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二輪の花









「どんな方法なら綺麗に死ねるの?」


 色のない唇を三日月のように歪めた塔子が訊ねた。

 白いワンピースに包まれた細い身体を、軋むベットで仰向けに寝転がっている。天井の、もう点かない埃を被る電球を見つめていた。黒い髪が扇のふうに広がって波打っている。


「……それを知っていたら苦労しないわよ」


 灯子は、ベットに腰掛けて長い脚を冷たいガラスの床に投げ出していた。側には靴下が詰められたローファーが揃えてあった。ミントの爽やかな香りがするシートでうなじから足先までの汗を拭っている。


「あなた、学校は?」


 灯子は初夏であるのに眩しい太陽の光に照らされた道を走ってきた。熱いアスファルトを駆けて植物園にやってきたのにも関わらず、秘密の階段を上り、扉を開けると塔子はいた。夏の暑さを感じられない涼しい表情で灯子を出迎えたのである。


「行ってない」


 家庭教師はいるよ、と笑い、ころりと転がってうつぶせになった塔子は本の表紙を捲った。


「学校に行かなくてはだめでしょう?親はなにをやっているのかしら」


「『教育を受けさせる義務』があるだけよ。家庭教師でもいいの。あんた、学校行っているのに馬鹿だね」


 ため息を吐いた灯子は足元のガラスの床を、船から水中を覗き込むように見た。植物園は無料で開放されているというのに誰もいない。静かな凪のようであった。初夏の風に吹かれた異国の花々だけが、色とりどりの魚ように、揺蕩う。

 灯子は塔子の隣ににじり寄ると、髪を軽く引っ張った。


「なに」


「考えるわよ」


「なにを」


「交換するんでしょう。身体を」


 塔子の表情は一気に晴れた。


「そうだった」


「そうよ。でも、なぜ貴女と身体を交換したら死ねるという確証があるの」


 塔子はこほんと咳を一つ。自分の心臓のあたりを指で、なぞった。


「ここ。あたし、心臓が悪いの」


「あら、羨ましい」


「十六になる前に、死んじゃう」


「それにしては元気そうね」


「それは医学の進歩のおかげ。これでもだいぶ症状を隠している」


「へぇ、すごいわね」


 だから、と鞄に手を伸ばして銀色の鍵を取り出した。金属の甲高い音が、部屋に小さく響いた。秘密の扉を空けるアンティーク調の鍵、というわけでもなくごく普通の鍵である。


「これでお薬を取りに行くの」


「お薬?」


「そう、薬」


 塔子は、にんまりと微笑んだ。邪気のない子どものようだった。色のない唇から、くすくすと笑い声が漏れ出す。


「あんたの心臓とあたしの心臓を交換する薬」


 どくり、とひどく心臓が大きく鳴ったような気がした。灯子は身体を起こし、シーツの上で白い膝を抱えた。灯子の手のひらは自分の心臓に触れようとした。しかし、セーラー服の布、肌着、柔らかな脂の塊、赤い血肉、白い骨に遮られた。もどかしい気持ちを覚えながらも、灯子は言う。


「そんなもの、ないでしょ」


「在るんだよ、それが」 


 塔子は笑う。


「まぁ、詳しく言うと、あんたの脳みその働きを止める薬。んで、あんたの心臓を私がもらうってわけ」


「そんなもの、……」


 灯子は、俯き、長い睫毛を伏せた。重力によって黒い髪がさらさらと水のように肩から流れ落ちる。笑う塔子を視界から消した。塔子は灯子の視界に戻ろうと、仰向けに寝転がり、顔の下へと無遠慮に侵入してきた。


「在るよ」


と、渇いた手を伸ばして灯子の頰に触れる。赤みがかった白い頰を、嬉しさを隠すように歪める顔を、塔子の瞳から逃れるように傾く顔を、押さえる。


「……離してっ」


 灯子は言った。塔子は離そうとしなかった。



「とぉこ」







「……は」


 返事をする前に灯子の唇を片方の手でなぞる。肩を跳ね上げて驚いた灯子は、そのまま顔を上げた。塔子がゆっくりと起き上がった時には、もう、灯子は自分の顔を手のひらで覆っていた。指と指の隙間から覗く口元は、堪えきれない嬉しさで三日月のようにつり上がっている。

