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 それから1時間後、海老名と蟹江はこの夜遅くではあるが、もう1度田中里美の自宅へと聞き込みに出掛けた。事前に電話をしたところ、田中も快諾している。

 「エビちゃん、殺された一ノ瀬留衣って元AV女優、昔よくエビちゃんが私に隠れてビデオ見てた女優でしょ」蟹江が覆面パトカーを運転しながら言った。「私今でも覚えてる。きれいな人よね。巨乳で若くて顔もきれい。私が美容整形して巨乳になっても、絶対に勝てないかも。ある意味で私たちの結婚生活を破壊した原因の1つとも言えるじゃん」

 「ま、俺たちがうまくいかなかったのは、他にも色んな原因があるけどな」助手席の海老名が、あくびを噛み殺しながら言う。「でも浮気はしてないよ。AV見るだけならいいじゃん。あの蜜がいっぱいに詰まったようなおっぱいに手を触れたわけでもあるまいし。俺が初めて彼女に会った時には、バスタブで血だらけになった魂の抜け殻だぜ」

 「情欲の念をもって異性を見る者は、心の中ですでに姦淫しているのです、って偉い人が言ってるでしょ? 私から他の女に目移りするだけでも許せないの」

 「そんなこと言ってもな。その偉い人が本当に心の中で姦淫したことがないと言えるのか、わからんだろ。だいたいナザレのイエスとマグダラのマリアは実は夫婦だった、って説があるぐらいだからな。男なら誰だって、妻以外にも心の中で10人ぐらい女を抱いてるぜ」

 「そんな言い訳聞きたくない。男の身勝手なんて、もううんざり。今度そんな言い訳したら、あの人みたいに刺すからね」

 「おお、こわ。今マジで背筋に寒いものが走ったぞ」

 「そういえば私、事件の前日、予知夢めいた夢を見たの。部屋の扉を開けたら、エビちゃんがその留衣って子を部屋に連れ込んでキスしてたから、私怒ってエビちゃんを包丁で刺しちゃった。『貧乳の女は嫌いなんでしょ?』って言って」

 何と言うことだ、こいつも同じような夢を見てたのか。海老名はそのことを口にしかけたが、声に出す前に言葉を飲み込んでしまった。

 「あのさあ、女は胸の大きさで価値が決まるわけじゃないだろ。別におまえが貧乳でも俺は構わんよ。気にすんな」

 「でも巨乳の女は好きでしょ?」

 「そりゃ乳がでかい方がいいに越したことはないけど……」

 「やっぱり貧乳の女は嫌いなんだ」

 「だからそうじゃないって……あ、次の信号左な」


 車は田中里美の住むマンションのそばに着く。

 2人が下りると、この時間にもかかわらず入口付近で怪しい男が待ち伏せしていた。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草……さらには額に絆創膏ばんそうこうを貼った丸出為夫は、幽霊のように照明の陰から姿を現わす。それを見て蟹江は思わず小さな悲鳴を漏らした。

 「エビちゃん、カニちゃん、こんばんわ」丸出があぶらぎった笑顔で挨拶した。「元夫婦でエッチでもするんですかな? ここはラブホテルではありませんぞ」

 「事件の捜査で目撃者の聞き込みをするところです」蟹江が少しうつむき加減に言う。

 「田中里美と言う女性のことですかな? それならちょうどいい。私もあの人に聞きたいことがあるんですよ。仲間に入れてくださいな」

 「あのさあ、遊びじゃないんだから、邪魔しないでくれないかな?」海老名がいらつきながら言う。「だいたいなぜこんな所で待ち伏せしてるんだよ? さては、あのモデルに惚れたらしいな。あのモデル見て壁に頭突きするぐらいだから。ホモのくせにさ」

 「え、丸出先生ってゲイだったの?」と蟹江。

 「そ。ワトソン君って彼氏がいるからね」

 「あなたたちと違って私とワトソン君の間に肉体関係はありません」と丸出。「ワトソン君とは心と心とで結びついた大親友ですぞ。あまり薄汚れた目付きで物事を見るものではありませんな」

