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 その翌日、容疑者が浮上した。神田良子が住んでいたマンションの近所に住む飯田泰徳いいだやすのり(49歳)。無職。知的障害の持ち主。公衆の面前で性器を露出したとして逮捕歴がある。田中里美の目撃証言と容姿や人相も一致。近所でも有名な迷惑者で、若い女性を見ては露骨に追い掛け回しているとか。女性の自宅前で堂々と自慰行為にふけることもあり、一度逮捕されてもその癖は直らないらしい。突然奇声を発したり、飛び回ったりして、近所の子供たちの間では「変なおじさん」とか「だっふんだ」のあだ名で通っている。確かにその顔立ちや頭のはげ方は、「変なおじさん」を演じる志村しむらけんに似ていなくもない。

 警察の任意同行に応じた飯田泰徳は、取り調べで神田良子の殺害を認めた。

 「本当に殺害を認めたのか?」海老名が早速疑問を口にした。「あいつ、知的障害だろ? 知的障害者が女の部屋に忍び込んで、相手を刺し殺すなんてことを平然とできるのか?」

 「エビ、知的障害者は人を殺さないと思ったら大間違いだぞ」上司の藤沢周一ふじさわしゅういち係長が言う。「あまり感情で物事を考えるべきじゃないな。過去にもいくつか事例がある」

 「わかってますよ、そんなこと。でもその過去の事例でも意図的に人を刺すなんてことは聞いたことがない。だいたいは衝動的な犯行ばかりですよ。犯人は神田良子だけを刺して、田中里美は刺さなかった。意図的に神田だけを刺したのは明らかです。知的障害者なら衝動で神田を刺して、ついでに田中も刺すと思いますけどね」

 「でも取り調べに当たった刑事によると、はっきりと自供したようですよ」隣の席で大森が言った。

 「あの本庁の小室こむろとかいう奴だろ? どうもあいつは気に入らない。あのチンパンジーみたいなつら。しかも出世欲で腹がふくらんでるじゃねぇか。さっきちょっと取り調べの様子を外から見てたけど、向こうがおどおどしながら黙ってると、大声でどやしつけやがって。自白を強要されたんじゃねぇか? あの変なおじさん、初めは洗濯機の脱水状態みたいに首を振って犯行を否認してたろ。それが急に自白したって? 何か怪しいな」

 そこへ蟹江が海老名たちの前にやってきた。

 「おい紗香!」

 海老名が大声で怒鳴りつけると、蟹江は足を速めて海老名の前に飛んで来た。

 「やめてもらえますか、海老名さん、下の名前で私のことを大声で呼び付けるのを。まるで奥さんを呼ぶような言い方じゃないですか」蟹江は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして言った。

 「だって俺の奥さんだったろ? 今だろうと昔だろうと、おまえの名前が紗香だということに変わりがあるまい。どうせみんな知ってることだ、隠すことじゃねぇだろ。それより紗香、あの変なおじさん、殺害を自供したらしいな」

 「そのことで捜査1係の皆さんに聞いてもらいたいことがあります」ここで蟹江は声を大きくした。「犯行を自供したことですし、飯田を殺人容疑で逮捕することに決めました」

 「おい、ちょっと待てよ。本当に飯田は自白したのか? 自白を強要されたとしか思えないんだけどな」

 「いずれにしても、もう決まったことですので……」

 「決まったにしても、まだ正式には逮捕してないんだよな。だったら逮捕はまだ待ってくれ。あとそれから飯田に対する取り調べを別の刑事にもう一度やらせてくれないか?」

 「そんなこと言われても困ります、海老名さん」

 「私もエビちゃんの意見に賛成。もう一度別の刑事に取り調べをさせるべきだと思う」新田も自分の席でそう言った。

 「そういうことだ、俺1人の意見じゃない」と海老名。「できれば俺に取り調べをやらせてくれ」

 蟹江は戸惑いの表情を見せていたが、急に顔をしかめたかと思うと、突然大きな声でくしゃみを始めた。

 「っくしょん……にゃろー!」

 周りにいる刑事たちが驚いて蟹江に注目した。

 蟹江には妙な癖がある。くしゃみをした直後に必ず「にゃろー!」と言う癖が。「この野郎」と言っているようだ。特に意味はない。誰を責めているわけでもない。強いて言えば、くしゃみをして「この野郎」と物騒なことを言う自分自身を、「この野郎」と責めているのかもしれないが。この変な癖に蟹江は悩まされ続けてきた。いずれこの癖が出世の大きな妨げになるのではないか?と蟹江は不安を隠せない。ましてや今は花粉症の季節。蟹江の「にゃろー!」は、いつ何時暴走を始めるのかわからない状態である。ああ、口にふたをして鍵を掛けてしまいたい!

