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 翌日の朝、警察は飯田泰徳の自宅へ家宅捜索に入った。自宅は築年数の古いマンションの1階。部屋のベランダの片隅で包丁が発見された。なぜこのような所に包丁が置かれてあるのか? その不自然さからして、これで犯人は飯田であることが、ほぼ確定してしまった。小室という刑事の強引な捜査手法が吉と出てしまったのだ。

 「ほら見ろ。やっぱり俺は正しかったことが証明されたじゃないか」小室は湯上りのようなのぼせ上がった表情で高笑いをしていた。

 「やっぱり飯田が犯人だったか……」藤沢係長が強面こわもての表情のまま淡々とつぶやく。

 「いや、本当にそうなんでしょうか? どうもしっくりこない」と海老名が缶コーヒー片手にそう言った。「凶器と思われる包丁はベランダにあったわけでしょう。部屋の中にあったわけじゃない。外から真犯人が置いていったという可能性も充分にありうる。しかも部屋は1階だからな。包丁を置くだけなら外部からでも容易たやすく侵入できるし、そもそも誰の包丁なんだ? 飯田の母親が言うには、うちの包丁じゃないって話だしな」

 「でもこのようなことになった以上、もう逮捕を急ぐしかないって」蟹江が海老名の席の前で残念そうに言う。

 「そこを何とか持ちこたえてくれないかな? まだ30時間はあるだろう」

 「何とか説得してみるけど、あまり期待しないでね」

 「神田良子の夫って、日頃から良子に暴力を振るってたのよね? やっぱりかなり怪しいんじゃない?」海老名の席の向かい側で新田が言う。

 「そうですよ、それに神田がデリヘルをやってたんなら、その顧客も気になるし」海老名の席の隣で大森も言う。

 「いずれにしても時間はない。飯田が正式に逮捕される前に急いでくれないか」と係長。


 昼過ぎ。神田良子の夫である恭介は、当面の宿泊先である池袋のホテルで憔悴しょうすいしきった表情のまま聞き込みに応じた。30代前半にして新興ゲームソフト会社の重役。高みに上りつめて天使にでもなったような顔付き。いかにも頭の切れるやり手という印象があるが、さすがに妻の死という重大事に直面すると、その表情にも哀愁がただよっていた。

 「何だか今でも悪い夢を見ているみたいで……本当に妻は殺されたんでしょうかね?」恭介はうつろな目をして、そう言った。

 つね日頃から妻に対して暴力を振るっていたことも、あっさりと認めた。

 「自分も両親から暴力を受けて育ったもんで、興奮するとつい手が出てしまうんですよ。暴力を振るうたびに内心済まなかったって心の中で思うこともあるんですが……僕が殺したんじゃないかって疑われて当然ですよね。でも殺そうと思ったことは1度もありません。ましてや包丁で刺すなんて……」

 「良子さんは昔、一ノ瀬留衣という名でアダルトビデオに出演してました。そのことはご存じなんですか?」と海老名が聞く。

 「もちろんです。AV時代からファンでしたから。それを承知で結婚したようなもんです」

 「良子さんの友人によると、良子さんはデリヘルをしてたそうです。そのことは……」

 「やっぱりそうだったか」恭介は吐き捨てるように言った。「昔AVに出てたし、僕に隠れてそういうことをしてるんじゃないか、と薄々気づいてはいましたよ。でもいつもそんなことしてない、って嘘言って……堂々と言ってくれればよかったのに」

 「神田さん、あなたの事件当時の行動をもう一度確認させてください」海老名と同行した大森が言った。「奥さんの遺体が発見された前日、神田さんは出張で札幌に昼過ぎから滞在していた。その後札幌市内のホテルに1泊し、翌日の午前中に東京行きの飛行機に乗った……このことに間違いありませんね?」

 「間違いありません。一緒に出掛けた部下やホテルの人にでも聞いてみればいいと思います」

 「仕事が終わってホテルへ入った後は、ずっとホテルへいたのですか?」

 「いえ、ちょっと夜遊びしに外へ出ました。部下とすすきので飲み屋を何軒かはしごして、その後2人でデンパサルとかいうソープへ行きましたね。ホテルへ戻った時には日付が変わってましたよ」

