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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛が毒に変わるとき

作者: 志水ミコト



『島民の皆様、おはようございます。今日はとても良いお天気ですね』

いつもの朝、いつものニュース、いつもの朝食メニュー。

 リョータは目玉焼きを焼きながら冷凍庫の中の冷凍ポテトを探した。いつも奥に仕舞うなと言っているのに、仕舞う奴がいる。もちろん自分でないということは相棒の奴が犯人なのだが。

『それではさっそく、本日の危険予報です。午前中は南地区と東地区で血の雨が降るでしょう! 北地区と西地区は比較的安全ですが、夕方からの抗争確率が三〇パーセント。防弾チョッキを着て出かけられることをお勧めします。ちなみに昨日島内で銃殺された方は七十五人でした。前年に比べると少なめですね! それでは素敵な一日を!』

 ニュースキャスターのお姉さんの声がうるさい。ボリュームどれくらいなんだ? そう思い、リョータは見つけたポテトを手に体を起こす。

「おい、どエロ。ボリューム落とせ」

 どエロさんからの応答なし。

「エロス!」

 エロスさんからの応答なし。

 仕方なく、フライパンの火を止めてからリビングのほうに行った。テレビのボリュームを落としてから、テレビの電源を入れた張本人がどうしているか、視線を落とす。

 色白の肌――これは白色人種だからいやというほど白い。それに色素のうすい茶色いネコ毛、長いから二つ折りにしてもかなり飛び出す脚。そして今日はまだ女の香水が染み付いていない洗ったばかりのシャツ。顔は嫌というほど美形だ。羨ましいくらい彫りが深く、端正な顔立ちをしている。

 ソファの肘掛けと肘掛けの間に体を折って、無理やり体に悪そうな姿勢でエロスは寝ていた。

「おい、どエロ。朝食もうできるぞ。食わずに仕事出かける気か?」

 反応はない。

「倒れるぞ。まあ俺はそれでも構わないが」

 反応はなし。

「でも朝食捨てるの勿体無いから食ってほしいんだけど」

 反応は、ない。

 リョータはため息をついた。腹の上で手を組んで、すうすうと気持ちよさそうに寝ているエロスはしばらく起きそうもない雰囲気だった。

「起きろよ、目玉焼き冷めるぞ」

 わかっていたが、反応はない。

「起きないと殺す」

 と言うも、エロスは起きない。

 本当に殺してやりたいなと思ってソファに体を乗り出した。そっと両手を、エロスの白い首に伸ばす。

 首に手をかけてやろうと顔を近づけたとき、ぱちりと間近でエロスが目を覚ました。

「どうしましたか? 怖い顔をして」

 エロスは何食わぬ顔でそう聞いてきた。

 復習しよう。エロスは寝ていて、リョータはこいつの首に手をかけて、顔は間近だ。寝ている自分に乗りかかって首に手をかけていれば、何かされそうだったということくらい気づいてもよさそうなものなのに。

「どいてくださいよ。起き上がれないじゃあないですか」

 エロスに言われて、リョータは舌打ちして首から手を離すと乗り出してた体を元に戻した。

「不機嫌そうですね」

「また殺し損ねた」

「ああ、だからか」

 いつものことだと、まるで動じないエロス。なんだか腹立たしい。そんなに安全な男に自分は見えるのだろうか。

「俺、お前のこと襲ってたんだけど」

「エプロン外してからそういうことはしてください」

「俺の話聞いてた? 殺そうとしてたんだよ?」

「私の目に一番に飛び込んできたのは、ポケモンのアップリケです。そんな状況で緊迫しろというほうが難しい」

 言われて自分のエプロン、胸のあたりについているミュウのアップリケを見下ろす。あまり攻撃的なモンスターという顔ではない。緊張が解けるほど間抜けな顔もしてないと思ったが。

「あと対照的にあなたの、妙に真剣そうな顔が間抜けでした」

「ざっけんな!」

 エプロンを脱いでエロスに向かって投げつける。エロスはそれを受け取り、洗濯機の中へと放り込んだ。まだそんなに汚れてなかったが、洗い時だと潔癖症な男は思ったらしい。

「朝食まだですか?」

 そしてさも自分は食べるだけが当然のようにそう言ってくる。

 リョータは舌打ちして、皿にトーストした厚切りパンと目玉焼きを乗せた。ダイニングの上にはもうサラダとスープを用意している。冷凍ポテトは今日は無しだと決めて、パン皿をダイニングに運んだ。

「いただきます」

 律儀にそう言って、二人は食事をスタートさせた。リョータが黙々と食べていると、あまりに早すぎるスピードで食べ終えたエロスが食器をキッチンに持っていく。見れば、まだサラダが残ってる。

「残すなよ」

「野菜は好きじゃあないです」

「肉は?」

「嫌い」

「魚」

「もっと嫌い」

「何食ってるんだよ。骨皮ミイラ」

「炭水化物」

 なるほど、最低限のカロリー以外は切り捨てですか。リョータは彼が残したサラダを引き寄せていっしょに口に運んだ。

「さっき、ニュース聞き逃しました。今日はどこが危ないんですか?」

「東と南」

 この島は、いつでも殺される可能性がある。かつて「良心があれば法は必要ない」と言った統治者が死んで以来、無法地帯のこの島での法律は銃そのものだった。

 殺したり殺されたり……誰かを殺せば、誰かが復讐しにくるか、報復を依頼された殺し屋がやってくる。そうして制裁に制裁を重ね、血で血を洗うような悪連鎖が日常茶飯事のように繰り返されてきた。

