死因:フェミニスト(3)
3
「やっぱりイタズラかなぁ……そういうことかな? そういうことでいいよね?」
紙束を捲りながら警察官は言う。目の前に座る外国人男性に確認をとっているが、それは口だけで、勝手に書類を書き進めている。しかし欄内は〝何者かによるイタズラ、被害届は出さない〟以外は全て〝不明〟という単語で埋まっていた。
「じゃあこれで君は帰ってもいいよ。気をつけてね」
男に退室を促し、書類を持ってどこかへ行ってしまった。
「……なんとかなったか」
警察官が立ち去ったのを確認し、男は足早に警察署をあとにする。
節電で薄暗い署出れば、月が昇っていた。この手の〝誤魔化し〟はしばらく使えそうにないだろう、と男は思う。自分という存在に関して、まだなんとかなりそうだった。
とにかく逃げる。遠くへ行かなければ――。
人目を避けるように川沿いの遊歩道を走っていた。
人通りもなく、街頭も土手上のものだけで明かりも乏しい。川向こうのビル街の光が水面に反射して、おおよその輪郭は掴める程度だ。
明るい道を選びたかったが、逃げるのに男の格好は目立ちすぎた。
夜明けを前に着替えなければ、男は警察署に逆戻りである。明日以降、血だらけの衣服のままで他人の目を欺くことは不可能だ。それだけはなんとしても避けたかった。
誰かいる。
暗闇になれた男の目は、一つの人影をとらえた。
シルエットからして、コート姿の女であろう。物憂げな雰囲気で、川向こうのまばらな街明かりを見つめている。
なにかあったのであろうか?
男は速度を落とし、様子を窺う。
こんな時間に一人で寂しい場所にいるのは危険だ、と男は思う。自身も、こんな場所は避けて歩きたいからだ。
今、男が立ち止まって考えていることは一つ。
女を無視して通り過ぎるべきか否や――?
無視して自分の身を守る行動を取るべきだと、わかっていた。
しかし、男はどんなに落ちぶれてもフェミニストであった。目の前に、憂う女がいるのであれば、話だけでも聞いてやりたい、と。
「なにがあったか知らないが、こんな夜中に危ないぞ」
我ながら救いようがないな。と、男はため息をつき、女の側へ歩み寄った。
女は振り返らずに、男と同じくため息をついた。
「……悩みがあってね。聞いてもらえる? だれでもいいの」
と、くぐもった女の声。嗚咽を漏らしたり、鼻をすする音が混じる。
「そう長くは聞けないが、構わん。……終わったらどこか着替えを入手できる場所を知りたい」
女は大きなサングラス越しに男を見て、「訳ありなのね、いいわ」と答えた。
「わたし、仕事に失敗しちゃって、やりなおさないといけなくて……」
女は顔を両手で多い、ふさぎ込んだ。
「そう、か。神でさえも失敗するし、な。問題無かろう」
「……神?」
「ああ、いや、そうだな……神とは――哲学のことだ。すまない。わかりやすい返答をすればよかった」
「貴方変ね」
「まぁな、訳ありであるし」
例えが悪かったな、と男は焦るが、差し障りのないことを言ってごまかした。何より聞き手に回ることが重要だと、男は自分に言い聞かせる。
女はまた、話し始める。
「それで、やり直すことに、なって」
「ああ」
「辛いの」
「……そうだな」
何とも言えぬ間があった。
どうするべきか男は迷っていたが、その時、冷たい風が吹き、女が声をかけた。
「寒いでしょう?」
「っ!」
男の首に手が触れ、背後からストールが掛けられた。
「驚かせて、ごめんなさい」
「いや、いい」
女はいつの間にか、男の真後ろへ移動していた。
足音もなかった、と考えたと同時に、男の脳に昨夜の甘い囁きが蘇った。
この女はもしかして、と。嫌な予感に身の毛がよだつ。
「き、さまっ」
息が苦しい。髪が絡まる。
ぎちぎち、と絹が男の首に食い込む。はひゅ、はひゅ、と息を吸い込むが、足りなくて、木枯らしのような音が鳴る。
「もう一度死んでもらえるかしら?」
女――大鳥紫弦は甘く囁いた。
「……ぁ、あ、あ……あ」
男の意識は白み、力を失った体は、紫弦へもたれかかった。