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二人のとぉこ







 秘密の部屋の匂いは、甘い。

 甘ったるい、花と死と生の香りが充満している。



 灯子は、セーラー服を着ていた。ベッドの上に横たわっている。髪が扇のように広がっている。

 小さな小瓶を握り締めている。花江の遺品。花江からのプレゼントのよう。小瓶の中身は、透き通った赤い液体。灯子が蠢くたび、ちゃぷんちゃぷんちゃぷん。鋏はもう灯子には必要ない。 

 空の色は、群青。白い、少ぅし欠けた月が仄かに見える。小瓶を透かすと、赤い液体が自ら発光しているかのようで、とても綺麗だ。



 生きたがりの塔子の匂いは、甘い。

 甘ったるい、花江の香りが、漂っていた。

 

 もういいや。


 呼吸をするのが、とても面倒臭く思える。いや、常日頃から思っていたが。

 黒い髪や、スカートが闇にとろける。肌は、包帯はベッドの白と滲んだ。しばらく夢現のまま、灯子の瞳は虚無を眺めていた。月明かりが嫌に眩しく思える。白、いや青なのか。浮かぶ月は、青白かったり銀だったり不思議に色を変えているような気がした。夜の空に滲むような月の光。それと似て、じわじわと心から何かが、闇の中に染み渡っていくように感じる。これは何なのだろうか。答はあるのだろうか。ああ、わからない。これはこの先わかることなど有り得ないのだ。

 耳が痛くなるほどの静寂の中、木々の葉が擦れてざわめいた。きっと、この秘密の部屋という城の主がやって来たのであろう。いや、もうこの城の主は灯子になるのだ。

 軋んだ音を立てて、秘密の部屋の扉が開く。

 生温い風を孕んだ白いワンピースが、海に漂うクラゲのようだ。塔子が淑やかに微笑んでいる。白い足の裏をひたひたと床に押しつけるように、近づいてきた。どろりと闇に溶けている灯子は、ただぼんやりとそれを見ていただけであった。

 ベッドを軋ませて、塔子が腰かけた。花の香り、それに紛れた死の香りが、灯子の鼻腔をくすぐる。

 塔子は細い指で、灯子の髪を梳く。カラスのぬれ羽色の髪は、指に絡まることなく艶めく。

 塔子が灯子の隣で寝そべった。灯子から漂う石鹸の匂い。その合間を縫って存在する生の香り。塔子は深く息を吸った。肺に満ちていく、その澄んだ香りに塔子の瞳は酔ったようにとろけた。

 綻ぶ口元に、灯子の髪を持ってきた。さらに強まる、塔子が一番欲しくて一番焦がれているその匂い。

 

「なに」


 闇の中から意識を呼び起こした灯子が訊ねた。くすくすとこそばゆいような笑い声を立てた塔子は、訝しげに眉を寄せる灯子に手を伸ばした。髪を、耳を、目蓋を、頰を、唇を、指先でなぞっていく。

 

「やっぱり、似てる」


 吐息が漏れるように塔子は笑った。灯子はくすぐったそうに微かに身を捩る。ちゃぷんちゃぷん、赤色が鳴る。

 灯子は瞳をくるりと回して、部屋に漂う闇を見てから塔子に視線を戻した。赤く染めされた塔子の白い頰と、灯子の奥にいる誰かをを覗き込むかのようなとろける眼差しに、灯子は気付いた。


「貴女の好きな人に?」


「そう。かあさん……」


 ああ、それではわからないね。とふと思ったのであろう。塔子は色のない唇に細い指を当ててから、小さく頷いた。


「……花江に」


 ころりと塔子の口から落ちた、その名前に灯子の肩はぴくりと跳ねた。


「……どういうこと」


 灯子は訝しげな瞳を、塔子に向けた。塔子は、子どものように邪気のない笑みを浮かべて、言う。


「真実を知りたい?」


「……ええ、もちろんよ」


 どうせ死ぬんだから、と続く言葉をごくんと飲み込んで灯子は頷いた。塔子は、にんまりと微笑んだ。


「あたしの母親は、瑠璃。まぁ瑠璃さんは、私の存在なんて知らないのだけれど」


 ルリ、るり、瑠璃。瑠璃は灯子の、母親であるはずだ。灯子の頭はくるくると混乱し始めた。まるで昨日の迷路のようである。瑠璃との思い出がふわふわと脳裏上に浮遊し始める。しかしどの思い出の場面にも、塔子という名の少女の姿はひとつも存在しなかった。

 では瑠璃が灯子の母親でないなら、灯子の母親は一体誰であろう。


「……じゃあ、私の母親は」


「花江」


 すとん、と。在るべきモノが、そこに在るように、納得できた。本来ならば衝撃を受ける答えのはずである。しかし、凪の湖のように灯子は落ち着いている。自分でもわからなかった。自分でも恐ろしく感じるほどの、冷静さ。


