38話 悩み
世界を軽く照らす日輪、ジリジリ肌を焦がす熱気、白い雲が自由に漂う青空。
そんな空の下で屋上の風に当たりながら柵に凭れて天を仰ぐ俺。
「はぁ……雲は自由でいいな、悩みなんてないんだろう……。来世では悩みがない人生に生まれ変わりたいぜ」
柵が腰に食い込みそろそろ痛くなった俺は身体を回転。
次は柵に肘を乗せて屋上から見える光景を眺める。
「……あれ。夢だったんだろうか……けど、夢にしては現実過ぎる……なんて、現実逃避だな、これ」
あれは正真正銘の現実だ。
俺は先日。
社会人の身でありながら情けない湯冷めで風邪を引いてしまった。
その際、誤爆メールを幼馴染の凛に送ってしまい。なし崩しに看病をして貰う事にした。
消化の良い御粥を食べ、薬を飲んだ俺は寝床に付いた。
どれくらい眠ったかは分からない。体感的に僅かな時間だったかもしれないが。
トイレに行きたいと目覚めた俺の耳に入ったのは……凛の懺悔する様な声。
『……なんてこと、言える訳がない……。本当は今でもこーちゃんが好きだって、言えるわけがない……。私は一度こーちゃんを振った、私を好きでいてくれたこーちゃんを私は裏切った……。そんな女が—————今更好きでしたなんていえるわけが、ない……よ』
俺はその言葉を聞いて絶句した。
凛が俺の事を……好きだって言った。
その後凛は自分が馬鹿な幼馴染でごめんと俺に言い、恐らく本人は聞こえてないと思うが、その言葉を呟いて家を出て行った。
俺はその後頭の中で渦巻いた様に考えが巡り。結局は知恵熱みたいに再び発熱。看病の甲斐無く、風邪は長引いてしまった。
まあ、凛が念のためか簡易な食事を冷蔵庫に用意してくれていたおかげで、日曜日は朝から晩まで安静に過ごせ、月曜日の出勤には熱は完全に引いた。寝すぎた所為か体は気怠いが。
「やっぱりあれは……夢じゃないんだよな。凛が……俺のことが好きだって」
再確認する様に呟くと俺の脳裏にフラッシュバックする。
『私もこーちゃんの事、大切に思ってるよ。多分、友達の中で一番だと思う……けど、ごめん。私ね。付き合っている人がいるんだ』
俺は一度、凛に振られている。
だが、俺は別に凛を恨んじゃいない。
恋愛は互いの想いの矢印が対面して成就するもの。俺と凛の想いの矢印が違う方向に向かっていた。ただそれだけだ。人の気持ちを決める権利は誰にもない。振ったあいつを咎める権利は誰にもない。
……思い返せば、あれも、気のせいじゃなかったのかもしれないな。
俺が凛に振られた時、俺は辛い現実から目を背ける様に、凛のもとから逃げた。
その時、俺は一瞬、凛の方を振り返った。
あの時、何故俺は振り返ったのか分からなかった。もしかしたら凛が追いかけてくれるんじゃないかって女々しい考えがあったのかもしれない。
だが、凛は俺を追いかけて来なかった……だが、俺はあの時見たんだ。
凛が今までに見た事のない様な悲しい顔で泣いていた。
何故振ったお前が泣いているんだよ、と思って、俺はただの見間違いだと思った。
だが……あれは本当に見間違いだったのか、正直、今更どうでもいいことなのだが……どうでもいいと思う反面、俺は胸の真ん中ムカムカする。この気持ちをどうやって止めればいい。強い酒でも飲むか?
「なにそんな所で黄昏てるんだ、古坂少年」
「……白雪部長。てか、誰が少年だ、誰が」
酒という単語の巡り合わせか、奇妙なタイミングで酒の鬼、白雪部長が登場。
白雪部長は片手をポケットに入れながら、柵の方まで歩み、俺から2メートル離れた所で俺と同じ様に柵に肘を乗せる。
「悪いが古坂。お前、タバコの臭いは嫌いか?」
「え、別に……居酒屋とかで慣れてますから」
唐突な質問に面食らう俺の返答を聞き、「そうか」と言って白雪部長がポケットから取り出したのは……タバコ?
面食らう俺を他所に、白雪部長は箱からタバコを1本取り出し、ライターで火を点け、徐に吸い出す。
「……………」
「どうした古坂? そんな珍妙な物を見たって顔をして」
唖然とする俺に部長が訊いて来ると俺は我に返り。
「部長って、タバコ吸うんですね……?」
俺の問いに部長は「あぁ……」と納得して。
「別に隠してたわけじゃないが、たまにだよ」
「たまにって……どれくらいですか?」
「そうだな……前に吸ったのは、3年前かな?」
「3年前!?」
もうそれはたまにってレベルなのか!?
だからか。俺は入社以来タバコを吸っている部長を見た事がない。
年単位で久々なのだから、逆に珍しい現場に立ち会えたみたいだ。
酒にたばこってこの人、健康状態は大丈夫なのだろうか?
まあ、酒は兎も角、たばこに関しては大丈夫なのだろうが。あまり吸ってないみたいだし。
少し驚いたが、別に法律を破っている訳でもなく個人の自由だから受け入れるけど……1つ気になった事がある。
「俺、よくコンビニ行ってタバコの棚とか見ますが、今白雪部長が吸っている銘柄、見た事がないですね。海外のやつですか?」
部長が握るタバコの箱の表紙は微かに痛んでいて、絵柄も何処か古い様に思えた。
俺の違和感に部長は予想外の返答が来た。
「まあ、そうだろうな。だって——————これ18年も昔のタバコなんだから」
「はぁあああああああ!?」
18年!? また年単位!
どんだけ古いタバコなんだよ。
「てか……タバコって賞味期限とかなかったですけ?」
「一応あるぞ。だが、賞味期限はあくまで賞味期限だ。超えたからって吸えない訳じゃない……が、正直言って、クソマズイ……」
女性がクソとか言うなよというツッコミは無しとして、
「マズイなら吸わなければいいんじゃないですか? 体にも悪いし。なんでそんな物吸ってるんですか?」
「……そうだな。こんなマズイ物、真の意味で百害あって一利なしだ。……だが、稀に吸いたくなる時があるんだよ、私にも……」
言葉で言いながらも部長は再びタバコを口に咥える。
先端の部分が赤く光、消えると、部長は口から煙を吐く。
宙を漂う煙はまるで天まで届けと言わんばかりに浮かび、そして儚く消える。
そしてタバコを口に咥えながらに横目で俺に聞いてくる。
「てか古坂。お前、こんな所でなにか考え事か? 悩みならお姉さんが訊いてやるぞ?」
はぐらかす様に話題を転換させる部長。
お姉さんなんて、確かに部長の方が一歳年上だが、お姉さんなんて言われたら少し引くな……。
けど、部長も30を超えた大人で人生経験も豊富だ。
悩みは一人で抱え込まず、誰かに吐き出せば楽になる事もある。
そして部長が俺の悩みに真摯に答えてくれたのなら、もしかしたら答えが出るかもしれない。
「ならお言葉に甘えて相談に乗って貰います。実は——————」