「それであなたは、今日どちらへ向かわれるのです?」

「西だけど?」

「じゃあ私は南に向かいます」

 エロスはジャケットに袖をとおし、帽子と鞄を手にとってから振り返った。

「西は安全みたいですが、気をつけてくださいね」

「南は危険らしいが、殺されてくるなよ?」

「殺されたらどうします?」

「ちょっと悔しい」

 食器洗浄機に食器を運びながら、返事を待つが返事はない。

「じゃ、あまり殺しすぎないでくださいね」

 そう言ってエロスは出ていった。「悔しい」はスルーか、ちょっとだけ心配してやったのにありがたがらない奴だ。

 まだ鳴っていたテレビの電源を完璧に落として、戻って食器洗浄機のスイッチを入れる。続いて、流し台の下から包丁を取り出す。

 包丁は最近、コンビニでも買えるようなしろものだが、それで殺しをしたらすぐにあとがつく。半年以上買ってから経ったものを使うのが安全だ。

 そんなわけで、あちこちから、間隔をあけつつ買った包丁が流し台の下にはたくさんある。鞘に仕舞い、自分お手製のショルダーベルトに挿すと、リョータはその上からジャケットを羽織った。

 今時銃でない原始的な道具なんて、証拠も残れば手口だって鮮やかではないとエロスは言うが、銃は動物的でないから好きになれないとリョータは思う。

 あんな、人を殺したかどうかもわからない道具。殺す覚悟もなくあっさり引き金ひとつで相手の命を奪える道具なんて、魅力も何も感じない。

 暑い日は汗をかいて、寒い日は震えて、腹が減れば飯を食い、痛かったら泣くのが人間だ。痛みを伴わないのは殺しではない。心が痛まないなら、それは殺したとは言わない。

(結局どうして良心が痛むのに、俺は殺すんだろうな)

 殺したくて殺したわけじゃあない、食うために殺すのだと言った殺人鬼もいたらしいが。殺した誰かを食べようと思ったことはない。そこは動物的ではなかった。

(俺、病気なのかな……)

 胸がずきずきするくらい、罪悪感に苛まれないと、生きていていいという気がしない。



「俺、病気なのかしらね」

 今日も、相棒は死なずに帰ってきた。相棒は冷蔵庫にビールを並べている。もう飲みきったのか、酒量が多すぎやしないか。さすがカロリーしか取らない男だと思っていたら、返事がくる。

「病気? なんでですか?」

「胸が痛むくらい苦しくないと、生きてる気がしないってこと」

「そんな告白をされるとどう反応していいやら。殺しておいて胸が痛むだけとは」

「あんたにそんな心があったとは知らなかったよ。で、俺ってビョーキなの?」

 テレビをザッピングしながら後ろを振り返る。エロスは冷蔵庫の前にはいない。彼は洗濯機の前で服を脱いでいた。

「かもしれませんね。私は人を愛せない病、あなたは殺人依存症。いいじゃないですか」

 イタリア語でエロスなんて名前のくせに、人が愛せないのか。

 罪悪感が欲しいのに責めてさえくれない。何をこいつに期待していたのだろうと思って、ふと彼の左手に目がいった。左の薬指には、ピンクゴールドの指輪がはまっている。

「あんたその割には友達多いじゃないか」

「人は好きですよ。ただ愛するところまで執着できないだけで」

 なるほど、だから結婚詐欺師なんて仕事を本名で堂々とやれるわけだ。呆れたような感心したような気持ちになり、視線は指輪から外せなかった。

 彼はかなりの数の指輪を所持していて、かつては毎日付け替えていたはずだ。だけど最近は、あの指輪しか見ていない。いつの間にひとつの指輪をするようになったのだろう。

「あんなに指輪好きだったくせに、もう今じゃその指輪しかつけないんだな」

「欲しいなら死蔵品になってるのを好きなだけ持って行っていいですよ」

「いらねえよ。お前の女から貢がれた可哀想な指輪たちなんて」

 つけていたって色男のモテっぷりに腹が立つだけである。

 テレビは今日も退屈な番組しかやっていない。仕方なく電源を落とした。

「どうして左薬指につけてんの? 誰も結婚する相手なんていないでしょ」

「仕事のときは外しているときもありますよ?」

「死んだかつての恋人とか?」

 とリョータが聞くと、エロスが笑い出す。

「どの死んだ恋人ですか?」

 とエロスが逆に聞いてきた。

「この島に住んでいて、恋人が死なない保障なんてないでしょう。自殺なり他殺なり、事故なり病死なり」

 つまり、たくさんいて、今は死んでいる彼女たちは彼の中で大切な人にカウントされていないようだ。

「まあどこにいたって死ぬときゃ死ぬけどな。なんのために指輪してんの?」

「指輪に浮気するのに飽きたんです。一個だけあればいいかなと。つけたり外したりしても、最後はそいつに戻ってくる関係がひとつくらいあってもいいじゃあないですか」

 そこまで言うと、彼は洗濯機のスイッチを入れてバスルームに消えていった。しばらくしてシャワーを浴びる音が聞こえる。もう話しかけてもしばらくは聞こえない、もしくは無視だろうと思い、目の前にある冷めかけた緑茶を口に運んだ。

 自分は結局、他の何かをやろうとしても最後は殺人に戻ってきちゃうんだよなあとぼんやりリョータは考えた。

 何がそんなに恋しいのだろう。人を刺す瞬間の感触だろうか。それとも相手の死んだときの目か、高揚感か、あるいは――

(やっぱり痛いのがいいな)

 心の痛みは、心の深いところの痛みを紛らわしてくれる。その瞬間は別のことを考えていられる。

(自傷とかダサいからしないけれどもね)

 心ならいくら傷つけても、人に傷が見えないからいいじゃあないか。平気な顔をしていれば、人は平気だと思うものだ。

「リョータ」

 振り返れば、バスルームから顔を出したエロスが指をピースの形にしている。

「煙草買ってきてください」

「二箱?」

「ツーカートン」

「お前、肺がんで死ぬぞ」

「何度も冬にパシらせるのは申し訳ないという私の思いやりなのに」

 然様ですか。リョータは小さくそう呟き、財布をポケットに仕舞うと玄関を出た。

 たしかに寒い時期になってきた。地中海にあるとはいえ、たまに雪も降る。夜は危険が多いし、あまり出歩きたくないのも確かだ。

 コンビニは歩いて十分のところにある。そこでエロスの好きな煙草と、そろそろ切れる牛乳を買って会計を済ませた。

 紙袋から飛び出している煙草のパッケージを見下ろしながら、こいつ(煙草)のほうが上手にエロスを殺すのだろうと考える。すると上手にあいつの信頼を得て、あいつを依存させておいて、じわじわと殺す猛毒くんが憎くもなってきた。

