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「エビちゃん、おはよう」
男は若い女の甘いささやき声で目を覚ました。
「ああ……もう朝か」
「そうよ。エビちゃん、今日も仕事でしょ。刑事さんなんだから、がんばらないと」
「今日は休もうかな? このまま布団から出たくないよ」
「だーめ。係長に怒られちゃうよ。今、朝ごはん作ってあげるから、ちょっと待っててね」
そう言いながら、若い女は男と一緒の布団から出た。昨夜と同じく一糸まとわぬ姿。真っ白い肌はきめが細かく、まるで絹糸のような光沢を放っている。触れると、そのままどこまでも沈み込んでいくほど柔らかい。顔立ちも端正だ。これだけでも理想の美女と言えるのに、極め付けはその巨乳。トラックに山積みにした甘い果実のように、はじけそうに揺れている。しかも美乳。
「うり坊、おはよう」
男の飼い猫が部屋の片隅から女に近づいてくると、女は猫を抱き上げる。猫は女の巨乳に顔をうずめて気持ちがよさそう。
ああ、若い女はいいな。それも、とりわけ巨乳の女は。男は寝床から女を見上げながら、そう思う。40も過ぎると、とりわけ若い女が妙に恋しくなってくる。このまま仕事を休んで、この女をまた味わい尽くしたい。そんな誘惑が身体をくすぐるのを我慢して、男は小用のために寝床から出た。
ユニットバスの扉を開けると、目に飛び込んできたのはバスタブだった。柔らかいピンク色の朝の光が急に激しく真っ赤に染まる。悲惨な光景が飛び込んできた……
血だらけの女の死体が横たわっていたのだ。全裸の状態。年齢は30代後半で、あるのかないのかよくわからないほど小さな乳房。よく見ると、その女は男の元妻だった……
男の元妻は突然目を大きく見開くと、血だらけのまま起き出して男に言った。
「貧乳の女は嫌いなんでしょ?」
「ち、違うんだ、サヤカ、これは何かの間違いだ、不倫なんかじゃない!」
男は血だらけの女にそう訴えかけた。これはいったいどういうことなんだ? おい……男は若い巨乳の女を呼ぼうとしたが、名前が出てこない。おい、おい、おい……
後ろを振り向くと、若い女はどこにもいなかった。その代わり目の前にいたのは、初老の怪しい男。トレンチコートを着てベレー帽をかぶり、パイプ煙草を口にくわえて……自称名探偵・丸出為夫がそこにいた。
「やあ、エビちゃん、これでまた1つ秘密が増えましたな」丸出為夫は言った。「このことは黙ってておきましょう。その代わり今度からは、私のことを先生と呼んで尊敬してください。もう『おっさん』とか言って馬鹿にしてはいけませんぞ。さもないと……」
……というところで男は寝床から跳ね起きた。傍らで眠っていた飼い猫もびっくりして跳ね起きる。
男は布団を払いのけると、ユニットバスへと駆け込んだ。朝の光の下、バスタブに死体はない。さらには押し入れ、冷蔵庫、机の引き出し、玄関の扉まで次々と部屋中を歩き回りながら、ものを開けていく。
夢か……何て悪い夢なんだ。男は敷布団の上にしゃがみこんで、荒い息でつぶやいた。その隣で猫が心配そうな顔をして男を見守っている。
これは予知夢なのか?