 塔子も、思わずくすりと笑った。


「さぁ、探そう。どこにあると思う?」


 んぅ、と灯子はこみ上げる嬉しさを飲み込み首を傾げた。赤らむ顔を拭いながら、言う。


「病院と、か」


「残念。不正解」


 塔子はランプを消すと、灯子の手を引っ張ってベッドから降りた。ひやり、と初夏とは思えない冷たさを足裏に伝えるガラスに降り立つ。

 塔子は壁の継ぎ目に指を差し込み、力を込めると、ことりと音を立てて小さな窓が出現した。今まで壁であると思っていた灯子は驚いた。そんな灯子を気にすることなく塔子は、窓の外へ人差し指を向けた。二人の顔が同時に出せるほど大きな窓ではないので、灯子は後ろから塔子の指を追った。普段と何も変わらない廃れた白い迷路がある。


「あそこ」


「迷路?」


「そう。あんたはこの植物園がいつからあるか知ってる?」


「知らない」


「この植物園は、昔からあったんだけど、二十年くらい前にどこかのお金持ちが買って色々造った。迷路と、この秘密の部屋もそう」


「へぇ」


「管理人が、その人がひどい死にたがりで、本当はその人に目標を与えるように作られたんだってさ。薬を見つけられたら死んでいいよって」


「ふぅん」


「七年、八年だったっけ。ここの管理人がいなくなって迷路とかの手入れがされてないんだ。元から人もそんなに入んないし、荒れ放題なのよ」 


「で、そこで薬を見つけないといけないのね」


 正解、と塔子は窓を閉めた。


「大変じゃないの」


「大変だよ。でも、二人いるから大丈夫。それに」


 鞄の中から、黄ばんで折りたたまれた紙を取り出した。にやりと笑みを浮かべる塔子。


「設計図持ってるから、あたし」















 ちょうどいい日になったらやってこい。あの日塔子に言われた。そんなちょうどいい日は、予想よりすぐにやってきた。

 雲一つなく、青が空を塗りつぶしている日だった。

 灯子は秘密の部屋にやってきた。もちろん、学校は休んだ。無断で。


「なーんて格好してるの」


 喜々として扉を開けた灯子に向かって、塔子は開口一番そう言った。セーラー服からすらりと伸びる、健康的な四肢。左手首に巻かれる包帯も恥ずかしげもなく、見えている。


「ここで着替えるの。貴女こそ、なんて格好しているの」


「ワンピースかと思った?これ、ズボンなんだよ~残念」


 塔子が脚をぱたぱたと動かした。脚に合わせてひらりひらりと白い花びらのようなズボンが揺れる。

 灯子は大きなため息を吐く。胸元の緋色のリボンに指をかけ、解いた。手際よくセーラー服を脱いでいく。秘密の部屋のひやりとした空気に、灯子の熱を帯びた肌が晒された。日頃の通学からか、つやつやの肌はうっすらと日に焼けている。

 灯子から鮮やかな生の匂いが漂い、充満する濃密な花と死の匂いとぶつかって、混ざり合った。塔子は貪欲に、生の匂いをたっぷりと吸い込み、熱い息を零した。


「ねぇ」


 ギンガムチェックのチュニックに、細いパンツを履いた灯子は言った。鴉の濡れ羽のような黒い髪を高い位置で一つに結っている。


「貴女、迷路行くためになにか持ってきたの?」


 灯子は訊ねる。塔子は海のように深い青色のリュックサックを抱えた。中からは詰められるだけ詰めたお水やクッキー、ドライフルーツなどをシーツの上に並べた。得意気に口角を吊り上げた。

 

「ふふん」


「……そろそろ行きましょうか」


「褒めてくれてもいいんだよ」


「行くわよ」


 

 

 


 

 