 何故、エロスを殺したいのかわからない。拳銃島で両親を殺されたリョータを拾ったのはエロスだった。お金を稼いでくるのもエロス。いなくなったら困る存在のはずだ。

「あいつがいなくなったら、俺も一人前とでも思ってるのかな」

 たぶん普通に出ていったとしたら、生活が苦しくなったときにエロスの元に戻ってしまいそうだ。

「それとも、どうでもいい存在と毎日顔を合わせるのが鬱陶しいのかな」

 あいつの顔を見ていると殴りたくなるのは何故だろう。自分と同じ、ナルシストなのがわかるからだろうか。

「どっちでもいいけれどもね」

 あいつが例えば、明日誰か騙した女に刺殺されたとしても、それだけの男だ。むしろさっくり殺してしまう自分の癖のほうを悩むべきで、エロスのことをどう考えているかはおまけである。

 と、そのとき自分の目の前にいきなり影が現れて、ドン、と誰かとぶつかった。

 自分の持っていた煙草がアスファルトの上に散らばる。それと同時にガシャン、と銃が落ちる音がした。

「仕事道具が!」

 女の子の声だ。銃が仕事道具? 報復屋だろうか。女の子が銃を拾っている間に、煙草を拾って袋に詰め直す。女の子は銃を太もものホルスターに仕舞うと、改めて

「ぶつかってすみませんでした」

 とぺこりと頭を下げた。綺麗な黒髪ストレートだ。顔は見えないが、お人形のような容姿だったらさぞかし可愛いだろうなと考えた。

「あんた、報復屋?」

「はい。その、見習いですけど……」

 なるほど。見習いならばこの素人っぽい隙だらけな雰囲気も頷ける。というよりも、この島に始めて来た人かと思うほどの無防備っぷりに見えた。

 この子殺したら、俺を殺しに誰かくるのかなあ。そんなことを考えた。

 だけど、年端もいかぬ女の子を殺すのは悪趣味な誰かに任せることにした。

「夜道は危ないよ? 誰かに狙われるかもしれないし」

 それとなく優しげに見えるようにそう言ってみる。女の子はもう一度「ありがとうございます」と言い、丁寧に頭を下げると急いで行こうとしていた方向へと走りだした。後ろから見ると乙女走りだ。

「氷で転ばないといいけど……」

 まあ転んだとしてもパンツが見えるくらいか。大したことにはならないだろう。

 紙袋を抱え直して歩き出したリョータに、銃を向けられる音がした。

「荷物を置いてけ!」

 男の声だった。強盗に遭遇とは運がない。さて、持っているのは牛乳と煙草だけだから置いていってもいいのだが、それじゃあ中身に気づいた時点で背後からバキュンと撃たれるに決まっている。背後を撃たれるくらいだったら、戦って死んだほうがまだマシだ。

 リョータは荷物を地面に置いた。男が近づいてくる足音がする。ゆっくりと両手を上げながら、抵抗しないフリをする。

「荷物から離れろ」

 その命令に合わせて、そろりそろりと歩き出す。男が荷物に手をかけた――のを確認し、その瞬間振り返りながら懐に手を差し込んだ。取り出したのはいつもの包丁、それを相手の首めがけて振り下ろす。

 男はぎゃっと悲鳴をあげて、横に倒れた。斬りかかった角度がよかったらしく、頸動脈の血はリョータと違う方向に勢いよく噴きだした。荷物にもちょっとしか血がついていない。

 殺した相手がどんな奴だったのか間抜けな死に顔でも見てやろうと顔を近づけると、殺した相手が子供だったことに気づいた。きっと食べ物を持ってると思って近づいてきたのだろう。

「けった糞悪いな。誰もが幸せに暮らせる島だったはずなのに」

 まったく嫌になる。理想郷だと思って移住してきたのに、今じゃあこんな治安の悪い島なのだから。

 キャラウェイ島に引っ越してきて、創始者が死んで、しばらくして両親が死んで、そして弟も死んで……もう随分経つけれども。

 弟もこれくらいの年齢だったかな。あいつもたしか、食べ物を探しに行って死んだ。

 そういえば弟を殺した相手はまだ見つかってない。エロスのツテで探してもらったのに、まだ見つかってない。

 自分の両親のことはどうでもいいが、自分の弟を殺した奴は少し許せなかった。弟とは話が合った。面倒くさい性格をしている自分のことをよく理解してくれる、ちょっとませた弟だった。弟が死んだのも五年前のこのぐらいの季節だ。十三歳の誕生日を迎える前に死んだ弟の前で呆然としていたときに、エロスと出会った。

「その子はもう死んでるよ。君もそうなりたくなかったら、私についてきて欲しいな」

 今考えれば、孤児の子を拾うような男は相当慈善的か、相当胡散臭いはずだ。十五の自分はその男についていった。

 男はファミリーレストランでハンバーグを食べさせてくれた。何がファミリーレストランだ、ファミリーなんて全滅したぞと思いながら、空っぽの胃の中にハンバーグを収めた。

 男は食事のたびにリョータをファミリーレストランに連れていった。男が料理ができないことに気づいたのはちょっとしてからだ。

「ファミリーレストランは嫌いだ」と言ってみた。

「俺が作るから、材料買って」

 と言ったとき、男がなかなか懐かなかったペットが懐いてくれたかのようにしめたものだという顔をしたのを覚えている。

 それから、エロスとはずっと擬似家族状態だ。あいつは今年で二十六、自分は今年二十一。もうあいつが自分を養っていた年齢を越えているが、今もあいつにお世話になっているんだなあと思った。

