道すがら
新宿の小さなバーで知り合いがバーテンをやっていて、久しぶりに顔でも出そうかと、僕は新宿駅に降り立った。
新宿駅は人でいっぱいだった。夜の新宿。どうしてこんな人がいるのだろう。僕は普段は郊外に住んでいるので、東京の人の多さは圧迫感としてしか感じなかった。
(どうしてこんなに人がこんなに多いのだろう)
改めて考えながら足を踏み出した。バーテンをしている知り合いと会うのは半年ぶりだった。それが楽しみと言えば、言えた。
歩行者天国、というのはどんな天国なのか?、そんなものに「天国」なんて大袈裟な名前をつけるんじゃないよ、と海外の人間に言われたら恐縮だが、歩行者「天国」を僕は歩いていた。車は入れない。新宿の中にある人が溢れている街路。僕はスマートフォンの地図を見ながら、バーに向かって歩いていた。その途中、妙なものを見た。
一人の女、背の小さい女がマイクを持って、通り過ぎる人々に向かって何かを訴えかけていた。彼女の左右にはスピーカーが置いてあった。アジテーションというやつだ。女はコチコチに固まって、緊張しながら、一言一言絞り出すように聴衆に向かって訴えていた。
「大韓民国は…日本民主主義を…攻撃しています…大韓民国は…日本を…今こそ…日本は…」
僕は興味を持って、立ち止まって彼女を見た。彼女はごく普通の女の子に見えた。小柄な、カジュアルな格好の二十代くらいの女。後ろに何人か、仲間だろう男が三人ほどいるのが目についた。僕は、彼女がスピーチするのは、彼女の見た目がいいからだろう、と勝手に判断した。きっとその仲間内では、彼女がやるのが一番聴衆に対するアピールになると考えられたに違いない。勝手ながらそう考えた。
彼女と言えば、相変わらずガチガチに固まって、一言一言絞り出すように話していた。顔の表情も恐ろしく硬かった。
僕はまわりを見渡した。立ち止まって聴いている人間は一人もいなかった。みんなどこかへ流れ消えていく。彼女は、この大勢の人達に向かって、恐ろしいほどの緊張の中で必死に言葉を絞り出していた。
僕は彼女の話しているイデオロギーには賛成できなかったが、なんだか彼女を励ましてやりたい気がした。近づいて、(大丈夫、そんなに緊張しないで)とでも声をかけてやりたくなった。いや、本当は後ろの男達の誰かかそう言うべきだったのかもしれない。男達はただ傍観を決め込んでいるだけだった。
彼女が、この消えていく人混みに向かって、いわば冷たい世界に向かって何かを訴えかけているのは確からしかった。彼女は必死だった。今にも消え入りそうな声を切れ切れに発していた。
僕はしばらくそこに立ち尽くしていた。が、やがて僕は歩き出した。僕も人々と同じなのだ。その子がどうしようが、知ったこっちゃないのだ。
道々、歩きながら彼女の固まった表情が思い出されて仕方なかった。僕は彼女が何故そんな風な事をするようになったのか、知ってみたい気もしたが、それよりも自分の用事の方が大切だという気もした。
バーについた。中に入ると、「やあやあ」とバーテンの知り合いと気安い挨拶をして、ビールを頼み、「最近はどう?」などと適当な受け答えをして近況を確かめあった。
彼は元気らしかった。僕もまあ元気だった。ただそれだけの事だった。バーには常連客が三人いた。すぐ全員での話になった。全員男だった事もあって、流れで、下ネタ大会になった。みんなでずいぶん下品な事を言って笑いあった。
僕も流れに乗って、ずいぶん下品な事を言った。馬鹿な男子校のような雰囲気だった。それはそれで愉しかった。
二時間ほど談笑すると、僕は「そろそろ帰る」と言い、バーテンの友人と「また会おう」と約束した。帰り道、僕は酔った頭のまま道を歩いていた。
ふわふわした僕の頭には、行きがけに見た光景はもうなかった。酔った心地よさの中、駅まで歩いた。帰りは行きとは違う道を通ったから、女がまだアジテーションしているのかもわからなかった。
僕は新宿駅につき、改札を抜けようとした。Suicaを読み取り機に当てたつもりだったが「ピンポーン!」と音がしてうまく通り抜けられなかった。僕は「なんだよ」と悪態をつきながらもう一度Suicaを読み取り機に当てた。こんどはうまくいった。僕は改札を抜けた。
帰りの電車の中…座席が埋まっていたから、立った。窓ガラスに顔を近づけて、夜の中に光る東京の街を見ていた。無数の人間が蠢いている街…僕はふと、彼女を思い出した。小動物のように必死に震えながら世界に向かってわけのわからない事を語る女。僕はなんだか彼女の方に「正当性」がある気がした。なにせ、僕はさっき、酔って散々くだらない下ネタを言ってきたばかりなのだ。真面目な…たとえそれが間違った思想であろうと…真面目な言葉を勇気を持って語る彼女の方が正しいような気がしてきた。
しかし、それもやっぱり全部嘘な気がしてきた。電車は動き、窓の外の風景は変わるが、夜の暗さは変わらない。とどのつまり、光がなければ景物には意味がないのだ。
やがて席が空いて、僕は座った。なんだか吐き気がした。それでも、我慢できる気がした。僕は我慢しようと決めた。
全ては…あの子のやっている事も、僕がこんなにくだらない夜を過ごしたのも、全ては腐り落ちている途上の世界の一環に過ぎないように僕は感じていたのだった。胃のむかつきがそう思わせたのかもしれない。僕は…馬鹿だった。彼女に声をかけてやるべきだった。一言、「そんなに緊張しなくても大丈夫」と言ってやればよかった。…だけど、言ったらもっと後悔しただろう。
電車は動いていく。世界もどこかに揺れながら動いていく。しかし行く先も終着駅もわからず、ただゆらゆらと動いて変化していくだけだ。僕は死ぬまでくだらない人間だろう。そういう気がした。
電車が進むにつれ、胃のむかつきは強くなっていた。(大丈夫、大丈夫…)と唱えるほどまでになっていた。やがて、電車は僕の駅についた。よろよろと降りた。
アパートに戻るまでの途上、電信柱の陰でしたたかに吐いた。体の中のものが全部出るかと思うまで吐いた。吐いた汚さ、醜さ、その光景が僕自身そのままの姿に見えた。口を手で拭い、歩き出した。頭はぼんやり濁っていた。僕はこの世界が腐り果てていくのをどこまでも観察したいと考えていた。その内、下ネタを言うのもやめて、あの女のグループに入れてもらい、僕も何かスローガンを…言うべき事を覚えて言うようになるだろう。それが僕の願いだった。いつかそれが言えたら…。僕はそんな事を切れ切れに思い浮かべながら道を歩いた。アパートについた時は、ほっとした。生きられる、と思った。
シャワーを浴びている時の僕の頭にはもうあの女も、バーテンをしている知り合いの姿もなかった。ただ身体の気持ち悪さから解放されたという喜びだけだった。僕は…絶望を胸に秘めたまま、バスルームを出た。多分、もう二度と新宿に行く事はないだろう。その後、テレビを見ながら、なぜだかそう考えた。