 秘密の部屋から出ると、むわりと生暖かく湿っぽい空気が二人に纏わり付いた。

 相も変わらず、植物園に人はいなかった。花々はこんなにも咲き乱れ、灯子同様に生の輝きを振りまいているのに。

 ひらり、と白い蝶々が舞うように、灯子の包帯が一輪の花の元へ誘われた。綺麗、と灯子はぼんやりと思いながら手折ろうとする。


「だめだよ。時間なくなっちゃうから」


「あぁ、綺麗だったから。つい」


「もう」


 灯子と塔子は、ゆるゆると時間が流れて落ちていくような不思議な感覚の中、植物園の植物の合間を縫って外へ出た。迷路へ辿り着いた。夏であるのにひんやりとした白い石でできた壁がたくさん、たくさんあった。放って置かれる間に、誰にも邪魔されることなく壁を這っている青い蔦には、ぷつりぷつりと赤い蕾が生っていた。


「設計図を見るよ」


 塔子がリュックサックから折り畳んだ紙を取り出した。設計図を広げる。灯子は一つに結った髪を揺らした。


「今、私たちは……」


「ここだよ」


 細い指で設計図のある部分を指し示す。塔子の麦わら帽子の影が、設計図の黄ばんだ紙に落ちた。


「詳しいわね」


「秘密の部屋にいる間は、たいていこれを調べてたんだ」


 やっと使えるときが来た、と塔子は子どものようにはしゃいだ。灯子は微笑んで、塔子を眺めた。鋏を取り出したい衝動に駆られたが、我慢した。いつ帰ることができるかわからないので、鋏を清潔な状態で保ちたかった。

 塔子に導かれるまま、灯子と塔子は迷路の中心へと向かって行った。灯子の中では壁伝いで歩いて行っているだけであるのに、設計図をみるとくるりくるりと綺麗に円を描きながら歩いているようである。

 歩いて行くほどに、太陽の光は強くなる。じわり、と汗が滲む。途中、身体の弱い塔子が座り込むことがあった。強がりを言っていても、所詮は死に愛された少女である。

 羨ましく思いながらも生に愛された灯子は、ひやり冷たい白い壁に寄りかかる塔子に付き合い、休んだ。溶けかけたチョコレートを口にし、口の中でとろとろ溶かしてみたり、名も無き花をぷつぷつと摘んで綺麗にしてみたりと、遊んだ。

 歩いては休み、休んでは歩くを繰り返していくうちに、太陽が真上に来た。頭のてっぺんがじりじりと燃えているようであった。

 

「そろそろお昼にしない?」


「そうしましょう」


 灯子と塔子は白い壁に背中を預けた。熱をもった湿る肌に、冷たい壁が心地良い。灯子は持ってきていたサンドイッチを囓った。塔子の分もあったので、渡す。塔子は嬉しそうに微笑んだ。囓った拍子に赤いイチゴのジャムが塔子の口端からどろりと垂れた。塔子が「あ」と声を上げた。細い指で、口元からぼたりと落ちていくイチゴのジャムを必死にすくい取る。


「んん。リュックの、青い小物入れからティッシュ取って」


「なにやってんのよ」


 そう呟きながらも、灯子は海色のリュックサックを開いた。青いポーチを手に取り、ティッシュを取り出す。何故このとき、自分の鞄から出さなかったのか後悔した。

 声が出なかった。

 青い小物入れの下。お菓子に紛れて、無造作に入れられたもう一つの小物入れが見える。チャックが半分開いていて、プラスチックが覗いている。注射器や、薬が、無造作に入れられていた。

 氷が頭を貫いたようであった。それらは灯子にとって、あまりにも非日常なものであるのだ。


「……はい」


 どうにか声を絞り出して灯子は、塔子にティッシュを手渡した。


「んんん」


 塔子はジャムでべたべたの口元と指先をティッシュで拭った。灯子は自分の鞄に手を突っ込み、鋏を仕舞う袋からウェットティッシュを取り出して、一枚渡した。


「……ありがと」


「ん」


 灯子は残りのサンドイッチを食べきった。イチゴのジャムは、やはり甘酸っぱい。








 灯子と塔子は進んだ。時には曲がったり、時には真っ直ぐ歩いたり。

 しかし、二人を置いてきぼりにして、刻々と時間は過ぎていく。

 雲の奥が燃えるように赤々と染まった。

 白く眩しい夕陽が沈んだ。

 じわじわと滲むように、群青が空を独り占めしていく。

 夜のしっとりとした、どこか優しく、どこか冷たい空気がぶわりと二人を包んだ。

 

