしまったのである。

 「まず最初に、みなさんにお断りしておきますが……」和戸はぎこちなく自己紹介を始めた。「私は犯罪心理の専門家ではございません。精神科を専門としておりますが、池袋駅前で小さなクリニックを開業している単なる町医者です。今日ここへ来たのも為夫ちゃん……じゃなくて、丸出さんの要請です。みなさんのお力になれるかどうか、いささか恐縮ではございますが、どうか私なりのささやかな私見をお聞きください」

 そう言って和戸の講義は始まった。知的障害者が殺人を犯せば、どのような行動をとるのだろうか、ということについて。今回の事件に関して現在までにわかっている範囲内で、真犯人はどのようなことを考えているのかについて。その内容は「犯罪心理の専門家ではございません」と謙遜する前に、刑事なら最低限誰もが知っているような心理学の基礎入門の範囲を超えない、退屈なものであった。しかも例のオネエ言葉は封印。本庁の刑事たちは居眠りを始めたり、小声で雑談をしたりしている。オネエ言葉でも使って話をした方が、和戸を知らない刑事たちにもいい刺激になったのかもしれないが、和戸の様子も丸出に連れられて嫌々話をしているのが一目でわかるほど、緊張感が冷や汗にまぎれて流れていた。ひととおり講義が終わると、心理学を理解できるとはとても思えないバカの丸出までが不満の声をあげるぐらい。

 「ワトソン君さ、何か言葉が堅苦しいな。象形文字で話をしてるみたいだったよ。もっと丸みをつけて話せないもんかね?」

 「そんなこと言ったって為夫ちゃん、あたし、こういう場で話すことなんて初めてなんだもん」和戸が小声でささやく。「何か粗相そそうをしたら逮捕されちゃうわよ、あたし。もう緊張しちゃって緊張しちゃって。早く帰りたいわ」

 次に始まったのは自称名探偵・丸出為夫による自称名演説。和戸とは対照的にその演説ぶりは堂々たるもの。すっかり自分に酔いれている。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草。舞台の上で独り長広舌ちょうこうぜつを振るう名俳優になりきったつもりでいる、季節外れのうるさいアブラゼミのよう。

 「私が色々と調べてみたところ、犯人は飯田泰徳ではありません。それは今ワトソン君が述べたとおりです。それよりも神田良子の顧客であった戸田和行こそが真犯人ですぞ。それはなぜか? 戸田がサディストであるからですよ。みなさん、サド侯爵の著作はお読みになったことがあるでしょうか? サディズムの語源となった作家のことです。サディストというのは相手に暴力を振るって、相手が苦しみ悶える様子を見て性的快感を覚えるものなのです。戸田も神田に暴力を振るって苦しむ姿が快感であるらしかったですな。相手が苦しみさえすれば、どんな苦しみですら快感なのです。たとえその苦しみが死に至る苦しみであったとしてもです。神田は刃物で刺されて殺された。戸田はなぜ神田を刺殺したのか? 神田の死ぬ直前の苦しみを見たかったからですぞ。そのようなものを見たがるサディストというのは、サド侯爵の著作にたくさん出てきますからな」

 ほう、あいつ、サドなんて読むのか。海老名は少しだけ感心した。確かにサドの著作には、相手が死ぬ直前の苦しみを見て喜ぶ男たちも出てくる。「この女の子の首を切り落としてみたいな」なんて言う者も。シャーロック・ホームズの生まれ変わりを自称しながら、シャーロック・ホームズなんてろくに読んだこともない丸出にしては、上出来な演説だ。演説はしつこいぐらいに続く。

 「なぜ戸田は人を殺してまで快感を味わいたいのか? それは彼の容姿にも原因がありますな。戸田は容姿が醜く劣等感を持っている。その劣等感のはけ口がサディズムなんですぞ。極めてゆがんだはけ口です。何しろ彼はひどい容姿の持ち主ですからな。ハゲでデブで顔も不細工。おまけに鍋で長時間揚げたような脂症……」

 あ! 海老名は思わず大声で叫びそうになった。「鍋で長時間揚げたような脂症」、そんな言葉を手帳に書き込んでいたのをはっきりと覚えていたからだ。そんなひねった表現を使う刑事なんて、海老名以外では蟹江ぐらいしかいない。バカの丸出の口からそんな表現を今まで聞いたことがなかった。ということは、やっぱり俺の手帳は丸出にすられたんだ。でもどうやってすったのだろう?

 「ということで、犯人は戸田和行で決定です。今すぐ戸田を逮捕しましょう」

 「丸出先生、俺の面子を潰す気ですか?」小室が不満の声を挙げる。「飯田は自分が殺したと自供してるんですよ。おまけに奴の部屋から物的証拠も押収してる。その飯田は犯人じゃない、釈放しろなんて正気の沙汰じゃないですよ」

 「小室さん、マミコちゃんのことを奥さんに話してもよろしいですかな?」

 「ああ……わかりましたよ!」小室がやけくそになって言った。「そこまで言うんなら先生の方針に従いますから。その代わり、飯田は釈放しても重要参考人であることに変わりはありません。張り込みを付けてください! ねえ、本部長」

 「それはもちろんです」と署長が言った。「飯田泰徳は釈放します。その代わり戸田和行を重要参考人として署に同行させましょう」


 「本当に戸田が犯人なのかな?」会議終了後、新田が自分の席でつぶやいた。

 「犯人なわけないだろう。真実は丸出の言うことと違うことが正しい」藤沢係長が吐き捨てるように言った。「確かに戸田はサディストだし、そのことを頼みもしないのに自分から堂々と自慢をしてるぐらいだけど、ある程度手加減してはいるらしいからな。相手が死ぬ直前の苦しみを見て楽しむ性癖があって、実際に神田良子を殺害したのなら、自分がサディストであること自体を隠し通そうとするだろう。それに神田の部屋には行ったことがないって言う話だし、大抵は戸田が自宅に神田を招き寄せてたらしい。デリヘルなら普通はそういうものだろうさ。いずれにしても戸田は容疑者から外してもいいと思う」

 「でも捜査は振り出しに戻っちゃいましたよね? 真犯人は誰なんだろう?」大森が言った。

 「入浴中の神田良子が気を許す人物、飯田泰徳の部屋に包丁を置いていく人物……ここからどんな人物像が思い当たるだろうか?」

 「飯田に何か恨みがある人物じゃないかな?」と新田。

 「あるいは飯田を利用しようと軽く考えた人物。どうせ飯田は近所でも有名な知的障害者なんだし、逮捕歴もある。この飯田のせいにすればいいや、とでも考えたんでしょう」と大森。

 「いずれにしても飯田の周辺をもっと入念に洗ってみる必要があるな。飯田やその母親にも聞き込んでみる必要がある」と係長。

 一方、海老名はみんなの会話を聞きながら別のことを考えていた。全く個人的な考えを。例の手帳を丸出はどうやって俺から手に取ることができたのか? 昨日1日、戸田に聞き込んでから手帳がなくなっていることに気づくまで、丸出の顔は見ていない。その間に俺の手帳をすることができたのは、第三者がいたからではないか? その第三者が丸出に頼まれて手帳をすった。その第三者とは……まさか! そんなはずがないだろう!


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