 早く煙草を届けてやろう。そう思って踵を返す。

 カチャ。

 アスファルトの上で銃が動く音がした。振り返ったときには、こちらに銃口が向いていた。思わず無駄とわかっていたのに、右手が銃弾を掴むように前に出る。

 右手を貫通した弾は、肩口を浅く切って明後日の方向に飛んでいった。

 そして撃った相手は今度こそそこで力尽きたようで、銃を手放して突っ伏した。

 思わず貫通した手を見つめる。手はじんじんとしたが、あまり気にならなかった。とりあえず家に帰ろうと思い、紙袋を血まみれの手で抱えて帰った。


「おかえり――ってどうしたんです? 殺したんですか」

 血まみれの手を見て負傷より先に加害と判断したエロスがそう聞いてきた。殺したのは間違いなかったが、首を振って「撃たれた」と言い、紙袋から煙草を血まみれの手で渡した。

「あ、煙草ありがとうございます」

「包帯ある? 消毒液も」

 ところが怪我をしている自分より先に、煙草の一服ときやがった。エロスは煙草に火をつけながら、「どこでしたっけね」と言った。

 腹が立ってきたので、煙草を奪ってやった。それを口に咥えて一度ふかし、風穴の開いた傷口に宛てる。肉の焼ける匂いと、ヤニのにおい。そして皮膚がケロイドのようになって、手の甲側の傷が塞がる。

「何やってるんですか」

 ちょっと咎めるような口調で、エロスが言った。

「熱消毒」

 そう言って煙草をエロスの口に返す。エロスは気分悪そうに、その煙草を近くにあった吸殻に押し付けた。

「ちゃんと病院行きなさい」

 めずらしく命令口調でそう言って、エロスは寝室に戻っていった。今さら保護者ヅラですかと思いながら、ちょっとひりひりする手をキッチンの水桶の中に突っ込んだ。


 考える間もなく、それが悪かったことは明白だった。

 数日経ち、一週間経っても傷口が痛む。リョータは痛みが誇張するのを意識せざるをえなかった。

(すぐに治ると思ったのにな)

 病院へ行けと言われたが、今さら言うとおりにするのも癪だ。しかしなんとかしないといけないくらいには痛みが増してきた。仕方なく、個人で外科を営んでいる、アルヴィンという医者の元を訪れた。

 アルヴィンに傷口を見せると、

「どうしたの? これ」

 と驚いたように言われる。理由を細かく説明するのが嫌だったが、撃たれた傷を煙草で焼いて水の中につけたことを説明すると、呆れたような顔をされた。

「これ、破傷風になってるよ。しかも進行している」

「破傷風。治るのか?」

「治すのはここまでひどくなってからじゃあ、難しい。手首から切り落として、腕まで菌が入らないようにしたほうがいいと思う」

「……なんだって?」

 手を切り落とすと言ったのか。この医者。

「僕をヤブ医者だと思うなら、大学病院に行けばいい、同じことを言われるよ。しかもすぐに手術台行きだ」

 馬鹿なことをしたものだね。彼の目はそう言っていた。


 家に帰るまでの道のりを覚えていない。ただ、ぐるぐると頭の中でどうするかを考えていた。どう説明しよう、と。

「その傷、見せてきたんですか?」

「まあね」

「消毒してもらいましたか? 破傷風になると大変ですから、大事になる前でよかったですね」

 そう言われてしまっては、破傷風で切断しなければいけない状態だったとは言いづらかった。


 それからしばらくして、まだ治ってない傷を見て、エロスが「その傷、なかなか治りませんね」と言ったときも、破傷風になったことを言えずにいた。

 そのかわりに、

「人を殺しすぎた罰かもな」

 と言ってみた。エロスは笑って

「贖罪とでも言うつもりですか?」

 と相手にしてくれなかった。

 料理を作る最中も手が痛む。少しずつ適わなくなっていく右手を忌々しく思い、見つめた。

 アルヴィンに「家族に報告はしたか?」と聞かれても「いや、」と答えるしかなかった。

「切らないつもりだ」

「治せないよ? 義手にしたほうが早いし安全だ」

「壊疽になったって生きちゃいけるだろ。切り捨てるのは嫌なんだ」

「手がなくなるのは誰だって不便だと思うよ? だけど……」

 殺しができなくなるから手が欲しいなんて言ったら馬鹿だと言われるかなあ。そんなことをリョータは考えた。

「ともかく、言いづらいだろうけれどもちゃんと報告しないと、僕から家族に連絡させてもらうからね」

 腕まで進行する前に切り落とすつもりでいるように、アルヴィンに念を押された。


 エロスが帰ってきたのは、深夜になってからだった。その時間までリョータが起きていたのを見て、「ただいま」といつものように呟く。

「話がある」

「何ですか、改まって」

 眠いからあとにしてくれと言いたげにエロスは目をこすりつつ、ジャケットを入り口のコートかけにかけた。

「俺の手さ、破傷風が進行していて、切り落とさなきゃいけないみたいなんだ。手術の費用も相当かかるらしくて、義手とかも手首だけのやつって高いらしいんだけど、その……」

 小さな声で「ごめんなさい」と言った。呆気にとられた表情の相手を、申し訳なさそうに見る。エロスはリョータの右腕を掴んで、しげしげと見た。紫色に腫れ上がったその手は、隠しても意味がなかった。

「貯金はあります。キャラウェイ島にはいい技師がいるはずなので、義手もいいものが見つかるんじゃあないでしょうか。そんなに暗い顔しないでも、たぶん大丈夫ですよ」

「大丈夫?」と聞かれるよりも「大丈夫だよ」と言われるほうが安心するとはよく言うが、ここまでエロスが動じないとは思わなかった。

「手を切り落としたら、私が不味い料理を作ってあげますよ」

「ばっか。不味いくらいだったらレトルトでいいよ」

 しおらしい気分が吹っ飛んで、思わず悪態をついてしまう。

「片手になったら、あんたの首も絞められないな」

「今二本あるうちに、私の首を絞めますか?」

 そう言ってエロスがそっと指を、細い首にあてがわせた。

 リョータはいつものように首を絞めようと思えなかった。男の目はなんともやりきれない色をしていた。まるで、大切にここまで育ててきた馬鹿息子が、本当に馬鹿なことをしたときの目だ。それでも、このでかい子供を大切にしているのだという、そういう覚悟のような、やりきれなさのような、とても曖昧な悲しみをたたえた目だった。