「これ以上進むのは、危ない気がするわ」


「そうだよね。やっぱり……」


 あたしには無理なのか、と塔子は言葉を飲み込む。その気持ちを灯子は知らない。しかし、灯子の言葉は、塔子の心を揺さぶった。


「でも諦めないことが、夢に一歩近づくのよ」


 塔子は、灯子の左手首に目をやった。白い包帯の下、消えることはないであろう、あの線。生々しく赤いあの線は、傷が塞がっても、永遠に残るのだ。幾重にも重なる灯子の希望。

 塔子は口元を三日月のように歪ませた。


「そうだね」


「でも、少し、休憩」


 灯子は言った。靴を脱ぎ、ミントの爽やかな香りが漂うシートで拭った。蒸れた足が、初夏の夜の冷たい空気に晒されて冷えていく。塔子もそれに習った。

 灯子と塔子はころりと横になった。青臭い緑の絨毯から夏の匂いがする。地面から、湿った温もりを感じた。二人は頭を並べて空を見る。

 空には星が瞬いていた。黒い、いや、よく見ると濃紺や紫が滲んでいる。満月が二人を見下ろしている。白い星がちらちらと踊る。吸い込まれるようである。宇宙の中に、たった二人、沈んでいくのだ。


「眠たいね」


「寝たらだめよ。朝露で冷えてしまうから」


 しばらくの間、灯子と塔子は宇宙の中に、ぼんやりと沈んでいた。時折とろりとろりと微睡み、初夏の冷たさに驚きながら目を覚ました。

 灯子が言う。


「ねぇ」


「なに」


「どうして私と心臓を交換しようと思ったの?」


 少しの間、静寂が訪れた。塔子が口を開く。


「……あたしの、好きな人に似てたから」


「そう。どこらへん?」


「目元とか、髪とか、考えとか、全体的に、似てる」


「そう」


「うん」


「私に似てるなら、恋人とかではないのね」


「違う。恋人とか、そういうのじゃない。お母さん、みたいなモノだったけど。血の繋がりとか、あたしはもっと深いところで繋がりたかった」


「そう。あのね、私もなの」


「あんたも?」


「えぇ。貴女とあの人は、全然違う。なのにどこか懐かしい。不思議な感じ」


「ふぅん」


 さらさらと静かな風が吹いた。夜空の吐息のようだ。

 まず先に塔子が身体を起こした。

 どこか哀しい花と死の匂いが、はらはらと降っては灯子の中に積もる。


「もう大丈夫。先に進もう」


 塔子から無造作に垂れる髪を、灯子は指で梳いた。ふわ、と笑む。ゆっくりと、灯子は身体を起こす。

 灯子はもう手の中に忍ばせておいた口紅を外気に晒した。口紅は生き物のような温もりを持っていた。気づいた塔子は、にまりと笑った。


「とぉこ」


 灯子は唇から言葉を零した。


「はぁい」


 塔子は言葉を返した。

 色のない塔子の唇に、赤い線を引く。少女らしからぬ赤い唇が、満月の光につやつやと輝いた。

 緑の絨毯で素足を踏み締めて、微笑んだまま灯子は立ち上がった。塔子に手を差し出す。塔子はその手を快く取り、立った。塔子は初めて地上に降り立った人魚の娘のように、不安定で、儚い。まるで灯子の心である。


