56話 父親
みやした……とおる。
その名前は私の記憶に抉る様に刻まれていた。
『宮下徹。それが貴方にもう半分の血を分けた父親の名前よ』
昔。なんで私が産まれた時から家に父親が居ない事を疑問に思い、父親は誰なのかと駄々を捏ねたら、お母さんが辛そうに語った名。そしてお母さんは後悔した様に続けた。
『正直私は、もうあの人の事なんて思い出したくもない。本当に馬鹿だよ私は……。なんであんな最低な人を僅かでも魅力に思ったのか……。なんで……なんで』
その時のお母さんの涙を見て私は、その人の事を追及することはしなかった。
それだけそいつはお母さんを傷つけたのか、子供でもその事は分かった。
そう。この宮下徹と名乗るおじさんは―――――お母さんと私を捨てた、最低野郎!
「おいおい、なにそんなに睨んでやがるんだよ。折角父親が会いに来てやったのによ?」
「父親? 今更になってノコノコ現れた分際で父親を名乗るな!」
「そんなに怒るなよ。会いに来れなかったのには事情があったんだよ。俺は娘のお前の事を愛してるんだからよ」
何とも白々しい言葉を並べる人だ。お母さんの言っていた通り。
宮下徹は、言うなれば人を惑わす言葉と甘い笑顔をを巧に操って人を貪る食虫植物様な人だって。
だけど……反吐が出る言葉は兎も角、甘い笑顔って……全然それは見受けられない。汚らしいどぶ川の様な顔だ。
「事情があった? 愛してる? 私が何も知らない子供だと思って騙せると思っているの!? 貴方がお母さんにした仕打ちを私が知らないと思った!?」
無知な子供だと思っていたのか最低野郎はチッと舌打ちをして。
「あの女、余計なことを話しやがって、いつも俺の邪魔ばかりしやがるな本当に」
私を騙せないと踏んだのか陰鬱そうにため息を吐いた最低野郎は、舐める様に私の体を見て来る。
「それにしても写真で見た通り、本当にあの時の田邊にそっくりだな。それにその美形。流石俺の血を継いでいるわけがあるな」
最低野郎による私の容姿の感想に私は殺意に近い嫌悪感が滲み出る。
「なわけないだろ! 私はあんたみたいな遊んだら遊んだで人を捨てる最低野郎の要素なんて何処も受け継いでない! 勝手な妄想は止めろ!」
私はお母さんや康太さんに話す様な口調でもなく、正直自分でも驚いている。私もこんな汚らしい言葉を使えるんだって。それだけコイツの事が心底拒絶したがってるんだ。
私は強く最低野郎を拒絶するが、こいつは呆れたように鼻で笑い。
「なに言ってるんだ馬鹿。人間は単為生殖は出来ないんだよ。必ず雄と雌の遺伝子が必要。んで、お前はあの女と他に俺の遺伝子も受け継いでいるってこと。つまり、お前は必ず俺の要素も何処かで受け継いでるんだよ。そんな事も知らねえのか?」
知らない訳がないだろ馬鹿! 私がお前の事を認めてないって言ってるんだ!
「それにしても、体付きは良いし、顔も良い……。よし、これなら使えるな」
使える……こいつは何を言ってるんだ?
と茫然とする私の左腕を最低野郎が掴んで来た。
「な、なんで掴むの! 離して!」
最低野郎に左腕を掴まれた私は全身の毛が逆立つ様な気持ち悪さが滲み出て、必死に解こうとするが、相手が男で私よりも力があるから、振り解く事はできない。
「大人しくしやがれ! お前はこれから、父の為にその身体を使うんだよ!」
「言っている意味が全然分からない! 本当に離して!」
藻搔く私に最低野郎の表情は苛立ちを見せ。
「だから大人しくしろって言ってるだろうが!」
激情した顔の最低野郎は黙らす為か私の頬を強く殴った。唇が切れたのか血の味がする。
こうやって人に殴られたのは……初めてだった。
「よーく聞けよ。実は俺には借金があるんだよ。ヤバい所から借りた所為で膨大にな。毎日毎日借金取りに追われる日々。マジで嫌になるぜ。だがな、そんな俺にも運が回って来たんだよ」
最低野郎は私に不適を笑みを向ける。
「天は俺を見放さなかった。あの時のガキがこんな良い女に育ってるなんてよ。あのボンボンの探偵野郎には本当に感謝だよ。俺に、こんな可愛い娘がいるんだって知れたんだからよ」
コイツはなんの話をしているんだ。ボンボン? 探偵?