「右手、力入んねえや」

 そう言って、彼の首から手を離した。

「なあ俺さ、右手なくなったら料理すら作れないよね。ここに住む権利もないってやつ? どうするべき? 義手の男が身売りして買ってくれる奴とかいると思う?」

 何もできなくなったら、ここにいちゃいけないような気がした。

「馬鹿なひとだな」とだけ言って、エロスは笑う。

「あなたは自分の手と、殺しができなくなることだけ考えておけばいいんですよ」

 そう言ってリョータの頭をいつものように撫でてくれた。


 手がなくなった。義手が出来上がるまではその状態でいるように言われ、今日の食事はエロスが作った。

 あまり美味しくないポトフを囲み、二人で食事をした。

「なんて言いましたっけ? あなたが普段つくるポトフ」

「肉じゃが」

「あれもう食べられないんですね。残念です」

「左手が使えるようになったら、また作ってやるよ」

 慣れない左手だけで、ポトフをフォークに刺して口に運んだ。上手に運べるようになるまで、もうちょっとかかりそうだった。

「あなたの左手が器用になる前に貸しをいっぱい作っておかなきゃですね」

「そんでどうするの? 俺の左手が動くようになったら。俺に何をさせたいわけ?」

「そういえばあなたは役立たずでしたね。料理を作るの以外は」

 エロスはそう言ってまたポトフに視線を落とす。彼がこちらに視線を向けなくなった理由が最初わからなかった。

 肩が震えていた。スプーンが揺れて、ニンジンがスープの中に落ちた。

「悲観してるわけじゃあないんですよ。ただ、どうしてあの時止められなかったのかなって」

 そう言って、エロスは目頭を押さえると、しばらく黙りこんだ。リョータは何も言えなかった。何故自分が馬鹿なことをしたのに、エロスが自責しているのか、全然わからなかった。ただ、リョータも苦しかった。

「ちょっと外の空気吸ってきますね」

 そう言ってエロスは外に出ていった。一人取り残され、それから一時間経っても、二時間経っても、エロスは帰ってこなかった。

 今もある左手で、壁を強く殴った。今さら本当に自分が愚かだったことがわかった。相手の心に傷をつけたことが、今頃になってわかった。

 平気なはずがない、エロスが平然としているのは、自分を安心させるためだったのだ。リョータは奥歯を食い締め、泣く資格は自分にはないと、嗚咽を殺した。



 翌朝、エロスは帰ってきていた。

 洗濯機に脱いだシャツから女物の香水のにおいがする。

 また誰かたぶらかしてるんだろうなあと思いつつ、「この口紅、誰のかしら?」と女の口調で言ってみた。

「ロゼさんですよ」

 と女の名前が飛び出してくる。ガンショップのロゼにまで手を出してるのかとため息をつく。

「そういえばちょっと長期の仕事があるんで、しばらく家を留守にします。レトルトいっぱい置いていくから、ちゃんと左手使えるようになっておいてください」

「左手だけじゃ足りないときは?」

「口をお使いなさい」

「口も駄目だったら?」

「努力してください。私がいないと寂しいですか?」

「別に」

 そういうわけじゃあない。明日には仮の義手もできると聞く。たぶんなんとかなるだろう。

「いい子にしていてくださいね」

 そう言ってエロスは右頬にキスをした。思わずリョータが左手で拭うと、エロスは「お別れの挨拶なのに」とぶぅたれて、そのまま仕事に出かけてしまった。

 人が抵抗しづらい状況でどさくさに紛れて何をするんだ。だいたいお別れの挨拶ってなんだ、別にすぐ帰ってくるのに名残惜しむ意味がわからない。



 ニュースで男の死体が見つかったのを知ったのは、それから一週間後のことだった。エロスの体は雪の下で凍っていた。


「お前は女の腹の上で死ぬと思っていたのにな」

 銃殺されてあんな自慢していた顔がぐちゃぐちゃじゃあないか。お前に黄色い悲鳴をあげていた女たちが、本当の悲鳴あげるぞ? そう思った。

「霊安室に一人にさせてください」

 そう言うと、死体を見つけた葬儀屋たちは出ていった。

 エロスの寝ている寝台を強く叩いた。

「馬鹿野郎! 将棋で俺に勝つとか言ったきり、こんなになりやがって。お前が手加減してたの知ってるんだからな!」

 得意満面に勝った自分を勝たせてやったのような笑顔を作っているエロスは、まだ覚えている。それなのに今はどうだ。この一ヶ月ですべてが一転した。

「帰ってこい。俺、お前にまだありがとうもごめんなさいも、何も言ってないぞ。お礼もしてなけりゃ、迷惑かけっぱなしだった。お前が平気な顔してたから、お前が平気なんだとばかり思っていた。馬鹿だった、俺が馬鹿だったって認めるから戻ってこいよ!」

 霊安室中に反響するのは自分の声だけだった。笑うあいつの声が聞こえなかった。このまま死んだのは冗談だった、なんてオチであってくれればいいのに。

 涙がぼたぼたと目からこぼれた。意地を張る必要なんてもうなかった。なし崩しにしばらく泣いた。泣いたのは弟が死んだ日以来だ。お前は間違いなく、自分の血を分けた家族と同じかそれ以上の存在感があった。

 エロスの手を見た。紫斑はもちろん浮かんでいた。左手の薬指にはピンクゴールドの指輪がはまっている。形見にこの指輪だけでももらおうかと思った。しかし、指の細いエロスと普通の指の自分じゃあ、指輪のサイズは同じじゃあない。