池袋北警察署刑事課強行犯捜査係(通称・捜査1係)の海老名忠義は、遺体を見ながらそう思わざるを得なかった。
被害者は20代の若い女性。バスタブの中で全裸の状態。腹部を刃物で刺されていて、まだ生暖かい湯舟は血で真っ赤に染まっていた。
事件の起きた場所は中池袋2丁目のマンションの1室。まだ昼前だというのに、静かな住宅街は騒然となっていた。
殺害されていた女性の名前は神田良子(25歳)。血の気を失った蒼白い肉の塊になり果ててはいたが、海老名はどこかでこの被害者の顔を見たことがある。でも誰だっけ? 昔は一ノ瀬留衣という名でアダルトビデオに出演していたと聞いて、海老名はすぐに思い出した。彼女が出演しているAVを見たことがあるからだ。その顔も裸体もよく覚えている。しかもそれは昨夜見た夢の中で出てきた、あの若い巨乳の女だったのだ。だがそれにしてもこんな時に、なぜ俺の夢になんか出てきたんだ? せめてインターネットでもいいから事前に告知してほしかった。元AV女優の一ノ瀬留衣が明日、遺体となって発見されます、と……
「それにしても一ノ瀬留衣ですか。池袋に住んでたんですね。昔、彼女のAVを見たことありますよ。まさかうちの管内で殺されるなんて」
海老名の部下である高木友之助(あだ名はブー)という、20代の若い刑事がつぶやいた。
「ほう、おまえも一ノ瀬留衣のAV見たことあるのか」海老名が聞く。
「一時期もう見まくってましたからね。顔もいいけど、肌がきれいだし、何と言ってもあのおっぱい。たまんないっすよ。しかも形もいいし、あのおっぱいをマジで揉んでみてぇって何度思ったことか。彼女のAV見て、1晩で5回ヌイたこともありますよ……エビさんも一ノ瀬留衣のAV見たことあるんっすか?」
「あるわけねぇだろ。ブー、AVなんか見る暇があったら本でも読んでた方がましだよ」と海老名は嘘を吐いた。いくら自分も夢中になったAV女優とはいえ、高木の汗臭い身体に抱かれているところまで想像したくはなかったからだ。
AV女優・一ノ瀬留衣は5年前にデビュー。3本のAV作品と数多くのヌード写真を残し、わずか半年ほどで引退。その後の消息は影すら見出されず、AV愛好家の間では伝説扱いされている。遺体の第1発見者であるモデルの田中里美(25歳)の証言によると、一ノ瀬留衣こと神田良子はAV引退から3年後、新興ベンチャー企業の役員・神田恭介(33歳)と結婚。定職には就いてなく、子供もなし。
田中里美が神田良子の部屋を訪ねてみると、知らない男が突然、部屋から包丁を持って飛び出してきたと言う。異変に気付いて中に入ってみると、良子はバスタブの中で血の海に浸かっていた。遺体の状況から死亡推定時刻は前日の夜と思われる。田中が部屋の前で怪しい男を見たのが翌日午前10時ごろ。加害者はなぜ時間がたってから、凶器と思われる包丁を持って部屋から出ていかなければならなかったのか?
加害者と思しき男が何者であるのかは現時点で不明。年齢は40代。毛の薄い後頭部に顔一面の無精ひげ。薄汚れたカーキ色のジャンパーにジーパン、白いスニーカー姿だったとか。夫の神田恭介は札幌に出張していて、前日から留守。田中里美は神田良子の幼馴染だと言う。近所に住んでいるので遊びに来たらしい。
「それでは、その男は田中さんの姿を見ても何もしないで、すぐに走り去って行ったんですか」海老名が質問した。
「ええ、包丁を持ってるのを見た時にはびっくりしました。自分も刺されるんじゃないかと思って」
と田中里美は話す。モデルをしているとだけあって、スタイルもよく顔立ちもくっきりとしている。くっきりとしているが、どことなく冷たく硬い印象。まるでマネキン人形が口を開けてしゃべっているような感じ。この顔は美容整形だな、と海老名は思った。
「男はどこへ行くか見てましたか?」
「いえ、怖くてそれどころじゃなかったですよ。それも良子の部屋の中から出て来ましたからね。まず良子のことが心配でして。良子の部屋に入ったら、急いで玄関の鍵を閉めたぐらいです」
「それで部屋に入った後は、神田さんがどこにいるのか探してたわけですか……」
「エビさん、エビさん」海老名の隣にいた高木が突然、海老名の耳元でささやいた。「丸出です」
高木が指を差した方向を見ると、丸出為夫がこちらに向かって来る姿が目に映った。いつものとおりにトレンチコートを着てベレー帽をかぶり、口にはパイプをくわえている。海老名は急に仕事も何も放り出して、この場から逃げ出したくなってきた。
「何だよあいつ、また規制線かいくぐって現場に入ってきやがったか」海老名がうんざりしながらつぶやいた。「あいつを止める奴はいないのか? あいつがいると仕事にならねぇよ。どうせまた仕事の邪魔をするに決まってるんだから」
「やあエビちゃん、また大変な事件が起きましたな」丸出が緊迫した雰囲気を粉微塵にするような明るさで声を掛けてきた。
もちろん丸出のせいで、その後の田中里美に対する聞き込みはろくなことがなかった。海老名が丸出にここから出て行けと言えば、丸出は海老名の酒気帯び運転の件をこの美女の前で言うぞと脅すし、3月だしスギ花粉がひどいんだから、この季節では当たり前じゃないですかと言い訳しながら、丸出の大きなくしゃみに妨害されるし、しかもなぜか突然丸出がマンションの壁に頭突きを始めて気を失うしで、散々な目に遭う結果に。
自称名探偵・丸出為夫。探偵としての能力は全くないどころか、常に警察の厄介者。はっきり言って、ただの疫病神。ただし刑事たちの弱みを握って恫喝する術には長けている。だから追い払おうにも、簡単には追い払えない。あいつはいったい何者なのか?