「行きましょうか」


「うん。あと、少しだよ」


 靴を履いた二人は、月明かりの下、歩き始めた。塔子の導きは魔法のようだった。設計図に従い、くるくると迷路を進む。















 瞳々とした朝日が昇った。二人はくたくたである。二人は迷路の中心へ来たようだ。

 塔子が得意気に笑う。


「ここ!着いた!」


 しかし、二人の目の前には何もない。薬が入っているような石碑が在るわけでも、ない。

 秘密の扉も存在しなければ、美しい花が咲いていることもない。

 出口として矢印が壁に記してある。非日常を求めて希望を抱いて歩いた先には、酷い疲労とぼやけた日常。なんたる侮辱か。ふざけたような落書きの跡はきっとここに探検に来た子どもたちの心だ。失望してせめて何か残そうと書いたのであろう。


「なにもないじゃない」


 灯子は言った。白い病室で目覚めた時のような、白い包帯を巻いた後のような、蒼い虚無が伺える口調である。

 塔子はその場に座った。髪が揺れる。


「一日歩いて、その結果がこれ?可笑しい」


「何もないなら、もういいわ。早く薬を飲んで。帰りましょ」


 塔子は素直に従った。灯子の前で、お昼と夜と薬を飲み、注射器で注入していたので、灯子はもう目を背けなかった。塔子の腕の傷痕さえ、美しく思える。

 流れ作業のように塔子は済ませた。薬を投入した後は、しばらく安静にしなければいけなかった。動けない塔子とは反対に、灯子は白い壁に囲まれた円をくるくる歩いていた。外側から中心に向かって。



 こつり。



 靴の先が、音を立てた。いままでとは違う音である。足裏の感触も、違う。疑問になりながらも灯子はもう一歩踏み出した。そこで、何かに足を引っかけて、灯子は転んだ。

 灯子は何かに気づいた。地面に膝を着いて、手のひらで草をかき分ける。

 見つけた。

 取っ手である。さらに蔦を引き千切り、草を払う。地面へと続く扉が横たわっている。


「あった」


 灯子は扉と地面の境界線を、靴の先で刮いで土を剥がし、はっきりさせた。そして取っ手を両手で掴む。蝶番の金属が擦れる鈍い音が響く。一度勢いがつくと、扉は弾みを付けて地面とは垂直に開いた。

 

「わっ」


 突然なくなった扉の重さ。灯子は地面に尻をついた。塔子が恐る恐るにじり寄り、灯子の隣に腰を下ろした。


「これって……」


「ここが本当のゴールのようね」


 灯子と塔子は、前に回りぽっかりと呆けて口を開けているような扉の奥を覗いた。

 階段である。灯子は塔子の荷物も持って、石で出来た冷たい階段を降りた。暗い割には、天井は低い。灯子でさえ、少し腰を屈めなければ頭がすれてしまいそうだ。後ろを振り向くと、塔子が妙に危なっかしく階段を降りてきている。灯子が手を差し伸べて、支えた。子猫のように軽く、温かく感じる。

 壁は、迷路で見たものと同じ白い素材であった。そのせいか冷え冷えとした空気が、この地下を満たしていた。


「ねぇ、さっき見えたの。そこ、電気のスイッチみたいなモノがある」


 塔子に従って、灯子は壁にしなやかな手を這わせた。カチリと音がして、小さな光が付いた。地下が、ぼぅと照らされる。どうやら、ここは廊下のようだ。先まで続いている。二人は光に従って歩くことにした。

 塔子は静かに這い回る、蜘蛛やらなんやらの虫に怯えた。灯子の袖を掴んで離さない。対して灯子はどんどん足を進めていく。すぐそこに“死”の端っこが掴めると信じているからである。躊躇いもせず足を踏み出し、時折小さな命を踏み散らした。


「そろそろかしら。開けた場所に来たわ」


 灯子が言った。いつもは可憐な声が、廊下に響く。

 塔子がランプに光を点けた。よりいっそう明るくなる。壁に埋め込まれるようにして、堂々と鎮座している金庫のようなモノを見つけた。

 どうやらここに、例の薬があったらしい。


「嘘っ!なんで……」


 金庫の鍵は開いていた。扉も開いていた。塔子が顔を突っ込む勢いで、探す。落ちていないのか、と他の壁も、地面も探した。

 何も、ない。


「あいつ……使わないって言ったのに!わざとだったの!?」


 塔子は憤る。青白かった頰を憤怒の赤に染めている。息も荒くなる。これ以上、興奮させてしまったら倒れてしまいそうだ。悔しいという気持ちは痛いほど伝わるし、灯子も抱いている。しかしこんなところで、塔子に意識を失われてしまうのはごめんだった。