 視線が次にいったのは、彼の右手だった――


 アルヴィンの医院は休院日だった。しかし急がなくては鮮度が落ちるため、後ろに回りこんで家のインターホンを押した。

 ちょっとして、玄関を開けた女の子がいる。

「こんにち、きゃっ」

 小脇に切断された手首をはさんで、左手でインターホンを押してる男がいたら、普通の女の子は悲鳴を上げて当然だ。いつぞや路上で見た女の子か? と思ったが、黒髪だけどちょっと雰囲気が違った。

「アルヴィンさんいる?」

 リョータは女の子にそう言った。女の子はこくこく頷き、すぐにアルヴィンを呼びに行った。


「これをつけてくれないか?」

 そう言って手首を手術台の上に放り出す。

「誰の右手?」

「俺の大事な家族」

「死んだの?」

「うん」

 切断したエロスの右手には、紫斑がくっきり出ている。アルヴィンは難色を顔に表したが、しばらくして意を決したようだった。

「そうか。手術、すぐにできるよ。僕はちょっと縫合には自信があるから」

 縫合には自信がある、という響きには少し薄暗さがあった。アルヴィンにもきっと、色々な過去があるのだろう。そして後ろから、さっきアルヴィンにキャロルと紹介された女の子が覗いていた。きっと彼女にも過去があるに違いない。キャラウェイ島にいる人に、わけありでない人など、ほとんどいない。

「頼むよ」

 どうせなら、過去を背負ったまま今を生きよう。前向きにがむしゃらに生きられるほど、過去を振り返らずにいられるほど自分は強くなかった。そして逃避するほど弱くもなかった。