「そう」


「びっくりしないの? 花江だよ」


「納得、できるの。ねぇ、それなら、私のお父さんは……」


「あたしの父親と、あんたの父親は、一緒だよ」


 灯子はふと、この秘密の部屋のことを思い出した。塔子の色のない唇から紡がれた言葉を。遠い昔の、花江の赤い唇から紡がれた言葉を。



“どっかの資産家が、ここの管理人である愛人と寝るための部屋だったそうよ”


“血の繋がりとか、あたしはもっと深いところで繋がりたかった”


“毎日お花のお世話をしているんですもの”


 迷路の中の薬を持っていたのは、花江。

 塔子の、好きな人は、花江。

 お花を育てていたのは、花江。

 ここの管理人は、花江ということになる。それなら合点がいく。

 資産家は灯子の父親で、愛人は花江ということである。

 絡まった糸がするすると解けるように、灯子の頭はすっきりとしていく。しかし、一つだけ、どうしてもわからないことがある。有り得ない。有り得るはずはないのだ。

 灯子の常識の中では。

 身体の内側から熱が滲み出ているようだ。灯子は、言った。


「お父さんと、花江さんは、兄妹よ……」


 願わくば。


「そう。あんたはその兄妹の間から生まれた、女の子。あたしは心臓が弱いから捨てられた、女の子」


 歌うように言った塔子は、くすりと笑った。思った通りだ、と。

 灯子の口元は、喜びに緩んでいる。

 そうか。そうか。そうか。そうだったの。 


「私は、花江さんの、娘……」


 ふわりと透明な雫が灯子の瞳に溜まって、ころりと頰を転がった。頰は薔薇色に染まっている。その姿の、なんと可憐なことか。なんと、生命の輝きに満ちて美しいことか。

 生の輝きを存分に浴びた塔子は灯子のポケットから、花江の口紅をそっと取り出した。蓋を外すと剥き出しになる、赤色。

 


「とぉこ」








「……はぁい」



 艶めく少女である灯子の唇に、紅をそっと乗せる。少女には不釣り合いな、赤色。花江の、赤。その唇を歪ませて、灯子は妖艶に笑う。


「塔子」


「なぁに」


「私の心臓を、貴女にあげるわ」


 灯子はそう言うと、身体を起こした。手に持っていた小瓶の蓋を開けた。赤い唇を小瓶の縁に触れさせる。赤い液体を、1機に飲み干した。


「あは」


 塔子は驚いて、固まっている。くすくすと悪戯っ子のように、灯子は笑っている。塔子に手を伸ばした。ある日の塔子がやったように、灯子の手のひらは塔子の頰へ。緩んだ包帯からは、痛々しい傷だらけの皮膚が、見えた。生々しく光る固まりかけた赤い液体に、塔子の目は奪われた。

 灯子は塔子の頰を優しく包んだまま、塔子の瞳を見つめた。


「これで、生きれるね。これで、死ねるね。よかったぁ。塔子、花江さんのお話をして。私が、死ぬまで」


 幼い子どものように、灯子はせがんだ。塔子を急かす。

 困ったように塔子は、微笑んだ。背中に伝う冷たい汗に、ふるふると塔子の身体は震えた。しかし、灯子の希望に答えるように、弾むような声音で話しだした。花の匂いを零しながら。花江との思い出を。

 灯子の方にばかり行って、寂しかったこと。

 でも帰ってくれば、たっぷり甘えさせてくれたこと。

 一緒にご飯を食べてくれたこと。

 花江だけが、塔子のことを心配して、病院まで駆けつけてくれたこと。

 本当の親子のようであった、ということ。

 塔子の話す花江は、灯子の思っていたとおりの、優しい花江であった。美しい花江であった。懐かしい花江で、あった。


 そのうち、灯子はとろりと微睡みだした。

 身体の内側から熱を発しているようであった。脳みそが、ゆっくりと、崩れていく、そんな感覚があった。

 




