番外編 華夏の夫婦
2015年11月22日の活動報告で発表した、「良い夫婦の日」にちなんだ短編を加筆修正して再掲したものです。
本編開始前の朱威竜と香蘭夫婦のエピソードです。
「なんて滑らかな手だ、素晴らしい。奥様、いかがです、あちらで二人きりでお話してはくださいませんか?」
「いいえ、ダメ。夫がいるの。待っているの」
香蘭は、先ほどから彼女の手を握って口説いてくる洋来人をあしらうのに苦慮していた。洋来人が使う外語はとても難しい。数年に渡る勉強のお陰で聞き取る分にはかなり分かるようになってきたけれど、思うことを伝えるとなるとこちらはなかなか上手くいかない。
「そのご夫君はどちらです? 美しい奥様を放っておかれる冷たい方ではないですか。少しは心配させるくらいが良いのです」
「いけません。嫌です」
はしたない、というのは外語で何と言えば良かったのかしら。そもそも習ったことがあったかしら。知らない男に迫られる恐怖もあって、香蘭の言葉はますますたどたどしく子供のようになってしまう。それがまたこの男をつけ上がらせてしまうのだろうに。
夫の連れということで招かれた、租界のある屋敷での夜会でのことだった。商談ということで夫は殿方だけの一角へ行ってしまった。言葉がおぼつかない華夏人の香蘭には、租界に友人などいない。だから、広間の片隅で音楽に耳を傾けながら大人しくしていようと思ったのに――
「怯えていらっしゃる? 安心してください、私は紳士なのですよ。華夏の連中のように女性を閉じ込めたりなどしませんから」
「放っておいて。行きません」
掛けていた椅子から強引に立たせられそうになって、香蘭は悲鳴を上げそうになった。小さな纏足は彼女の自慢だけど、でも、歩き回るにはとても向かない。慣れない洋装をしているのも、動きの妨げとなってしまっている。体格で勝る洋来人に抱えられたら、どこかへ連れ去られてしまいそう。
華夏語が通じたら、こんな思いはしなくても良いのに……!
そう思うと、恐怖と同時に強い怒りも湧き上がる。洋来人から見れば、小柄で言葉も拙い香蘭は子供のようなもの、人形のように愛玩できるものだと思えてしまうのだろう。
華夏の夫婦についてもきっと誤解をされている。ひとりの夫が複数の妻を持てるのは、洋来人にはひどく奇妙に思えるようだから。確かに香蘭の夫も第二夫人を持っているし、夫を独占できるの異国の女を羨ましく思うこともないではないけれど、今のあり方を不満に思ったことなんてない。
洋来人が面白おかしく言うのは、根も葉もない悪い噂ばかりだ。華夏の妻、特に正妻でない者たちはいかがわしい職の女のように扱われているとか。妻が複数いる分、ひとりひとりへ向ける夫の愛情も分かれているとか。……だから、華夏の女は不埒な扱いをしても良いのだとか。それどころか、彼らは香蘭に本当の愛情を教えてやろうというつもりさえあるようだ。夜会の場に流れる弦楽の音は美しいというのに、洋来人の男たちの言葉は彼女の耳には汚らわしいものばかりだった。
香蘭の言葉が拙いのを良いことに、どうせ分からないだろうと声高に、時にあからさまに彼女をちらちらと伺いながら。彼らが囁くことには嫌悪しかない。彼女の外語がもう少し流暢だったなら、そんなことはないと堂々と言ってやれるのに。
わたくしは旦那様を愛している。第二夫人の金蓮とだって上手くやっているし、金蓮の娘を育ててさえいる。租界の女たちと同様に父母に愛されて良縁を得て、旦那様を助けて屋敷を取り仕切っている。酌婦や娼婦のように扱われる謂れなど微塵もない。
「どこもかしこも小さくて本当に可愛らしい。足も、とても小さいというのは本当ですか? 纏足というものがどんなものか見てみたかったのです」
「嫌です!」
抗議したくても口から出るのは子供の駄々のような言葉ばかり。
こんな時、翡蝶だったら!