 「ソープランドへはよく行かれるんですか?」

 「ええ……お恥ずかしい話ですが。風俗は大好きでして。妻には内緒でよく行くんですよ」

 その後も神田恭介に対する聞き込みは続く。恭介は全てにおいて投げやりな態度ではあったが、水が流れるように海老名たちの質問には淀みなく答えていた。聞き込みが終了した後、大森が海老名に漏らした感想はといえば、

 「後は北海道警の報告を待つだけですね。神田恭介はおそらくシロだと思います」


 午後3時過ぎ、海老名たちが署へ戻ってみると、蟹江がおやつの茶菓代わりの吉報を手にして待っていた。1つは蟹江の執拗しつような説得もあって、飯田泰徳に対する正式な逮捕は予定通り48時間後……もはや24時間も残されてはいなかったが、それまでは待つとのこと。もう1つは、これまた蟹江の熱心な働きかけもあって、本庁のサイバーセキュリティ対策本部に回されていた神田良子のスマートフォンの解析結果が、予定よりも早く出たことであった。

 「さすがは警部補。紗香が説得したら、松の枯木に桜の花が咲きそうだな」海老名が差し入れの栄養ドリンク片手に蟹江をたたえる。

 「いいわねぇ。さらに説得を続けたら、おいしそうなさくらんぼの実までなるかしら?」蟹江も得意になって言った。

 「それよりも良子のスマホから何かわかったか?」

 「うん、メールの送受信からデリヘルの顧客と思しき人物の名前がいくつか挙がった。その中でも1人の顧客とのやりとりが他と群を抜いて多かったの」

 神田良子のデリヘルの顧客と思しき人物の中で、メールの送受信がとりわけ群を抜いて多かったのは、戸田とだ和行かずゆき(48歳)。芸能事務所社長。住まいは東池袋。夕方5時過ぎ、海老名と蟹江は新宿にある事務所へと聞き込みに出かけた。

 芸能事務所といっても、扱っているのはモデルだけだった。小さな事務所の中に戸田以外には、秘書と呼んでいる女性が1人いるだけ。その「秘書」は背が低く服の地味な、子熊を思わせる女性。さらに戸田はといえば、こんなのがモデルたちのマネジメントをしているのかと思えるぐらい、あまりにも華やかさとはかけ離れた容姿をしていた。頭ははげ、肥満体。顔立ちは床で踏ん付けられて、そのままといった感じ。おまけに鍋で長時間揚げたような脂症である。

 「留衣ちゃん、本当に殺されたのか……テレビやネットで言ってることは本当だったんだ。でも僕が留衣ちゃんと付き合ってることなんて、どこで知ったんです?」

 そこで蟹江は、サイバーセキュリティ対策本部による神田良子のスマホの解析結果について説明した。

 「なるほど。ま、留衣ちゃんとは、あくまでもデリヘル嬢とその客という関係でしかなかったんですけどね。でも何てったって有名な伝説的AV女優だから、すごくいいんですよ。その肌触りといい、肉感といい、そのまま首輪を付けて飼ってしまいたいぐらいでして。特に僕はSMプレイが大好きでしてね、あの子が僕にいたぶられる姿と言ったら、もうルーブル美術館級ですよ。ベルトで叩いても、ひもで縛っても……」と言いながら戸田はSMの話を始めた。

 「ああわかりました。もうそのくらいで結構です」海老名は顔をしかめながら戸田の話を途中で止めた。「ちなみに一ノ瀬……じゃなくて本名は神田良子と言うんですけど、神田さんの友人の証言によると、神田さんは日頃から夫から暴力を受けてました。そのことはご存じだったんですか?」

 「やっぱりね。よく身体中に痣があったもんで、僕が付けたものかな?なんて思って。もしそうなら申し訳ないなとは思ってたんですけど、僕はある程度は手加減して彼女をいたぶってましたよ。いくらデリヘル嬢とはいえ、本気出して暴力を振るうなんて失礼ですからね。紐で縛る時なんかもあとが残らないように、ある程度はゆるめに縛ってたし、首を絞める時なんかも……」

 ここで蟹江が「……っくしょん、にゃろー」とくしゃみをした。

 「は? 何か気にさわるようなことでも言いましたかな?」と戸田はとぼけた表情で蟹江に質問した。

 「あ、いえ、彼女、こういうくしゃみをするのが癖なんですよ。気にしないでくださいね」と海老名が代わりに弁解をした。「ところであのポスター……」

 事務所の部屋の片隅にあるポスターを海老名は指差して言った。どこかのファッションブランドと思しき宣伝ポスターで、美女がいかにも値の張る洋服姿で氷のように冷たく澄ました顔をしている。

