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 田中里美は神田良子殺害容疑で逮捕された。良子は自分の交際相手を次々と奪っていく。こうなったら良子をこの世から消すしかない、と。

 まず良子が「奪った」最初の男は、後に良子の夫になる神田恭介。結婚前は里美と交際していた。暴力癖はあったものの、里美は熱烈に愛していたと言う。そんな2人の仲が破綻したのは、恭介の移り気である。里美の友人に元AV女優の一ノ瀬留衣がいる! 俺、ファンだったんだよ。恭介を良子に奪い取られた時にも里美は一時期、良子を殺したいぐらい憎んだ。だが長年一緒だった友達を見捨てるわけにはいかない、友達は友達だもん。結局、恭介を良子に譲って友人関係を続けたとか。

 里美と良子の友情は鋼鉄よりも硬かった。幼いころからお互い親に暴力を振るわれるという悲劇に見舞われ、同志のようなものを感じていたと言う。同じ年ではあるが、まるで実の姉妹のように寄り添い合ってきた。思春期に入ると、2人は自己破壊と言ってもいいぐらいに自らの身体を傷つけていく。里美は美容整形を何度も繰り返し、良子は不特定多数の男たちに身を任せることを繰り返すことで、生きながらにして自らの存在を否定し始めた。だがそれでも2人の友情だけは岩のように変わらない。お互いの友情だけが、この世で唯一の生き甲斐であった。

 恭介を奪われた後、里美は新たな交際相手と巡り会った。里美が所属するモデル事務所の社長・戸田和行である。戸田はサディスト。この戸田が仕掛けるSMプレイに里美は最高の快感を覚えた。決して直接的な暴力ではない、抑制された柔らかい暴力。今までに付き合ってきた単なる暴力男とは違う愛情を感じ、里美は今度こそ運命の男と巡り会えたと思ったとか。

 だが蜜月は長続きしなかった。1カ月ほど前、里美は戸田から別れ話を持ち出されたのだ。理由を尋ねると、他に好きな女性ができたと言う。

 「彼女、元AV女優なんだよ、それも伝説的な女優。僕、ファンだったんだよね。今デリヘルやってるんだけどさ、デリヘルと客だけの関係だけじゃ満足できなくなってきた。結婚してるらしいんだけどさ、何とか別れられないものかな? 旦那を警察にもわからないようなやり方でぶっ殺すとかさ」

 具体名を挙げなかったが、話の内容から良子の話をしていることは明らかだった。良子との友情に再び大きな亀裂が入る。今度こそ、その友情が永久に割れたまま元に戻らなくなり始めた。良子はまた私から大事な人を奪っていこうとしている。自分は労を要さずに欲しい男を手に入れていくくせに、私には何一つ残らない。今度こそ運命の男と巡り合ったと思ったのに、またその男を奪ってしまうなんて。私は社長なしには生きていけない……殺してやる。今度こそ良子を殺してやる。

 あの日の夜、里美は固い決意を胸に秘めたまま良子の部屋へ行った。久しぶりに一緒にお風呂へ入ろう、と良子を誘う。子供のころから2人はよく一緒に風呂に入っていた。別に同性愛的感情はない。一緒に風呂に入りながら、お互いの肌を相手に見せ合う。昨日は親にここをぶたれた、痣がどれぐらいになったとか……そうやってお互い慰め合ってきたのだ。

 自分はトイレに行ってから入るから先に入ってて。そう言って台所にあった包丁を隠し持ち、後から浴室に入った。良子を刺した直後は興奮して身の回りのことに構っている暇はなく、急いで良子の部屋を後にする。良子の夫の恭介は札幌へ出張に出かけて今夜は帰ってこない。一晩ぐらいそのままにしておいてもいいだろう。

 翌朝、里美は良子の部屋に戻ってきた。真っ赤になった浴槽の中で事切れている良子を見て、自分の仕出かした罪の大きさに打ちのめされそうになる。でも私も良子もこうなる運命だったのよ。どちらにしても私たちは長生きできない。この世に生まれてきたこと自体が間違っていたようなものだったのだから。私たちは殴られて、蹴られて、少しずつ自分の存在をすり減らしていくことだけでしか、自分がこの世に存在してるというあかしを残せないの。ごめんね、良子。でももう暴力を振るわれることはなくなったじゃん。あの世に行っても私を恨まないでね。私もしばらくしたら、そっちへ行くから。

 部屋に入る直前、飯田泰徳が良子のマンションの近くにいるのを見る。目が合った飯田に怯えが。警察の聞き込みの後、夜遅くになってから飯田の部屋のベランダに忍び込んで包丁を置いた。私は事務所との契約が今月いっぱいまで残ってるから、それまではまだ死にたくはない。その間は、あの変なおじさんに罪をかぶってもらおう、と。