 「カニちゃん、その癖、なかなか治らないね」新田があきれながら言った。


 海老名の強い要請にもかかわらず、本庁側は飯田泰徳に対する再度の取り調べを認めなかった。

 「私が自白を強要した事実はありません」警視庁捜査1課の小室俊幸(としゆき)は澄ました表情で言った。

 「それほど自信を持って言えるんなら、自白を強要されたかどうか、俺が直接本人に聞いてみたっていいでしょうが」海老名が喧嘩腰で言う。

 「意味ありませんね。自白を強要されましたね?と言ったら、はい、そうです、と嘘を言うかもしれないですから」

 「それなら、なおさらでしょう。だいたい目撃証言以外に物的な証拠もない。このまま誤認逮捕をして後で真犯人が出て来たなんてことになったら、大問題になりますよ。それを避けるためにも、もう一度……」

 「自白をしたことは、くつがえしようのない事実なんです。それより若い女性が殺されてるんですよ。とにかく事件の解決を急がないと。池袋周辺の女性たちも、安心して眠れないじゃないですか。所轄の刑事のくせに、あまり出過ぎた真似はしないでほしいものですな」

 「所轄には内緒にしろ、なんて法はない。俺たちも馬鹿じゃないんだ。相手が知的障害を持ってる、別件で逮捕歴もある、ってことをいいことに、そいつを踏み台にしてまで高い所へ登りたいのか? あ?」

 「海老名さん、もういいでしょう。そう熱くならないで」隣にいた蟹江が2人の間に入って言った。「とにかく飯田の逮捕の件に関しては、もう1度上と掛け合ってみます。ここは一旦、出直してください」

 飯田泰徳に対する再度の取り調べは認めない、飯田の自宅への家宅捜索も行う、という姿勢は変わらなかったものの、蟹江の要請により、正式な逮捕は48時間保留する、その間はマスコミに対する犯人逮捕の発表や記者会見も行わない、ということで何とか話は着いた。つまりわずか48時間以内に真犯人を探し出さなくてはならないことになる。ただでさえ荒々しい海老名たちの身辺が津波に襲われ始めた。

 

 「48時間ね……もう5時間が経っちまったから、あと43時間か」海老名が壁の時計を見ながらつぶやいた。

 時刻は夜の8時。小会議室には池袋北署捜査1係の面々に蟹江が加わって、会議が始まった。蟹江も池袋北署出身で署内では顔がくし、元夫である海老名の勘が鋭いことは痛いほど知っているから、放っておけないのだ。私も仲間に加えてくれ、と自ら志願してきた。

 「それにしても蟹江さん、あんた主任で警部補だろ。なぜあの小室とかいうムカつく野郎をおさえ付けられないんだ? あんたの方が立場は上なんだろ?」と海老名がよそよそしい口調で言う。

 「だってあの人、私より年上なんだし、うちの係長と仲がいいのよ。私でも大きなこと言えないの。主任とはいえ、私は単なる客寄せパンダ。男の刑事が汗を流して飛び回ってる横で、私はそれを見ながら笹を食べてるだけ。何だかんだ言っても、本庁って今でも鉄骨入りの男社会でね、こんなことなら所轄の方がよっぽど気楽」

 「だったら本庁やめて、ここに戻ってきたらいいじゃん」

 「うーん、それも何だかな……」

 「そんなことより捜査をやり直すとなったら、急がなけりゃならんだろ」藤沢係長が言う。「まず取っ掛かりはどこか、だな」

 「まず目撃証言が本当に正しいかどうかですね」と蟹江。「そこは第1発見者にもう一度確認するべきじゃないかと」

 「そのことにこだわるよね。本当に俺、信用されてない」と海老名が嘆く。「それより殺害したのは誰かという原点に立ち返るべきだな。被害者がどのような状態で殺害されていたのか、というところから再確認してみないと」

 「バスタブで入浴中のところを刺されたんですよね?」と大森。「しかも大きく抵抗した痕跡はなかった。犯人は間違いなく顔見知りでしょう。となるとまず浮かぶのが神田良子の夫。でも夫は当時札幌にいて東京にはいなかった。ということは……」

 「他に男がいたんじゃないかな? AVに出てたから、浮気をしてた可能性は充分にある。神田のスマホは回収されてるんだよな?」

 「本庁のサイバーセキュリティ本部に回されてます」

 「よし、蟹江さん、解析を急がせてくれ」

 「でもやっぱり、そのモデルの目撃証言も何だか怪しいと思う」と蟹江。「もう一度彼女から当時の状況について、もっと詳しく聞き込んだ方がいいんじゃないかな? もし可能なら今夜すぐにでも」

 「そんなに俺のことが信用できないのかよ、紗香」

 「あの、海老名さん、みんなの前で下の名前を呼び捨てにするのをやめてもらえませんか?」

 「はいはい、失礼いたしました、蟹江警部補殿」


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