一視点の行く先
一視点の行く先
昨今、一部の解釈ばかり、まかり通る世の中になっている。漫画やアニメなどのサブカルチャーを一部の人間が多角的な視点を見いだせずに、一方的に攻撃するやり方はただの権力を振りかざした暴力であると、私は考えている。
東京の青少年育成条例可決ばかりではない。
我々は、我々の世界の為に声を大にして、その声が枯れるまで叫ばなければならない!
本来ならば、そんなことをせずとも、日本国の法――表現の自由が守ってくれるはずだった。
だが、無能な政治家により、多くの意見を踏みにじり、二転三転するその姿に何処に理がある。何処に信念がある。
私の目的は全てを多角的に表現し、全てを描くこと。愚かさも、嬉しさも、悲しさも、悔しさも、切なさも……それこそがサブカルチャーであると確信している。
いや、サブカルチャーと評するのは止めよう。これは文化を通した数ある中のコミュニケーションツールの一つだ。
創作者が提供し、読者がそれを読み、感想を抱く(一次創作)。このプロセスにおいて、どうやら、一部の方々は一視点でしか、人間は思考できないとお考えのようだ。
これは人間に対する侮辱に他ならない。
問い1、サッカーボールがあります。あなたはどのように遊びますか?
に対して、一視点しか思考できないと言っているのと同じだ。
サッカーボールの上に乗ってバランスボールのように扱うことだって可能なはずだ。
一次創作を体験した読者は創作者へとやがて、成長する。(二次創作、あるいは一次創作)
その成長するのに必要な肥料はあらゆる感性だ。感性を得るためには、エロスの要素も必要、暴力(友達との小競り合いなどを含む)の要素も必要。エロスにフェティシズムという要素も存在している。スカートに萌える人もいるだろう、鎖骨の形にときめく人もいるだろう……。
では、それを性的なものと解釈するか、否か、それは様々な状況や環境によって違うだだろう。
それなのに、一部の人間の判断によって、これを肯定か、否定かに分けることこそ、傲慢と言えよう。
大人達は子どもに成長する機会を奪うつもりですか? 正しいと思ったレールはあなたの一視点に過ぎません。そのレールがただ、一人のものに引かれるのであれば、影響は少ない。
だが、みんなに引かれるのであれば?
……
………
ファシズムとはそういうことなのです。みんなをただ、一つの視点に誘い、魔女狩りをするそれが彼ら、一視点しか保たぬ者の無知の結果です。
漫画やアニメ、小説、TV、映画などにより、子ども達は様々な選択肢を体験させられる。それは一つの冒険なんだ。冒険には失敗がつきものだし、成功もつきもの。その二つにしたって、子どもの数だけ、正しさはある。
私達、大人がしてやれることは縛りつけることじゃない!
子どもを信じて、私達大人を信じて、多角的な意志を保つことだ。
ところがどうだ? 今の世は?
どんどん、子ども達の、大人達の視点を奪っていくじゃないか。
そんなので、人をコントロールするな。
そんなの優しさでも、愛情でも、何でもない。ただの独り善がりだ。
本当は、ただ、優しさを一人一人が1リットルずつ持てば、世の中、どうにかなるんじゃないか?
私は描く。ありとあらゆる海の如き、人間の感情をそこに良い、悪いをぐちゃぐちゃに塗りたくってそれこそが人間の価値であることを信じて。それがどんなに愚者であるかを知っていながら……。
だからこそ、遍駆羽御と名乗る。
ボクはただ、キミ達の色のある声が聞きたいだけだ。
さぁ、聞かせてキミ達の誰の視点にも囚われぬ、混沌から選択した声を。
2010年 12月15日 遍駆羽御から、愛すべき人間達へ。