「もう行こう。大丈夫よ。きっと、違う方法があるわ」


 やはり限界ではあったのだろう。灯子が手を引くと、あっさりと身体を預けた。

 明かりを道標に、出口と思われる方へ向かう。塔子を支えているので、ゆっくりゆっくり、進む。

 扉があった。こちら側から鍵を開けることが出来るようだ。

 灯子は塔子を引いて、外へ出た。目の前に広がるのは、眩しい光と、花。

 いつもの植物園であった。扉は閉まると、鍵がかかる音がした。もう戻れなかった。

 突然、塔子の体重がのしかかってきて、灯子と塔子は倒れた。

 灯子の肩に、顔を押しつけている。塔子は悔しそうに、涙を流した。透明な雫が、頰を伝って、灯子の肩に温かく染みこんだ。

 涙の止まらない塔子を、戸惑いながら灯子は抱きしめた。いつかの、あの日のように、火の塊のように熱い塔子を撫でて、抱く。

 塔子の髪から、頰から、湿った肌から甘ったるい花の匂いがする。



 懐かしい、




 あの、




 花の、




 香りが。


 弾けるように、灯子は立ち上がった。涙の乾かない塔子は、灯子を見つめる。白い日の光が、灯子の後ろからちかちかと光っていた。塔子は思わず、目を細めた。

 空気がなくなったかのように灯子の肩が、激しく上下している。先程までの塔子の熱が移っているように思えた。息も、荒い。喘いでいるようだ。

 灯子の頭の中には、何匹もの羽虫が飛び交っているように、雑音が響いている。




 振り切るように、灯子は駆け出した。





「灯子!」




 塔子は叫んだ。灯子は止まらなかった。

 黒い髪を閃かして、その場から去った。塔子は、何かに気づいたかのように唇を戦慄かせる。細い肩がぶるぶると震え、白い手のひらで顔を覆った。

 黒い瞳を揺らしながら


 ごめんなさい。ごめんなさい。


 呟いた。















 灯子は走っている。

 初夏なのに熱いアスファルトの上を。靴音を響かせている。汗が瞬いては、散っていく。喉が張り付くように、渇いていた。

 家の玄関の扉を勢い良く開けた。靴を乱暴に脱ぎ捨てる。

 頭の中は空っぽのがらんどうで、ただひたすらに本能のまま。

 鼻腔に燻る花の香りは、塔子のものでもあり、灯子のものでもあり、彼女のものでもあった。

 灯子はあの花の残り香を肌で感じ、確かな思いを持って父の書斎へ向かった。焦っているお手伝いの女を振り切る。今まで開けたこともなかった。約束を守ってきた。母も入ったことはなかった。何も知らない。何も知らないのだ。同じ屋根の下で暮らしてきた父のことなのに。

 普段は言いつけを守る良い子な灯子。しかし、今の灯子は、熱に浮かされているから仕方がない。扉を開く。

 父の書斎の、クローゼット。父という男の匂いが充満している。けれど、確かにそこに在る。だってこれは灯子が、ずっとずっと求めていた匂いだから。焦がれていた匂いだから。

 大量に詰め込まれている父の私物を床にぶちまけた。スーツもシャツも靴下もネクタイも。全てを出す。時折何かが壊れる音がするが灯子は気にも留めない。

 手を伸ばして箱を引っ張り出す。

 クローゼットの中の蓋という蓋を開いていく。

 灯子の、目的はただ一つ。

 花江の遺品だ。

 





 


「見ぃつけた」






 散乱する花江の形見に埋もれながら灯子は、笑っている。

 手のひらに存在する赤色は、とろりと輝いた。

 


 


 

 





  



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