「おい娘。俺にはAV会社に知り合いがいるんだ。そこで父の為にお金を稼いで来い!」
私は眩暈と過呼吸で今にも失神寸前だ。こんな最低野郎が私の血を分けた父親なの……。
私が求めていたのは……。
「止めて! 誰が貴方みたいな人の為にそんな所に行かないといけないの! 自分で作った借金なんだから、自分で返せばいいじゃん!」
私は強く抵抗を示すと最低野郎の表情はどす黒く怒りで染まり、再び私の顔を殴った。
「黙れよ馬鹿女が。誰の所為で俺がこんな苦労をしていると思ってるんだ……? 頭の緩いテメェの母親と、テメェの所為だろうが!」
そう怒声を飛ばして更に私の顔を殴って来た……そして最低野郎は私を殴った自身の手を見て。
「おっと、こいつは俺の為にAVに出るんだ。顔はマズいか」
殴ったことの反省ではなく、殴った個所への反省なんて……聞いてた通りの屑野郎だ。
最低野郎は私の胸倉を掴み。
「よーく聞けよ。俺がこんな風に落ちぶれたのは、テメェの母親がテメェを妊娠したからだ。それがなければ、俺は人生終わんなかったのによ!」
勝手な理由で殴るのを止めた最低野郎は唾が飛ぶ程の怒声を私に飛ばす。
聞いた話だと、この最低野郎はお母さんと裏で淫行を繰り広げた事でお母さんは私を妊娠。それで未成年との淫行が明るみに出て、教員資格を剥奪されて教員職を追われたと聞いている。
それを私達の所為だっていうの……?
「だからテメェは俺をここまで落ちぶれさせた贖罪をするんだよ。それに、子供なら父親のいう事を聞きやがれ! 親の為に働くのは子供にとって当然の事だろ!」
父親…………私の目の前には私が欲しかった父親がいるんだ……。血の繋がった父親が……。
だけど私は喜べない、喜べるはずがない。こんな奴が父親? ふざけるな!
「誰が父親だ……父親なら、自分の子にそんな事を言うはずがない!」
「……親が親なら子も子ってわけか。とんだ親不孝ものだな。テメェは俺のおかげでそうやって生まれてこれたのに、俺に対して恩を報いろうとはしないんだな」
「私に何もしてくれなかった分際で、恩もあるか……」
尚も私は反抗すると、最低野郎の顔が一気に冷めた表情となる。
「まあ、テメェが俺をどんな風に思ってようが関係ねえ。子は親の所有物だ。所有物をどんな風に使おうが構いやしないだろ。これで、俺の人生もバラ色だ!」
無表情となったと思えば高笑いをあげる最低野郎の目は何処か血走っている。最初から気づいていたけど、コイツ本当にヤバい! 変なクスリとか使ってるんじゃないの!?
「さあ来やがれ! 知り合いには俺がこの街に着いた時に連絡を入れている。今日デビュー映像を取るって言ったしそろそろワゴン車とかで来ているだろうな。俺をここまで落ちぶれされた報いだ、父親の為に精々沢山金を稼いでくれよ!」
最初から私の意志なんて尊重する気の無いように強引に引っ張る最低野郎。
私は必死に抵抗するけど、やっぱり男女の力の差では敵わず。
爪で引っかいたり、歯で噛んだりすれば一瞬隙が出来るかもしれないけど、それに逆上して殺されたりすればと足が竦む。助けて! 誰か助け!
私が欲しかったのは、こんな娘を道具の様に扱う父親じゃない!
私が求める父親は、私の事を本当に愛してくれて、心配してくれて、いつもはだらしなくても、私の為に必死になってくれる。私が心の底から敬愛出来る人だ。あの人の様な!
血の繋がりの所為で私は何処か後ろ髪を引かれた様な感じだった。だけど、私は知っているはずだ。
あの時、あの人が私の頭を撫でてくれた手を。私に投げかけてくれた笑顔を。
まだお母さんと婚約をしているわけじゃない。私の父親になってくれるって確定したわけじゃない。
だけど私は、父親になってくれる人なら誰でも良いってわけじゃない。私は、あの人だから父親になって欲しいって心の底から思った!
だけど私は何処か他所他所しくて、いつもなら揶揄い半分でも呼ぶはずなのに、私は呼べなかった。
私は呼びたい。この世界で唯一、それを呼びたいあの人に。
「助けて……康太さん――――――お父さん!」
私が切に願い叫んだのに応じてか、誰かが私の腕を掴んだ。
そして次の瞬間、最低野郎が誰かの裏拳を喰らい殴り飛ばされる。
「たくよ……。親子共々変な男に絡まれるなよな、この不良家出娘。お前を探し回って足がガタガタなのによ」
呆れながらも私の頭を優しく撫でるその手に、その声に私は涙が溢れそうだった。
本当に……カッコいいな。貴方がお母さんの幼馴染じゃなかったら、惚れてるよ、全く。
「おいおっさん。なに俺の大事な娘に乱暴してやがるんだ! 話なら父親の俺が聞いてやるよ」