 「あのポスターに写ってる女性、どこかで見たことがあるんですよ。ひょっとしてお宅に所属してるモデルさんですか?」

 「そうですよ、うちのナンバーワンモデルです。田中里美という子なんですけどね」

 「ああやっぱり。彼女、亡くなられた神田さんの親友なんです」

 「ほう、そうだったんですね、それは知らなかった。さぞ気落ちしてることでしょう」

 「ええ、遺体の第1発見者ですからね」

 「そりゃまた何とも不運な。うちの事務所、彼女のおかげで食ってるようなもんですからね。彼女が欠けるようなことがあっては困るんですよ。今月いっぱいでここやめて、もっと有名な事務所に行きたいなんて言ってるから、必死で引き留めてるとこなんですけどね。他のモデルじゃ彼女の代わりにはならないし……あ、刑事さん、もしよかったら副業でモデルでもやってみませんか?」戸田は蟹江の方を向いて声をかけた。「よく見るとなかなかいい顔してる。モデルとして絶対にやっていけますよ。その眼鏡の奥にひそむ瞳、きれいですね。むちで打たれた時の表情を見てみたいですな。もう想像しちゃいますよ……」


 「うわ、もう最低、あのサド侯爵。今でも鳥肌が立つ」車を運転しながら蟹江が身体を震わせて言った。「あの顔も気持ち悪いし、はげでデブだし、おまけに脂症だし、男としての魅力がまるでなし。むちで打たせてくれですって? こっちがむち打ちたいぐらい。いや、逆さ吊りにして火(あぶ)りの方がいいかな? 屠殺前の豚のくせに、人間になったような夢見るんじゃないわよ。もうあいつの視線で身体中を撫で回されて、気持ち悪い。シャワー3回ぐらい浴び直さないと、今夜は眠れそうにないな」

 「それは災難でした」と助手席で海老名が苦笑して言う。「ま、趣味の悪いサディストではあるけれど、少しは相手に配慮はしてるみたいだったな。間違いなく奴も犯人じゃないだろう。もう残り20時間を切っちまったぜ。やっぱりあの『だっふんだ』しかいないのかな?」

 「いや、あのサディストは絶対に怪しい。女の勘よ。あいつが犯人じゃなくても別件で逮捕してやりたい。犯罪の臭いがあいつの身体中に、痣になって染み付いてるはずだもん。サディストは同時にマゾヒストとも言われるじゃん。あいつ、女をむちで打つだけじゃなく、打たれるのも好きなんだと思う」

 「それはどうかな。あの脂身の塊に言い寄られたら、おまえの女の勘とやらも当てにはならなくなるわな。紗香、手の甲にあいつのげ目が付いてるぞ」

 「もう、やめてよエビちゃん、運転中なんだから。ただでさえ勇気が熱出して寝込んでるっていうのに、不安の芽がまた1つ枝に咲いたじゃない」

 「え? 勇気の奴、熱出して寝込んでるのか? そりゃ初耳だぞ。大丈夫なのか?」

 「まあ重症じゃないけど、母さん、ちゃんと看病してくれてるかな?」

 車が署に着いた時には、時刻は夜の8時近くになっていた。時間は1歩ずつではあるが、確実に悪い方向へ向かいつつある。

 駐車場から捜査1係のあるフロアまで、蟹江が先頭に、その後ろを海老名が付いて歩く。蟹江の顔色が心なしか蒼白い。足取りも何だか覚束おぼつかないようだ。何となく海老名は不安を感じる。

 その不安は的中した。廊下の角を曲がった所で蟹江がいきなりふら付いて、よろけ始めたのだ。今にも倒れそう。すぐ後ろにいた海老名が蟹江の身体を抱き止める。昔はさんざん味わい尽くしたとはいえ、久しくじっくりとは触れていない元妻の身体。

 「どうした? 疲れたのか?」海老名が身体を支えながら言う。

 「んーん、何でもない。ちょっと現実の世界と一瞬だけ歯車が嚙み合わなかっただけ」蟹江はすぐに海老名の腕を軽く振りほどいて、また歩き出す。

 「今日はもう帰って休め。勇気のことが心配なんだろ? そばにいてやれよ」

 「それは母さんが付いてるから問題ない。でもあと少し残業したら、今日は早めに帰るつもり」


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