 「ふん、薄汚れた目付きと言ったら、あんただって人のこと言えないだろうが。その額の絆創膏は何なんだよ? ま、どうせ付いて来るなって言っても付いて来る気だろ? 俺の酒気帯び運転のことより、あんた、この女の何を知ってるんだ?」

 「むふふ、元奥さんの秘密を知りたいんですかな? この女性はですね……」

 「ああわかりました。これ以上何も話さないでください、丸出先生」と蟹江が慌てて言った。「聞き込みには丸出先生も同行させることにします。それでよろしいですね、海老名さん」


 田中里美はモデルということもあって、ただでさえ狭い部屋の中は洋服であふれ返っていた。ここへ3人もの人間が押しかけて来れば、人間ごと服を畳まなくては入りきれなくなりそうなほど。話の内容はまず、目撃証言のことについて。

 「志村けんに似た変なおじさんの噂は耳にしてます」田中が無表情のまま、そう話す。来客を前に控えてなのか、自分の部屋の中でも化粧が異様に濃い。「ただ実際に会ったことはありません。本当にあの人なのかどうかはわからないです。顔とかがそんな風だったんで、ありのままを話しただけなんですよ」

 「本当にその人は包丁を手にしてたんですね?」蟹江が念を押して確認する。

 「それは間違いありませんでした」

 「後でわかったことなんですが、神田さんの身体には暴力を受けたと思しきあざが、あちこちにありました」海老名が代わって言った。「それも亡くなる直前に受けた新しい痣ではありません。日頃から誰かから暴力を受けていたと思われますが、そのことについては何かご存じでしょうか?」

 「良子は夫から日常的に暴力を受けてました。そのことは彼女も私によく話してたし、悩んでもいました。彼女、幼い頃から親に暴力を振るわれて育ったんですよ。私もそうだったんで仲がよかったんですけど、幼いころに父親から暴力を受けた女って、大人になっても暴力的な男しか愛せないみたいで、運が悪いと言えば運が悪いですよね」

 「なるほど。親に暴力を振るわれていたってことは、あなた自身が交際する男性にも暴力的な方が多いということなのでしょうか?」

 「はい、私も……」

 と、ここで丸出がいきなりくしゃみを始めた。部屋の波長が一気に揺らぎ始め、ついでそのくしゃみは蟹江にも伝染し始める。

 「……っくしょん、にゃろー!」

 田中が驚いて蟹江を凝視ぎょうしする。

 「あ……この女刑事は、こういう風にくしゃみするのが癖なんで気にしないでくださいね」と海老名が割って入って説明する。「ところで神田さんの身の回りで、夫以外の男がいるなんて話は聞いてないですかね?」

 「このことはあまり大きな声では言いたくないんですけど……」田中は声を落として言った。「浮気ってわけじゃないんですけど、良子、デリヘルしてたんですよ」

 「デリヘルをしてたってことは、お金には困ってたんですか?」鼻をかみ終わった蟹江が質問する。

 「いえ、お金に困ってるってわけじゃないそうです。でも昔から恋愛依存症ぎみでして、旦那以外の男が無性に恋しくなる、と言ってました。ある種の趣味みたいなものになってましたね」

 「デリヘルの顧客については何か言ってましたか? 特に親しい男性がいるとか」

 「そこまでは何も聞いてません」

 「ところで話は変わりますが、あの写真……」と海老名が、田中の背後にあるたんすの上の写真立てを指差して言った。「高校生の女の子が2人写ってますね。あの2人は誰と誰なのですか?」

 「ああ、あの写真」そう言って田中は振り返りながら慌てて立ち上がり、2人の女子高生が写っている写真立てを裏返しにした。「何でもありません」

 「なぜ裏返しにするんです?」蟹江が眼鏡のフレームを2本指でつまみながら言う。

 「い、いや、見せるほどでもないんで」田中が取って付けたような笑顔で言った。

 「あなたにとっては見せるほどでもないにしても、私たちから見れば捜査上、重要なことかもしれないのです。差し支えなければ教えてくれませんか? あの2人は誰なんです?」

