プロローグ ~三年前~
その少年は、苦々しい顔で、空に浮かぶ鋼鉄の船の艦載機格納庫を足早に進んでいた。
船の動力源である魔導炉に近い区画であることから響く重低音の中を少年が歩いていると、その姿に気づいた周囲の少年少女たちの一団が慌てて敬礼をする。
「ファン・ボルスト特務大尉に、我らが独立大隊長に敬礼!」
しかし、ファン・ボルスト特務大尉と呼ばれた少年は、自らと同じホーランド公国陸軍空戦隊パイロットの証である飛行服を身にまとう部下たちを一瞥すらすることなく艦内を進んでいった。
道中でそんな光景を何度か繰り返し、明らかにいつもと違う少年の鬼気迫る様子に困惑する者たちを置き去りにして少年がたどり着いたのは、艦橋だった。
「提督、先ほどのふざけた艦内放送はどういうことだ!!」
「ファン・ボルスト特務大尉。入室時には官姓名を名乗るという程度のことは習っているはずだろう。そもそも、艦橋要員でない者が、艦橋に無断で立ち入ることは許されていないはずだが」
少年が迷わず怒鳴り付けた初老の『提督』は、陸軍中将。つまりは将軍として、数万人規模の軍団を預かり、運用する存在である。
一方の少年は、50人ほどのパイロットとそれに付随する人員の、合計100人にも満たない部下を率いるにすぎない身だ。
常識で考えれば、雲の上の存在に噛みついた少年の行為は、軍法会議にかけられ、場合によっては死罪となることもありうるものである。
だが、少年の『立場』と『実績』ゆえに、誰にもこれ以上強くとがめられることはない。
艦の両脇をそれぞれ固める二隻の護衛艦や、一人ひとりが豆粒のように見える地上部隊からの報告が無線から流れる中、艦橋を包んだ沈黙は長く続かなかった。
「提督。もう一度だけ聞く。先ほどの『作戦を中止し、全軍後退する』とは何事だ!!」
「君が今言ったとおりだ」
「中止? 後退? 何をバカな! この戦いに負ければ、首都まで敵軍を遮ることのできる防衛拠点はもう何も残っていなんだぞ! だからこそ、こちらの主力が敵主力の攻勢に耐え抜いている間に、我らが敵側方を打ち破り、後方へ回り込んで潰走させる! そのために、地上も空中も快速部隊を抽出したんだろうが! 五倍の敵相手に戦っている味方主力のためにも、進まねばならない!」
「状況は変わった。これ以上の作戦続行は不可能なのだよ」
「変わっただと? 確かに、こちらの空戦隊も度重なる空戦で損耗率は三割を超えてはいるが――」
「そういうことではないのだよ。味方主力部隊が敗走した。もはや、少数で後方に回り込んだところで戦術的に何の意味もないのだ」
その言葉を聞き、少年は理解できないとばかりに表情が固まる。
そして少ししてから、ゆっくりと口を開く。
「味方主力が潰走? そんなわけがない。学徒兵ばかりのこちらが、倍以上の敵を相手に何度も突破を成功させているんだぞ? 精鋭ぞろいの主力部隊がこちらより先に敗走するなど……」
「先ほど後部防空監視所から報告があった。本艦の遥か後方に、味方損傷艦が隊列も維持できずに敗走しているとな。敗走した味方の全部がこちらに来ているわけではなかろうが、首都とは別方角のこちらへと落ち延びざるを得なかったところを見るに、味方主力部隊は秩序だった後退もできないほどに惨敗したようだ」
「そんな……そんなのは、憶測だ!」
「加えて言えば、味方主力から戦域全体へと発信されていた暗号通信も、この一時間ほど途絶えている。本艦から戦況確認と連絡のために送り込んだ連絡機も、通信が途絶した」
状況が絶望的であると判断された材料を並べられ、しかしなお、少年は引かなかった。
「だが……だが、まだやれる! 俺一人ででも、飛行艦の数百隻、航空機の数千機、地上軍の数万人くらい、殲滅できる! そうすれば、敵軍とて撤退を余儀なくされるはずだ!」
「そうだな。君ならできるだろう。――だが、君が敵を殲滅する間、他の者たちが王国軍の攻勢に耐えきれると思うかね?」
その言葉に、歯を食いしばるばかりで反論できない少年を見て、ため息とともに提督は言葉を続ける。