 「結局、第1発見者が犯人だったってわけじゃん。私の勘の方が鋭かったでしょ?」

 「何言ってんだ。脂症のサディストに目移りしたくせに。眼鏡のレンズにあいつの脂がくっ付いてるぞ」

 事件解決後の昼下がり、池袋北署へ立ち寄った蟹江を池袋駅まで見送るために、海老名は一緒に歩いていた。この時間帯はコートもいらないぐらい、暖かな陽ざしが柔らかく降り注いでいる。街中を歩く人々も、通り過ぎる車もどこかのんびりとした雰囲気で、身を削るような寒さなど道端には1つも落ちてはいない。

 「もう春だな。桜のつぼみもふくらんできた。開花ももうすぐだ。満開になったら勇気を連れて花見しようよ、紗香」と海老名が心を躍らせながら言う。

 「ま、勇気が元気になっただけでも春が近い証拠かもしれないけど、私の心はまだ真冬」と蟹江が憂い顔で言った。

 「暗いな、おまえは。まだ俺からすりをしたことを気にしてるのかよ? もうあんなことはモップできれいさっぱり消し去ったって言ってんだろ」

 「モップで消しても、そのモップにごみが付いてる限り、私の屈辱も黒く残ってるの。あれは私の人生で1度だけ……いや、3度だけの間違い。もう私自身をモップで消し去りたい」

 「でもおまえのすりの手口、なかなか見事だったぞ。俺、気づかなかったからな。どこでそんな技覚えたんだ? 刑事辞めても、すりだけで食っていけるぞ」

 「やめてエビちゃん。もう思い出したくもない。私を悪事に駆り立てたこの指が憎い。こんな指なんか……」

 「切り落としてしまいたいってか? よせよ、指のない女なんてヤクザにしかもてないぞ。運命の赤い糸も結べないぜ」

 「いいもん、私の運命の赤い糸なんて、もうとっくにちぎれちゃってるし……」

 「もしちぎれてるのなら、もう1度俺と結び直さない?」海老名が真顔になって言った。「紗香、俺、本気なんだぜ」

 「どのくらい本気なの?」蟹江がうつむいたまま聞く。

 「あの太陽を空からつかみ取って、丸めて小さな球にして、おまえの薬指にはめてやりたいぐらい本気」

 蟹江は立ち止まって、しばらく無言のままでいた。かすかに口を開け、言葉を発しようとした時……

 すべての甘酸っぱい雰囲気をぶち壊しにする人物が2人の前に現われた。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草の男。

 「やあ、エビちゃん、カニちゃん、こんなとこでデートですか」丸出為夫がニヤニヤ笑いながら言った。

 「やれやれ、春先になると変な奴が現われるな」海老名ががっかりした表情でつぶやいた。「ほら、邪魔だ、おっさん。どけどけ。俺たち今、天空よりも崇高な議論を展開中なんだから、千キロ以上離れてくれないか?」

 「崇高な議論って何ですか? 貧乳を巨乳にするには、いかなる方法があるか、ということですかな」

 「そ。もしこの議論にあんたも加わりたいって言うんなら、蟹江警部補のお許しが必要だな。どうする、警部補、このバカも仲間に加えたい?」

 蟹江は押し黙ったまま丸出をにらみつけている。小鼻がひくひくと動いていて、今にも大爆発の予感が脇を通り過ぎて行く。

 「ま、この調子だと駄目だってことだな。ということだ、おっさん、とっとと俺らから離れて、どっかへ消えてくれや」

 「カニちゃんは随分とご機嫌斜めみたいですな。自分の貧乳のことを言及されると口が聞けなくなるみたいで……」

 と丸出が行った時、その蟹江の怒りが炸裂さくれつした。

 「……っくしょん、にゃろー!」

 蟹江は大きな声でくしゃみをした後、深く息を吸い込んでから大声でまくし立てた。

 「丸出先生、先日は大変お世話になりました。先生の冷酷非情な要求と愚劣極まる判断のおかげで、事件はものの見事に解決いたしました。これからも先生の至極しごく余計な忠告を徹底的に回避するために、日々これ努めてまいりたいと存じます。できれば先生のその阿呆丸出しのご尊顔を拝するのは、1万年先に願えると大変にうれしく思うのですが。それでは私は急ぎますので、ここで永遠のお別れといたしたいと思います。くれぐれも後追いは厳禁としていただけないでしょうか? それでは失礼いたします!」

 と言って、走り去ってしまった。

 その場に丸出と海老名の2人だけが取り残される。

 「カニちゃんはいい刑事ですな。私に対する尊敬の念であふれてるし」丸出は満足そうにつぶやいた。

 「そうかな? 俺には侮辱としか解釈できなかったぞ」海老名が失笑した。


 (次回に続く)


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