「はなえさぁん……」


 最期に、空気が抜けるような長い長い息を漏らして、灯子は息絶えた。

 幸福そうな、笑顔で、死んだ。

 灯子の抜け殻は白い月明かりに煌々と照らされる。

 塔子が惚れ惚れするほど、うっとりするほど、綺麗であった。












 涙が落ちる。

 頰を伝って。

 雫がベッドに転がる。

 染みをつくる。

 月明かりの下、塔子は一人だった。

 涙を流しながら、塔子は微笑む。



「さよなら、とぉこ」


















 いつか、花江が言っていた。花江が死ぬ、前日であったか。確か、そうだ。

 花江が塔子の病室に駆け込んできたのだ。花の匂いを纏って。


「とぉこ、とぉこ。ごめんなさい」


 子どものように泣きじゃくりながら、花江はただただ謝り続けた。

 どちらの“とぉこ”に言っているのか、わからない。塔子は状況が飲み込めなくて、ずっと花江の髪を撫でていた。艶々とした、黒い髪。


「触れてはだめだったのに……。あぁ、兄さん、ごめんなさい」


 塔子は撫で続ける。こんなに、取り乱した花江を見るのは初めてであった。七年間、共に過ごしてきたのに。本当の親子のように、過ごしてきたと言うのに。


「汚い私を、許して」


 塔子は、身を乗り出して花江を抱きしめる。点滴が微かに皮膚を引っ張って、痛かったが、我慢した。どうってことなかった。


「だいじょうぶ。かあさんは、きれいだから。ね?」 


 しばらくして、花江は幸福そうな笑みを浮かべた。よかった、立ち直ったのだ。幼い塔子はそう、安心した。

 しかし、これは大きな勘違いだったということに、次の日になって気づく。

 朝がやってきても、昼がやってきても、花江はやって来なかった。そして、塔子のもとを訪れて来たのは、父であった。塔子の心臓が悪いと知って、花江に押しつけた、男。いつもと様子が違った。


「なに」


「塔子。よく聞け」


 男なのに、大人なのに、目の周りを泣いたように真っ赤に腫らしている。花江とよく似た目元だった。

 告げられたのは、花江の死。

 原因は伝えられなかった。

 葬式にも、塔子の身体が心配だと言って置いていった。そんなの建前で、実際は存在を無しとしている塔子が、瑠璃の前に、親類の前に塔子という存在が知れ渡ることを恐れていたのだろう。

 妹を愛で溺れさせ、禁断の女の子を孕ませた、この男は。

 



 それから何年間も、塔子は父を呪いながら生きた。初めは何度も、父を殺して、自分も死んでやろうと思った。しかし、塔子は気づいた。自分が生き続けること、それがあの男にとって、最も深く絡みつく呪いだということに。

 塔子は、心臓に巣喰う病に抗った。薬と通院でなんとか生活をしていた。塔子は父と長年の付き合いの医師を、頼りにしていた。塔子は父親が養育費と通院費として振り込むお金のお陰でたくさんの、少女が持つには膨大なお金を持っていた。金で動かした彼に手引きをさせ、塔子は奇跡的に、同じ日に生まれた灯子と塔子の交換を裏で手伝っていた医師と、出会うことが出来たのだ。恐ろしいほどの執念で、塔子は大きな味方を得た。

 そして、最後の手段として、その医師から聞いたのが、迷路に在る、薬だった。

 父が、花江のために用意したものだ。

 死にたくなったらこの薬を飲めば良い、と。それまで自分のためにいきろと。“とぉこ”という二人の鎖で縛りつけた花江が、自由にできる一つの選択肢。

 この薬をどうにかして、もうひとりの“とぉこ”に飲ませて心臓を、もらってやろうと思った。医師からの情報で、塔子と灯子の臓器移植の相性は最も高かったのである。

 父に、絶望を与えたい。その憎しみでいっぱいであった。最愛の花江の間に出来た娘を、捨てた塔子に奪われたら父はどんなに苦しむのか、考えるだけで塔子の顔に笑みが広がった。

 ただ、瑠璃に対しては申し訳なさが募るけれど。何も知らない、可哀想な瑠璃。



 植物園の、秘密の部屋に入り浸り色々な作戦を考えているうちに、灯子が自らやって来た。

 ガラスの床を、海の底を覗くようにぼんやりと眺めていると、花を切り落としている少女を見つけた。その途端、つま先から頭のてっぺんまで、電流が走った。


 そっくりなのだ。灯子は、花江に。


 カラスのぬれ羽色の髪も。

 ガラス玉のように透き通った瞳も。

 薔薇色の頰も。

 さくらんぼのような唇だけが、少女特有のあどけなさ、幼さを表している、だけであった。


 この機会を逃すわけにはいかない、と塔子は声を零した。灯子はそれに気づき、秘密の部屋へとやって来た。

 容姿、環境、全てに恵まれているのに、死を求める灯子に嫌悪感を抱いた。塔子は一度、本気で殺そうとしたが、出来なかった。

 しかし、灯子は自らこちらへやって来てくれた。何かに縛られているように、それから抜け出したいかのように自らの命を絶とうとする、哀れな少女。当然のように薬の話にも、反応してくれた。

 それから塔子は、これから先に起こることが楽しみで楽しみで、仕方がなかった。花江が薬を持っていってしまっていたことは大きな誤算であったが。

 


 だから今、目の前に横たわる灯子の骸を見て、塔子は笑っているはずだった。

 瞳から涙が、溢れるなんてことは、塔子の予定にはなかった。

 塔子には、不思議なことに、この雫を止めることはできなかった。




 灯子の脳みそが機能を停止した。心臓の音が、次第に小さくなり、やがて消える頃。

 白い月が煌々と輝いて、眩しいくらいだった。

 塔子と灯子の父親が、やって来た。あらかじめ、呼んでおいたのだ。

 さあ、塔子。作戦をたくさん立てたのだ。 

 ここで、大きく笑って、男を絶望の底に叩き落とすのだ。











「お父さぁん」

 





 泣いて、笑って。

 さよなら、とぉこ。 


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