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夕方。池袋北署に捜査本部が設置され、最初の捜査会議が始まった。霞が関の警視庁捜査1課の刑事たちも、ぞくぞくと池袋北署に集まってくる。
その中で1人の女性の姿が海老名の目に入った。う、今回の事件はあいつが担当かよ。偶然とは思えないぐらい、とんだ予知夢だな。それは海老名もよく知っている女性だった。
特に目立つ女性というわけではない。年齢は30代後半、その年相応の風貌である。身長も目立って高いわけでもなく、服装も地味。化粧も薄い。だが眼鏡でぼやけたその顔立ちは意外なほど整っていて、目利きのいい男ならば必ずや関心を持つであろう、そんな女性。
その女性の名は蟹江紗香。警視庁捜査1課の主任刑事である。
会議が始まる前、蟹江は同僚である本庁の刑事たちと簡単な打ち合わせを手短に済ませると、池袋北署の刑事たちが集まる場所へとやって来た。
「あらー、カニちゃん、お久しぶり」池袋北署の女性刑事・新田清美が声をかけた。
「こちらこそ、お久しぶりです、新田先輩」蟹江も笑顔で挨拶をした。「まだ妄想の中の王子様とは付き合ってるんですか?」
「そうよ、あの人との愛は永遠だもん……それにしてもカニちゃん、出世したわね。警部補になったって話じゃない。今回は私たちと一緒に捜査を担当するんだ」
「その通りです。よろしくお願いします。私もこの池袋北署出身だし、新田先輩にはお世話になりましたからね。恩返しのつもりですよ」
「よ、カニちゃん、久しぶり」池袋北署の刑事課長代理・戸塚明警部も声をかけた。
「え? 戸塚さん?」蟹江は素っ頓狂な裏声を出した。「一瞬、誰かと思っちゃった。髪の毛1本もなくなっちゃったじゃないですか」
「そうだよ、俺のはげは日々進化してるからね。そのうち光の度合いが強くなって電球みたいになるから、期待しててくれ」
「それにしても戸塚さん、せっかく仲人まで務めてくれたのに、結婚生活がうまくいかなくて申し訳ございませんでした」
「何、仕方ないさ。気にするな。あんなひねくれ者と結婚できたってだけでも奇跡ってもんだ」
「ひねくれ者で悪うございましたね、戸塚さん」そこへ海老名が前に進み出てきた。「よ、蟹江警部補殿、所轄にでも左遷されてきたみたいですな。配属先は交通課ですか?」
「警務課です。海老名とかいう、だらしのない刑事がいると聞きましたから、懲戒免職に値する不良行為を働いたかどうか調べに来ました」蟹江は笑顔のまま言った。
海老名と蟹江はまるで恋人同士であるかのように見つめ合っている。
「いよ、エビちゃんカニちゃん、久々のツーショットだ、ヒューヒュー!」新田が囃し立てる。「あなたたち、本当に別れたの?」
昨夜見た悪夢が海老名の脳裏にまた甦る。今回だけは紗香と組みたくはなかったけど……この警視庁捜査1課の警部補・蟹江紗香は海老名の元妻なのだ。
「えー! あの女、エビさんの奥さんだったんですか?」海老名と蟹江から少し離れた場所で、高木が驚いて言った。
「しーっ、声が大きい」池袋北署の刑事・大森大輔が唇に人差し指を当てながら、小声で言った。「もう別れたんだから、あまり大きな声で言うなよ」
「と言うことはですよ、と言うことはですよ、あの2人は……肉体関係があるんっすか?」
そこへ海老名がやって来て、高木の頭を平手で思いっきり叩いた。「生々しいこと言うんじゃねぇよ、バカ」
「す、すんません……でもエビさん、あの女、化粧っ気ないし眼鏡かけてるけど、よく見るとなかなかいい女じゃないっすか。どこでどうやって口説いたんっすか?」
「前世からの因縁ってやつだよ。それよりブー、会議始まるぞ」
捜査会議が始まった。まず議題の中心は、第1発見者である田中里美による目撃情報の信憑性について。殺害された神田良子の遺体の状況から、死亡推定時刻は前日の夜遅く。包丁を持った男が部屋を飛び出したのを田中が見たのは、午前10時ごろ。
「かなりの時間差がありますね」捜査本部長でもある池袋北署の河北昇二署長が言った。「第1発見者の証言に信憑性はあるんですか?」
「あると思います。表情に不審な点もありませんし、言動にも筋が通ってましたから」と田中への聞き込みを担当した海老名が、そう報告した。
「海老名さん、本当に信憑性はあるんですか?」ここへ蟹江が突っ込みを入れてきた。「田中はモデルと聞いてます。私は顔を見たことはありませんが、その女性の美貌に惑わされているという可能性について考えましたか?」
「もちろん考えました。美女に惑わされるほど無能じゃありませんよ」
海老名は内心思った。紗香め、また俺にヤキモチ妬いてるな。俺に恥をかかせる暇があったら、とっとと新しい男でも作ればいいのに。
「美女も3日見れば飽きるとよく言いますが、こっちも美女は飽きるぐらい見てきましたから。あなたも含めてね」
「もし証言が正しければ、午前10時ごろに部屋から刃物を持って出てきた男は、夜に被害者を殺害した後、半日近くも部屋に籠っていた、ということになるのでしょうか?」
「そこはわかりません。少なくとも男が部屋に籠っていたという証拠は今のところは出てきていないので」
「刃物を持っていた男は部屋から飛び出して来た、すぐに走り去って行った、ということですが、第1発見者の女性をその包丁で刺そうという気はなかったのですね?」
「なかったらしいですね。もしその気があるのなら、田中は今ごろ病院の中ですよ。下手をすれば遺体安置所かもしれない」
「もしその女性が嘘を吐いてるとしたら……」
「嘘を吐いてるという根拠は何ですか、蟹江警部補」
「何となく……」
「何となくじゃ話にならないでしょう。そんなに俺の言うことを信用できないのですか?」
「そのとおりです。海老名さん、あなたは女性に甘すぎます。それも美女となれば、蜂蜜よりも甘すぎるぐらいになるのを私は知ってますからね。相手は第1発見者ですよ。それにしては考察が手ぬる過ぎるように思えるのですが」
「カニちゃん、もうエビとは別れたんだろ? こんな所で夫婦喧嘩すべきじゃないと思うんだけどね」
と戸塚が野次を飛ばすと、会議室に失笑があふれた。
「わかりました。第1発見者の証言については、もうこのくらいでいいでしょう」河北署長が言った。「犯人が誰なのかはまだわかりませんが、被害者の夫は札幌にいた。したがって夫である可能性は薄い。しかも夫の人相は目撃証言とは合わない。被害者の男関係について、もっと詳しく調べてみましょうか。とにかくまずは容疑者の解明に全力を尽くさなければなりません」