 左手と右手は全然違う形になった。エロスの左薬指にはまっていた指輪は、右の薬指にしか入らなかった。

「私は人が愛せないんです」

 とエロスは言った。

 だけど自分の面倒は見てくれた、すごく人好きな性格の男だった。

「つけたり外したりしても、最後はそいつに戻ってくる関係がひとつくらいあってもいいじゃあないですか」

 エロスは必ず家に帰ってきてくれた。

 もう大きくなった子供の自分をずっと育ててくれた。

「俺はお前がいいや。愛するどころか、誰のことも好きじゃあなかったけど……あんたのことは嫌いじゃあなかった」

 たぶんそれが好きってことだったんだろうな。あとから気づいたけれども。


 右手は思った以上に手に馴染んだ。アルヴィンの縫合が一流以上の腕だったということだろう。

 今までと変わらない生活を送ることもできた。金はエロスが貯金していたものと、保険と降りてきたし、右手は不自由なく動いていた。



「あら、その指輪と同じ指輪している人、知ってるわ」

 ロゼのガンショップに、エロスの遺品の銃を修理に出した日だった。彼女はリョータの右手を見て、そう言った。

「彼、元気にしている? 最近会いに来てさえくれなくて」

 死んだ。と言おうとしたとき、続きがあった。

「彼から探すように言われていた人、見つけた途端にこれよ? まったく、いつもつれないんだから」

 しょうがないわね、と言ってロゼは赤い唇で笑う。エロスが死んだことを本当に知らないようだった。

「エロスは誰のことを探すように言ったんだ?」

「ずっと前に彼が拾った男の子の弟を殺した犯人。目撃者情報と照合するまでにかなり時間がかかったわ」

「……誰だったんだ?」

「あなたもしかして……。そういうのは報復屋に頼みなさい? いい人知ってるから」

 ロゼのことを睨みつける。彼女はちっとも動じない。

「そいつだけは俺が殺したいんだ」

「よしなさい。エロスもきっと何かしようとして殺され――」

 リョータは銃をロゼに向けた。

「それくらいじゃ私、驚かないわよ?」

 なるほど、唯一のガンショップの店長はそれくらいの脅しには屈しないらしい。

 窓の外に銃口を向けた。ロゼが止める間もなく、窓の外めがけててきとうに乱射した。「どうすれば驚く?」

 とリョータはロゼに聞いた。彼女は呆れた表情をした。

「アメリカマフィアの、エーリッヒという男よ。殺すには随分手間がかかると思う。報復屋を使うことを本当にすすめるわ」

「いい相手紹介してくれるって言ったよな? 本当だろうな」

 ロゼはすました顔で、「当然よ」と言った。そのときまでは、よもやパジャマを着た女の子と俺女を紹介されるなんて思いもしていなかった。


「社長のパプリカよ。こっちは副社長のシナモン、そして平社員のアニス」

 社長と名乗るパプリカが、代表で全員を紹介してくれた。コードネームだろうかと悩むような名前と、報復屋とは思えないような容姿に見つめられて沈黙する。

「あれ? もしかしてどこかで会いませんでしたか?」

 アニスがリョータにそう聞いてきた。言われてみれば、昔見たことのある、ドールのような容姿をした子だと気づく。

「あのときの報復屋見習いの?」

「あ、やっぱり! あのときのお兄さんですよね」

「知り合いか? まあいいけど。仕事の内容を聞かせてもらおうか」

 副社長のシナモンと名乗る少女がそう言って、リョータは椅子に腰掛ける。目の前に珈琲が出てきたが、それには警戒して口をつけずにだいたいの経緯を話した。


「エーリッヒって言ったらマフィアの参謀じゃあねぇか。厄介だな」

 どうやらけっこうな地位がある相手のようだ。弟とエロスが何をやって彼らの怒りを買ったかわからないが、組織ぐるみで消されたと思っていいみたいだ。

「あんたらには手伝ってもらうが迷惑はかけたくない」

「殺しは報復屋の仕事よ。あんらは復讐なんて考えず家で待ってらら?」

 パプリカが舌足らずな口調でそう言うのに、思わず眉をしかめてしまった。

「あいつらから出向くようにしたらいいんだろ?」

 苦々しい口調でそう言い、持ってきたキャリーバッグをあけて、中に札束がぎっしり詰まっているのを見せた。

 シナモンがぼそっと「けっこうあるな」と言った。

「金は、これだけある」

「それでどうしろっていうのよ?」

「あいつに賞金をかけて、報復屋をありったけ雇う」

「へえ。そりゃあライバルもこぞってあいつを狙うわけだ」

 面白そうだとシナモンが笑う。話が通じそうなのは、シナモンのほうかもしれないとリョータは思った。

「あいつは賞金を払う奴が死ねば自分が狙われなくなることを知って俺を狙うはずだ。俺を狙ってあいつが動きだしたところを、殺す」

 そこまで聞いて、「はぁ、」とパプリカがため息をつく。何かおかしなことを言っただろうか。リョータは至極真面目に言ったつもりだったのに。

「自分を的にしようっての? あんら、死にたがり屋?」

「いいや、」

 リョータは首を振る。

 本当、何が根拠でそんな自信があるのかはわからないが――

「自信家だ。勝つのは俺だ」



 それから家で普通に生活していた。自分を狙って殺しにくるマフィアもいるが、家にいる二人の報復屋のために返り討ちにあっている。

「なかなか自分から動きはしないな」

 リョータがそう呟くと、シナモンが当たり前だとばかりにソファでテレビを見たまま、

「マフィアの幹部がそう簡単に動くわけねーだろ」

 と言った。隣にいるパプリカも頷き、

「最初から穴だらけな作戦なんらわ」

 とラチがあかない作戦だと言ってきた。

「そうでもないと思うけれどもな」

 リョータは呟く。シナモンが「何かしたのか?」と聞いてきた。

「あいつがマフィアとしてぬくぬくしてられないように、ちょっと裏切り者としての情報を流してやったのさ」

「じゃあ、今頃はマフィアにも狙われてるってこと?」

 今度はパプリカが質問してくる。リョータは頷いた。

「そうだな。どのみち死ぬんじゃないの?」

「あんら、自分で殺したいんじゃあならっらの?」

 そんなのだったら、最初から自分たちに任せてほしいものだと言いたげなパプリカに、リョータはクイズを出す。

「さて問題。マフィアがこの島にいられなくなったとしたら、最初に必要なのは何?」

「金」

 即答したのはシナモンだった。そう、金だ。

「そう。今一番金が動くのは?」

「エーリッヒを殺すこと」

「そう。つまり、彼が死んだことにして、整形するかなんかしてここに金をとりにくるはずだ」

 パプリカはため息をついて、「そんなうまくいかないわよ」と言った。

『ニュース速報です。 ただ今、アメリカマフィアの幹部とも言われた、エーリッヒ=アドラースヘルム氏の車が、謎の爆発を起こして吹っ飛んだとの情報が入りました。誰かが爆発物を仕込んだと見て調査している模様。中から死体がひとつ見つかっていることから、エーリッヒ氏の遺体であるかの調査も進んでいます』

 アニスが「もしかして、うまく行った?」と呟く。こんなアバウトな作戦が成功するものなのかと、シナモンが「マジかよ」とびっくりしたようにテレビを見つめる。

『ただ今、エーリッヒ氏を殺したのは自分だと名乗る人が殺到しています。この中から有力な情報を洗い出します。賞金を手にするのは誰になるのでしょう』

 リョータはそのニュースを聞いてクククと笑った。

 煙草を欲しがり、リョータの右手が動く。煙草を咥えて、火をつける。煙草をくゆらせる。

 不味いと思っていたものが欲しくなる。何もかもが自分じゃなく、あいつの遺志のような気さえしてきた。


 受賞する男は、一般人のトムという男に決まった。写真を見ただけではエーリッヒとまったく別人に見えたが、体型を見ればどことなく近いものを感じる。

 リョータはテレビを見ながら、トムとエーリッヒは同じだろうと思った。

「どう思うよ? パプリカ。こいつ黒か白か」

「黒ね。見て、過去の動画と照らし合わせてみると、手の形がいっしょらわ」

「あ、本当だ」

 目ざといパプリカもこれはエーリッヒだと認めた。アニスとシナモンが動画を食い入るように見ている。現代は何でもパソコンひとつで検証できるのだから楽である。

「そういやエロス=ジョヴァノッティの銃が直ったってロゼ姉が言ってたから、受け取ってきたぜ?」

 シナモンがそう言って、リョータに箱を差し出した。蓋を開けると、中にはよく磨かれて、まるで新品みたいになった銃が入っていた。

 リョータはその銃身を見つめて、これを使おうと思った。そして銃を腰に挿し込むと、シナモンとパプリカといっしょに、授賞式の会場へと向かった。


 授賞式には大金を受け取る一般人トムを放送するために、何人かの記者たちが来ていた。誰かが死んで、報復をするなんてことは珍しいことでもなんでもなかったが、殺した人間ならば誰でも金を手に入れられるという報復をした人は珍しかったらしい。

 トムは約束の時間の五分前に現れ、インタビューに答えていた。リョータはトムに挨拶をして、握手をもとめた。

 リョータの右手をしっかりと握りしめ、その手に紫斑があることに気づいたトムは少し不審そうな目でリョータを見た。

「まるで殺した相手のことを思い出したような顔ですね?」

 そう言ったリョータが誰なのか、トムにはわかっていない。もしかしたら、エーリッヒではないのかもしれないとさえ、思った。あと一回くらい確かめておく必要がある。

『それではこれから、三隅亮太さんからトム=ロバーツさんへ小切手が送られます』

 アナウンスが流れる。

 ご丁寧に紙切れ一枚を渡すシーンに、いくつものフラッシュが光る。トムは小切手を受け取り、お辞儀をしてから退場していこうとした。

「そうだ待って、エーリッヒさん」

 何か思いついたような口調で、リョータはトムをそう呼んだ。トムは思わず振り返り、振り返った瞬間自分がエーリッヒだとバレたことに気づいたようだった。

 ギャラリーの合間から銃声が聞こえ、膝を射ぬかれて、トムこと、エーリッヒが膝をついた。

「お前はここで死ぬんだ。エーリッヒ」

 シナモンがギャラリーの合間から出てきて、もう一方の膝を撃った。まだ自分がエーリッヒと何故リョータたちにバレたのかわからないエーリッヒが困惑したように近づいてくるシナモンと、リョータを見つめている。

 リョータは腰の後ろから銃を引き抜くと、そのままエーリッヒに向けて数発発砲した。そのうちの一発がエーリッヒの頭に当たる。

 その場に血の海が広がった。殺したという実感もないまま、また相手も苦しまずに死にやがった。だから銃は好きじゃあないんだとリョータは胸中毒づく。

 周囲は騒然としていた。その中、リョータはひとりだけ静かな気分だった。


(気はすみましたか?)

