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 海老名が戻ると、この時間にもかかわらず、捜査1係の主だった面々もまだ待機していた。

 「残り19時間」藤沢係長が仏頂面のままつぶやいた。「飯田泰徳が犯人である証拠は、強要されたかもしれない自白と、誰かに仕組まれたかもしれない押収物だけ。知的障害者だからといって殺人の罪を犯さないとは限らないが、どうもすっきりとしないな。エビ、何か飯田の犯行を覆すような情報を手に入れてきたか?」

 「あまりかんばしい情報は手に入りませんでしたね」海老名がため息まじりに言った。「今聞き込みに行ってきた戸田和行が、サド侯爵の生まれ変わりと言ってもいいようなサディストだった、というぐらいしか興味深い情報は手に入りませんでした。この手のサディストをみんな疑ってかかったら、どこの刑務所もSMバーだらけになっちゃいますよ。もう時間がないのに、欲しい時間だけはタンク10杯分ありますね」

 「わかった。とりあえず戸田に関して詳しいことを話してくれ」

 「まず戸田と神田良子との関係についてですが……」ここで海老名は戸田の聞き込みの際にメモした手帳を取り出そうと、スーツの内ポケットに手を突っ込んだ。

 あれ? 手帳がない。

 ここで順調に飛行していた海老名の気分が乱気流に巻き込まれた。右側の内ポケットに手帳がない。左側の内ポケットにもない。外ポケットにもズボンのポケットにもない。おかしいな。どこでなくしたんだろう? スマホはある。財布もある。貴重品はいつもの入れるべき場所にきちんと入っているのに、なぜか手帳だけがない……

 「どうしたエビ、まさか手帳をなくしたんじゃないだろうな?」係長が聞く。

 「そのまさかだったりして」と新田が口を挟んだ。

 「ああ……手帳の奴、今ちょっと便所にでも行ってるんでしょう。どうでもいい落書きは便器に捨てようと思って」と海老名は言い訳をする。「まあ、あまり有力な情報とも言えないんで、俺の記憶してる範囲内で話をしてもいいですかね?」

 ということで手帳に記した詳細を見ずに、海老名は話をすることになってしまった。手帳に記さずとも覚えている内容は水道水のごとく口から流れてきたものの、話をしながら気分は落ち着かない。いったいどこで手帳を落としたのか? 口を動かしながらも、そのことばかりを考えていた。

 「へえ……ということは神田のスマホに残されてたデリヘルの顧客リストを、しらみ潰しに調べるしかないのかな?」隣の席で大森がやりきれなさそうな表情で言う。

 「それも必要だが、問題はもし飯田が犯人じゃないとして、自宅のベランダに包丁を置いておくとしたら、犯人は何のために飯田に濡れ衣を着せようとしたか、かもな」と係長。「飯田の周辺をもっと洗い出してみたら、意外と犯人を割り出せるかもしれない」

 「飯田に自白を強要させたかもしれない小室とかいう人、ひょっとしたら飯田と繋がりがあるかも」と新田。

 「それはないと思います」警視庁捜査1課から池袋北署に左遷されてきた三橋天真みつはしてんまが、表情を変えずに言う。「小室さん、僕も一緒に仕事したことがありますが、あの人はとにかく出世欲の塊みたいな人なんですよ。結果を急ぎ過ぎて誤認逮捕寸前の事故を何度も起こして、要注意人物扱いされてるような人ですからね。僕はあの人と飯田との間に何らかの関係があるとは思ってません」

 「なるほどな。だが今夜のところは、いつまでもここでぐずぐずしててもしょうがない。今夜中にやれるべきことはやってみよう」係長が言った。


 海老名は気分がすぐれないという理由で早退した。自宅に戻って酒を飲んでも気分は落ち着かない。息子の勇気が熱を出して寝込んでいる、ということだけではなく、なぜ俺は手帳をなくしたのだろう? 何か重要な物をなくすなんてことは、海老名には滅多にありえないこと。あれから自分の服やかばん、自分の席の周りや引き出しを入念に探し回り、蟹江と一緒に乗った覆面パトカーの内部まで調べてみた。屈辱感だけが海老名の顔面を激しく蹴り続けている。

 少なくとも戸田和行に聞き込んだ時には、手帳を手にして書き込みすらしていたのは、はっきりと覚えている。それからわずか1時間ほどの間に、手帳をなくしたことに気づいた。記憶を事細かく慎重に巻き戻してみる。だが不審な点はない。

 ひょっとしてすりに遭ったか? その可能性について考えてもみた。俺からすりを働くなんて奴は……丸出為夫ぐらい。前回の事件で、丸出はピッキングの知識があるプロの泥棒であることがわかった。それならば、あいつにすりの才能があってもおかしくはないだろう。とにかくあいつはバカな振りを装ってはいるが、意外なところで意外な(しかも世の中の為にはならない)才能がある。あいつはすりだ。俺の財布をすったのもあいつだ。

 だが考えてみたら、今日はまる1日丸出の顔は見ていないし、会ってもいない。いつも丸出の出現する日は憂鬱になってしまうのに、今日は順調な日と言ってもよかった。だが別の出来事で憂鬱になってしまったが……他にも色々な可能性を考えてみる。丸出が遠隔操作で自分の手帳を手に触れずに取り出す、釣り糸を使う、時間を止める機械を使う……何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。だが屈辱感は相変わらず目を大きく開けて起きている。今夜は大酒を喰らっても眠れそうにはない。

 隣で飼い猫のうり坊が海老名の顔を心配そうに見つめていた。


 その翌朝、いつもより早く出勤してみたが、尋常ではなさそうな1日の始まりが署の入口で愁嘆場しゅうたんばを演じていた。

 後でわかったことだが、署の入口で制服警官たちに泣いてすがっていたのは、飯田泰徳の母親である陽子ようこ(75歳)。夫に先立たれ、泰徳とは2人暮らし。もちろん訴えていた内容は耳にしなくても、おおよその見当はつく。女性に対してストレートに欲望をむき出しにすることはあるが、心のきれいな知的障害者である我が息子が人を殺すはずがない、何かの間違いだ、だから早く釈放してくれ……と。

 飯田に対する正式な逮捕まで残り8時間を切った。この間に何としてでも真犯人の手がかりをつかまなくてはならないが、今のところ母親の苦い涙が喜びの甘美な涙に変わる気配はない。やることといえば神田良子の顧客リストをさらに当たってみること、飯田の周辺をさらに洗ってみることぐらいだが、まだ寒さの残る3月の地面から期待が芽吹くこともなさそう。

 海老名も捜査に対して、ほとんどやる気を失っていた。手帳をなくしたことはあまりにも大きい。その気になれば手帳に頼らずとも記憶と勘だけで事件を突破できなくはないが、やはり手帳による支えがないと今一つ力が入らないものだ。あの手帳には今回の事件一式がメモされている。それを失ったというのは、あまりにも痛い。おまけにいつもよりもひどい二日酔い。時間はまだ遠い山の裏側にあるものの、確実に目の前にせまりつつある。

 もうどうにでもなれ。飯田は誤認逮捕されるかもしれないが、そうなったとしても俺のせいじゃない。責任は俺の手元にはないんだから、勝手にしろ。


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