 「お恥ずかしい話ながら……あの写真は中学の卒業式で私と良子を写したものなんです。今とすっかり様変わりしてしまったもんだから、人に見せるのはどうも……」

 「いや、構いませんよ。それほど恥ずかしいものでもないじゃないですか」と海老名。「いい目の保養にもなる。ぜひとも見せてくれませんかね?」

 そう言われて田中はまた立ち上がり、たんすの上の写真立てを手に取って、しぶしぶと海老名たちに見せた。

 写真で同じ高校の制服を着た2人の少女は、それから10年たった田中里美と神田良子とは全くの別人と言ってもいいぐらいに違っている。肥満太りしている方の少女は、顔立ちからして神田だということはすぐにわかった。とろ火で煮立てて脂を落とせば、アダルトビデオに出てくる制服姿の一ノ瀬留衣そのもの。端正な顔立ちはそのままだから減量したのは正解だったのかもしれないが、わずか数年で女というのはこんなに変わるものなのか、と海老名は驚愕きょうがくする。もう片方の少女は今の田中とは完全に別人だった。顔はお世辞にも美人とは言えない。マネキン人形を思わせるような今の硬い顔立ちからしても、田中が美容整形をしているという海老名の予想は正しかったと言える。

 ここでまた丸出が大きくくしゃみをした。

 「まったくもう、汚いな。くしゃみする時は口に手を当てろって何度言えばわかるんだ?」と海老名が文句を言った。

 「すいませんな。こればかりは今流行ですから、少しぐらいは大目にみてもいいじゃないですか」と丸出。「この丸々と豚みたいに太ってる方が田中さんですか」

 「いえ、そっちは良子です」と田中が説明する。

 「ということは田中さんは、こっちのブスの方ですか」

 「おっさん、失礼だろうが。もっと言い回しに花を飾れよ。たんぽぽ1本分ぐらいさ」と海老名が言う。

 ここで蟹江がまた「……っくしょん、にゃろー!」とくしゃみをした。

 それにつられて、田中までもがくしゃみを始めた。さらに続けて丸出がまた口に手を当てずにくしゃみをする。またさらに蟹江が「……っくしょん、にゃろー!」……以下、無限ループ状態。聞き込みは事実上不可能になってしまった。

 

 「どうだ、田中里美は嘘を吐いてると思うか?」助手席で海老名が聞いた。

 「わかんない。でも確かに言ってることは筋が通ってたわね」蟹江が車を運転しながら言う。「それにしても、もういや、あの丸出のクソジジイ。まじでむかつく。あいつのせいで、くしゃみが止まらなくなったんだから。おかげで大恥かいたじゃないの」

 「くしゃみのことは、丸出は関係ないだろうが。おまえのそのくしゃみ自体がカンヌのパルムドール級だよ」

 「田中にまでくしゃみが伝染うつっちゃうし。結局くしゃみが伝染らなかったのはエビちゃんだけじゃない」

 「俺は花粉症は平気だからね。でも馬鹿は風邪ひかないってよく言うけど、くしゃみしない俺は丸出以上の馬鹿か?」

 「かもね。女1人幸せにできなかったんだもん。丸出よりワンランク下の馬鹿」

 「うー、それは死ぬほどの屈辱だな。もう立ち上がれない。このままこの助手席で俺は、雨風に10年ぐらいさらされた廃車みたいに朽ち果てていくのか」

 「でも丸出のやつ、本当にむかつく。あのコートの両方のポケットに霞が関の本庁舎2つ分を重しに入れて、東京湾に沈めてしまいたい。もうあいつの顔を見るのもいや」

 「でもおまえ、あいつの前では『丸出先生』とか言って、ひな人形みたいにかしこまってたじゃんか。おまえ、あいつに何か弱みを握られてるだろ? どんな秘密だ? 向こうの課長を怒らせたっていう、あの話か?」