ままならない恐怖と屈辱と怒りの中で思うのは、夫が思いを寄せていた女の名。第三夫人として、香蘭の妹分として迎えるはずだった女の名。外語を話して洋来人のような見た目と振る舞いだったというその女なら、こんな場面でも難なく切り抜けられたのだろうに。
小さすぎてとても踏みとどまることなどできない足に、それでも力を込めようとした時だった。香蘭は横から腕を取られて、半ば強引に洋来人から引き離されていた。
「妻に何かご用ですか」
不機嫌そうな声は、外語を紡いでいた。でも、聞き間違えようのない夫の声だった。衣装も、香蘭の目にはなじまない洋装だったけれど、纏う香りは確かに愛する夫のものだった。
「旦那様」
呆然と呟く香蘭。そして先ほどまで余裕ぶっていた洋来人は露骨に慌てた様子を見せている。
「奥様のご気分が悪かったようで……介抱して差し上げようかと」
「それはどうも」
へつらうような言い訳に対して、夫の言葉は冷たく鋭いものだった。租界の夫婦がするように、香蘭の腰を近く抱き寄せて守ってくれるかのよう。華夏の夫婦は、人前では慎み深く肌を寄せたりはしないもの。だから、とても恥ずかしいのだけど――香蘭は、同時に心底安堵していた。
「ですが私が戻ったからには心配は無用です。手助けは結構」
すると相手は、口の中で何事か不平めいたことを呟きながらそそくさと去っていった。
その後は、夜会が果てるまで夫は香蘭の傍にいてくれた。夫は彼女よりも外語が遥かに堪能だから、事件というほどのこともなく、ふたりは家路に就くことができた。
「旦那様。あの、申し訳ありませんでした……」
「香蘭? 何のことを言っている?」
馬車に揺られながら恐る恐る口を開くと、夫は不思議そうに首を傾げた。
「先ほどのことです。わたくしはいつまでも外語ができなくて、あのように外聞の悪いことに……」
夫がああ、と呟いたので香蘭はますます俯いてしまう。
「翡蝶のようにはいかなくて……」
そもそも第三夫人を迎えようかという話も、香蘭では租界での社交の役に立てなかったからだった。翡蝶は結局他の男に縁付いたけれど、また同じような能力の女を探した方が良いのではないだろうか。でも、翡蝶を愛していたらしい夫に、そんなことを言っても良いのだろうか。
「香蘭には無理をさせていると思っている。洋装も租界のやり方も、苦痛なのだろうから。……商売の助けをしてくれることには、いつも感謝しているのだ」
「旦那様」
けれど、夫の言葉は意外なほどに優しかった。しかもまた洋来人のように香蘭の頭を抱き寄せてくれる。香蘭も洋装に身を包んでいるからか、気恥かしさよりもなぜか嬉しいと思ってしまう。
「できればあのような無礼者は殴ってやりたいのだがそうもいかない。……言いたいことを決めておいてはどうだろうか」
「良い考えかもしれません。焦ってしまうとどうしても言葉が詰まってしまうのです」
「ではこういうのはどうだろう」
そして夫が耳元で囁いた外語の連なりに、香蘭は顔が赤くなるのを感じた。
「旦那様、あの、それは……」
「そう言ってやれば引き下がると思うのだが。租界の者たちはどうも華夏の文化に偏見があるようだから」
「それは、そうですが」
「言いづらかったら練習すれば良い。何なら、今からでも」
そう言われて、香蘭はますます顔が火照ってしまう。だって夫が耳に囁いた言葉の、意味は。
「わたくしは夫を愛しています。とても幸せなの。貴方なんてお呼びじゃないわ」
いつも以上にたどたどしく紡いだ異国の言葉は、それでもその意味ゆえに特別な響きがあった。華夏語なら恥ずかしくて口にできないことだっただろうけれど、外語だからか歌うように繰り返し口ずさむことができる。
「香蘭にとって嘘でなければ良いのだが」
「本当ですわ! 心からのこと、真実です」
冗談めかした夫に答えながら、香蘭の心を喜びが満たしていた。ただ夫に愛を囁いたからというだけではない。夫がそう言わせたということ、香蘭がそう思ってくれているだろうと、夫が考えていてくれているのが嬉しかった。
喜びのままに夫に抱きつくと、ひどく驚かれたようだった。
「大胆だな」
「洋装だからかもしれません。あちらの流儀にあてられたのかも」
租界では夫婦は寄り添い、人前で口付けを交わしさえする。彼らの服を来て彼らの言葉を使った時間が、香蘭に影響を与えているのだろうか。とても、恥ずかしいのだけど――
でも、たまにはこんな時間も悪くはないわ。
夫の温もりを味わいながら、香蘭はうっとりと微笑んだ。