「君は、陸でも空でも、個人の武勇をもって、よく祖国に尽くしてくれた。開戦前は、百倍どころではない国力差から、三日で蹂躙されて終わると言われていた王国相手の祖国防衛戦争を、三年にも渡って継続できたのは、君の個人武勇のおかげだ。だが、君はまだ子供だ。大人の不始末を、ここまできてなお子供に押し付けようとは思わんよ」
「残念ながら、俺は今日で十五になった! 我らが祖国の法に従えば、今日から大人だ!」
「だから、君のその――」
『前部防空監視所より艦橋へ! て、敵です! 敵がたくさん!!』
伝声管を通じて送られた突然の報告に、提督と少年の舌戦によって異様な緊張感に包まれていた艦橋が、一気に活気づいた。
「艦橋より前部防空監視所! たくさんでは分からん! どっちから、どれだけの敵が来る!?」
『え、えっと……えっと……』
「もういい! 防空指揮所! 艦長、そこから敵は見えるか!?」
明らかに経験不足だろう明らかに幼い声の見張り員へと見切りをつけた提督の怒号が響く中、艦橋正面の窓へとおもむろに近づいた少年が口を開く。
「進路上に敵を目視した。数は、空中艦が少なくとも三十以上、うち十以上は大型の戦艦や空母だ。航空機は小さすぎて確認できないが、数百はいるものと推察される。さらに、地上にも五万程度の敵部隊。対艦用大型対空砲も目視できるだけで二十はくだらないな」
今更、通常人では、そこにいると言われてようやく黒い点が見えるか見えないかとの距離から肉眼でこれだけ見えていることに驚く者はいなかった。
ただ、少なくともこちらの五倍に達する敵部隊を相手にどうなるのかと不安を抱えながらも、各自の役目を果たす艦橋要員たちであったが、続く少年の言葉に手が止まった。
「敵軍の旗印が見えた。あれは……そうか。――敵は、マントイフェル州軍だ」
状況は最悪だった。
味方はほぼ確実に敗走して孤立する中、迫りくる敵は、質も数も圧倒的に格上。
「なんで……こんなときに王国軍の最精鋭が……」
誰のものとも分からぬこのつぶやきが、艦橋要員たちの総意であった。
しかし、戦いは今も進んでいる。
ゆえに、いつまでも手を止めている場合ではない。
圧倒的な劣勢であるからこそ、時間は千金よりも貴重であるのだから。
そうして提督は転進命令を改めて全軍へと通達するために口を開こうとし――それを遮るように、少年が提督へと銃口を向けた。
「さて、君が私を殺すのに、そのような武器は不要だと思うが。何のつもりかね?」
提督は指揮官らしく、少なくとも表面上は落ちついた様子で口を開く。
応じる少年も、表面上は落ち着いた様子で口を開いた。
「議論の時間はないようなので、この方が分かりやすいかと思ったまでだ」
「……またこの夢か」
目が覚めて最初に目に入ったのは、今までも何度か泊まったことのある宿の天井だった。
「三年も前のことだってのに、我ながら未練たらしいもんだ……」
他に誰もいない部屋で、つぶやくようにそう言うと、ベッドから起き上がる。
窓を開けて朝日を浴び、あわせて照明のスイッチを入れて電気を通す。
『前世の記憶』からすると、地方中枢都市に当たる街の宿で電気はあるのに、水道の水でなく、井戸で汲み置いた水で顔を洗うことに違和感が今でもぬぐえないのだが、そこは折り合いをつけた。
貴族だの魔法だの傭兵ギルドだのが存在する世界で、鉄の船が空を飛んだり飛行機が空戦したりしているのだ。一々気にしていたら、身が持たないとも言える。
顔を洗って鏡を見れば、前世の顔とは大きく違う、白い肌にくすんだ赤毛の男がこちらを見返す。
その後、リボルバー式の拳銃に細身の魔法剣といった傭兵としての商売道具である武器を簡単に点検。そして、ズボンとシャツを身に着け、革ブーツを履き、革のコートに身を包む。
最後に、背嚢の中身を確認して私物を忘れていないことを確認すると、部屋を出た。
こうして、いつもと変わらぬ一日がまた始まる――その時は、まだそう思っていたんだ。