 あれは数年前、海老名と蟹江が離婚して間もないころのことだった。とある殺人事件で、警視庁捜査1課の蟹江が所属していた係が捜査に当たっていたのだが、思わぬ大失態を演じてしまったのだ。原因を作ったのは、蟹江の同僚である別の女性刑事。当時の捜査1課長が蟹江の係に自ら足を運んでまで、その女性刑事を叱責したぐらい重大な失態だった。課長はその女性刑事を大声で怒鳴り付け、ののしり続ける。雷鳴に次ぐ雷鳴。静まり返った室内にこれでもか、と言わんばかりに雷のような叱責が続いた。その姿は蟹江からは衝立ついたてで見えなかったが、怒鳴りたてる課長の表情やその雷を全身に浴びて縮こまる同僚の女性の姿は、想像力をホワイトボードに思いっきり走らせるまでもなく想像できたとか。

 「とにかく、追って沙汰が出るまで当分の間は謹慎だ。もういい、帰れ!」

 ようやく課長による説教は終わった。衝立から同僚の女性刑事が項垂うなだれながら出てくる。席は蟹江のすぐ隣。蟹江は何か声をかけて慰めの言葉を言おうとしたが、出てこない。出てきたのは……例のくしゃみだった。それも大声で。

 「……っくしょん、にゃろー!」

 それと同時に衝立から課長が飛び出してきて、同僚の女性刑事に詰め寄った。

 「君! 何か文句があるのか? 悪いのは君の方だろうが!」

 どうやら蟹江のくしゃみが同僚の口から出たものと勘違いをしてしまったようだ。声も蟹江とよく似ている。同僚は何か弁解しようにも、課長による雷の第2幕の前では言葉が出ない。結局同僚の女性刑事は謹慎はおろか、そのまま所轄へと左遷され、風の噂では結婚を機に警察を辞めたとか。あの時、あのくしゃみは彼女ではありません、私です、そういう癖なんです、となぜ言えなかったのか? それを思うと蟹江は元の同僚が不憫ふびんでならない。

 「それにしても丸出の奴、どうしてそのことを知ってるんだろう?」蟹江が車のハンドルを左のてのひらで軽く叩きつけながら言う。「『あなたは1人の女性に濡れ衣を着せたんですぞ。このことをマスコミにリークされたくなければ、私を先生と呼んで尊敬してください』だって。誰が好き好んで、あんな変なおじさんより変なおじさんを先生なんて呼ばなくてはいけないのよ? 私の出世を妨げる置石みたいな奴。き殺そうにも脱線してしまいそう」

 「出世なんて考えなきゃいいじゃんか。所轄の方が気楽だぜ」と海老名は腕組みをしながら言った。

 「エビちゃん、気楽すぎるのよ。育児はおろか、家事まで私に押し付けて、自分は1人気楽に読書ばっかり。私だって大好きなアガサ・クリスティーをもっと読みたいのに、その時間まで奪っちゃうんだから。勇気ゆうきは私1人で育てたようなもんだからね。あの子には私の精神的苦痛と父親の無責任とが込められてるの」

 勇気とは、海老名と蟹江の息子である。今年で小学2年生。

 「悪かったよ。おまえがそこまで苦しんでるとは思わなかったんだよ。おまえだってもっと肩の力を抜いて俺に甘えればよかったのに」

 「甘えられるものなら、もっと甘えたかったわよ。でもエビちゃん、いつも面倒臭そうだったし。あなたには真面目に家族を幸せにしようって気がないのよ。子供の面倒も見れないし生活力がないの。エビちゃんの生活力と言ったら、猫1匹育てることだけじゃん」

 「猫1匹育てるだけでも、わりと苦労するもんだな。おまえの精神的負担が痛いほどよくわかった」

 「今さら遅いわよ、エビちゃん。」

 「あのさあ、紗香、俺のことエビちゃんって言うのをやめてくれる? おまえだって一時は海老名の名字を名乗ってただろうが」

 「だってエビちゃんの方が言いやすいし、私ももう海老名じゃないから。忠義って言いにくいじゃん……あれ? 次の信号、左に曲がるんだっけ?」


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