 銃を握る右手が、そう語りかけてくる。


 お前は俺の血であり、肉であり、骨だった。

(まあそのとおりですけど)

 家族であり、憎しみの象徴だった。

(愛されていた覚えならありますが?)

 殺したいほど、どうでもいい存在だったのに。

(まあそれだけ執着していたってことにしましょうかね)

 お前の名前が俺の中に後遺症のように残っている。

(私は自分を愛してくれる人に興味なんてないですけれどもね)

 これは依存か?

(煙草も依存症があります)

 それともお前のお巫山戯か?

(そうとっていただいて、いいでしょう)

 巫山戯た回答しやがって。

(ありがとうございます)

 もう終わりにしてやる。

(そうですね、からいかいすぎました)

 お前はもう、ここにはいない。

(そうですね)

 俺はお前のことが大嫌いだった。

(そうですね)

 だからお前の思うとおりには生きていかない――


 もうこの声が幻なのかリアルなのかなんてどうでもいい。もう終わったのだ。

 リョータは静かに銃をこめかみに宛がう。

「死ぬ気か!? リョータ」

後ろからシナモンの声がしたが、構わず引き金をひいた。

 カチ。

 むなしい空の音とともに、銃は弾を吐かずに終わった。その直後に、すごい勢いで頭を殴られる。

「ふざけんな! 金も払わず死ぬんじゃねえ!」

 シナモンに銃を取り上げられる。

 おかしい、安全装置は外したはずなのに。

「その銃はおもちゃよ。ロゼはあんらに本物の銃なんて渡してない」

 シナモンとは別の角度――カーテンの隙間からパプリカが姿を現し、リョータに近づいてくる。シナモンが取り上げた銃を受け取り、それを無造作に後ろに向かって放り投げた。

「まあ、素人からしたら、自分が引き金を引いたタイミングで相手が死ねば、自分がやったと思うでしょうけれどもね」

「俺が殺したわけじゃあなかったのか」

「エロスはあなたが復讐する可能性、自殺する可能性も予測して、あたしらに報復と依頼をしていったわ。だからこれでやっと、あたしらも依頼完了というわけよ」

「巫山戯た奴らだ」

 死んだエロスと、そして報復屋に騙されたというやつだ。リョータは苦々しく呟き、二人の報復屋を見た。

 シナモンが頭をがしがしと掻き、そしてリョータの肩に手を置いた。

「エロスの気持ち考えてやれよ? 守ってやりたかったんだろ。お前のこと」

 自分はエロスが命をかけて守る価値が果たしてあったのだろうか。それはわからない。大切にされていたのだけはわかった。自分が思っていたより、ずっとずっとだ。

「馬鹿な奴だ」

 お前も、自分も馬鹿だった。

「死ぬまで意地張り合う必要なんてなかったのに」

 大きな子供が、子供を卒業するにはあまりに大きすぎる過ちだった。



 リョータは報酬をビター・バレッツ社に払うと、残りのありったけの金をかき集め、それでキャラウェイ島を出るための船のチケットを買った。

 無一文になり、家族を亡くし、擬似的家族も亡くし、そして幼さも忘れて、少しだけ心が老けてしまったリョータは、離れ行く小島が小さくなるのを船の甲板から見ていた。

「指輪、逆の手につけていたら口説くのやめようと思ってたわ」

 そう声をかけられて、振り返る。日傘をさした、歳はちょっと年上くらいの女がこちらに笑顔を向けてくれていた。好みのタイプではなかったが、声をかけてくれたのは少し嬉しかったかもしれない。

 誰か、共に幸せになれる相手を見つけてやり直すことはできたはずだった。

 しかし違うスペアを見つける気にはなれなかった。

「左の薬指はあけておこうと思って」

 思い切り哀愁を含んだつもりで、そう言ってみる。

「大切な相手がいたんでしょう?」

「結婚するような相手じゃあないけれどもな」

 あいつは家族だ。そんな離婚状一枚で簡単に離れられる仲じゃあない。

 女はリョータの隣までくると、目を瞬かせた。

「お話、聞かせてくれない?」

 リョータは少しだけ沈黙し、瞬きをした。

 この女、金持ちそうだ、という思考が動く。

 結婚詐欺師のあいつがまるで半分自分に乗り移ったみたいだ。

「いいよ。あんたは俺に優しそうだ」

 リョータは自分の作れる最上級に優しそうな笑顔を作ってみせた。

 ちょうど無一文だし、この女の金を騙しとろう。

 時間はいっぱいある。落とすのに必要な手練手管はそのうち身につくだろう。

 殺すのに飽きたならば、騙せばいい。

「俺にはかつて家族がいたんだ」

 自分の心も、騙せばいい。

「殺されたけれどもね」

「胸が痛んだでしょう?」

「多少はね」

 良心なんて痛みやしない。すべて、金づるだと思えばいい。

 罪悪感がなければ生きていけない時期は終わった。今は過去の愚かさと、失ったものの代わりに手に入れた右手があった。

 女の背に、白いあいつの右手を回した。

 エロスの右手は女の背にいやというほど馴染んだ。


(お前は、俺の相棒だ)

 今までも、これからも。

 あいつのいる地獄に行くのは、まだずっとずっと先にしてやると、したたかに生きる決意をした。


(了)


どんなに大事なものを失っても、それが原因で自分や誰かをないがしろにして生きることは、悲しいことだ。

と思ったところでなんともならねえもんは、なんともならねえな。

なるようになる。

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