~第2話~
「本っ当に、スマン!」
ハルが路地裏で少女を助けてから、十五分後。
少女の兄を交えた三人は、近くのオープンカフェにいた。
「も、もう頭を上げてください」
ハルは何度目かわからない青年の謝罪に、正直困っていた。
誤解だとわかっただけでハルはよかったのだが、この青年にとっては、そう簡単に行く出来事ではなかったらしい。
「いや! 妹を助けてくれた恩人に拳を向けるなんて! あと、百回、いや、千回は頭を下げないと、気が済まない!」
「え、えぇー」
ハルは本当に困っていた。
何より、都会のド真ん中でこんなことをされると、目立ってしょうがない。
「あの、お互いに怪我はなかったんですし、謝る必要ないですよ」
「しかし」
「もう! お兄ちゃん、逆に迷惑だよ!」
なお喰い下がろうとする兄を、少女が窘めた。流石にしつこいと思ったのだろう。
「け、けど」
「けど、じゃないよ! ……ごめんなさい。お兄ちゃん、悪気はないんですけど……ちょっと暑苦しくて」
「い、いえ」
何と答えればよいかわからず、ハルは曖昧に笑った。
「むぅ……」
青年はしばらく悩み、ハルの目を真っすぐ見た。
「……わかった。もう謝るのは止めよう。……ただ、一つだけ」
「?」
「妹を助けてくれて、ありがとう」
首を傾げるハルに、青年はゆっくりと頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
隣の少女も、兄に続いて恭しく頭を下げる。
「……そういう感謝の言葉なら、ありがたく受け取っておきます」
ハルは照れを隠すように頬をかいた。
青年と少女はほほ笑み、ハルに向き直った。
「俺は【楠木健吾】。で、こっちが、妹の」
「【楠木蓮華】です」
兄の言葉を遮り、蓮華は軽く頭を下げた。
少しウェーブのかかった髪を肩甲骨辺りまで伸ばしている蓮華は、短髪でガタイのいい健吾とは正反対の、華奢で儚げな印象を与える少女である。
(こんな事思うのは失礼かもだけど……兄妹って、似ないものなんだな)
ハルがそう思っても仕方ないほど、二人は似ていなかった。
「俺は天城です。天城ハル」
「天城さん……。あの、私達のことは、ぜひ名前で呼んでください」
「健吾さんに、蓮華さん?」
「はい! ……天城、さん」
蓮華はハルの名前を、頬を紅くして呟いた。
「天城はここの外から来たのか?」
「あ、はい。わかりますか?」
「なんとなくな。東京は、外の者が集まる場所だし。……今の時期にってことは、やっぱりどこかの学園に入るのか」
「一応、桜楼学園に入る予定です」
「え!? 本当に!?」
目を丸くする蓮華。
「もしかして……二人も?」
「ああ。俺が桜楼の三年。蓮華が」
「私も今年から桜楼に入学するんです! 凄い偶然ですね!」
またも兄の言葉を遮った蓮華。普段の引っ込み思案な蓮華とは思えない、と健吾は思った。
「まだ、予定だけどね」
「予定? ……もしかして、『特別入学』か?」
「はい」
「え……『特入』なんですか?」
嬉しそうな表情から一転、蓮華の表情は不安げなものに変わった。
「?」
なぜ蓮華がそんな顔になったのかわからないハルは、首を傾げた。
「……『特入試験』は危険らしいから」
蓮華がポツリと呟く。
「そうなんですか?」
「まあ、そうだな」
健吾は腕を組みながら頷いた。
「お前は特入の実技だろう? あれは実力が重視されるから、それなりに危険が付きまとうのは当たり前なんだ」
「当たり前って……それで天城さんが大怪我したら……」
(あ、俺の心配してくれてるんだ)
ここでようやく、蓮華の顔が暗い理由を、ハルは理解した。
「ありがとう、蓮華さん。でも、大丈夫。俺は丈夫なのだけが取り柄だから」
「でも……」
「死ぬわけでもないですし……ですよね、健吾さん?」
「そうだな。今までの特入試験で、一応、死者はいない」
「……一応、ですか」
顔を引きつらせるハル。
蓮華の不安を和らげるつもりだったが、逆に自分が不安になってしまった。
「……うん、決めた! 私、明日必ず天城さんの応援に行きますね!」
「え、あ、うん。あ、ありがとう、蓮華さん」
健吾の言葉が尾を引いているハルは、若干弱腰になっていた。
「頑張って下さい!」
純真無垢な蓮華は、そんな事には全く気付いていないのだった。
そして、健吾はそんな妹を、横から驚いた目で見ていた。
(あの蓮華が男に気を許すとは……天城ハル、か。面白そうな奴だし、蓮華のためにも、是非とも桜楼に入ってもらいたいもんだ。……ん? ……ちょっと待て……確か、特入試験の実技って……)
「明日だ!」
「「っ!?」」
いきなり机を叩いて立ち上がった健吾に、他の二人は目を丸くする。
「ど、どうしたんですか、健吾さん?」
「どうした、じゃない! 桜楼の特入・実技試験は明日だぞ!」
「え!? そ、そうなんですか、天城さん!?」
「そういえば……そうですね」
あせっている楠木兄妹に対して、本人のハルは至って普通だ。
「そうですね、って……準備とかしなくていいんですか?」
「準備って言っても……何か必要な物ってあるんですか?」
「いや……基本的に、自分の身と武器だな」
「じゃあ、明日は手ぶらですね」
「武器は使わないんですか?」
「使う時もあるけど……明日は使う予定はないよ」
(と言うか、持ってきてない)
ハルの持ち物は、足元に置いてある袋の中に入っている、最低限必要な物だけだった。
「ま、今さらジタバタしてもしょうがないですから」
と言って、ハルは紅茶を一気に飲み干した。
傍目から見たら、かなり余裕そうだが、
(明日は死なないように頑張ろう)
心中ではかなり弱気な事を考えていた。
「じゃあ、そろそろ行きますね。一応、明日に備えて」
「お前、東京は初めてだろう? どこかあてはあるのか?」
「知り合いの家に住まわせてもらおうかと……雲月荘って名前なんですけど、知ってますか?」
「雲月荘か……いや、知らないな。蓮華は?」
「私も、聞いたことないです……ごめんなさい。役にたてなくて……」
「いえいえ、気にしないで下さい。散歩がてら、気楽に探しますから」
そう言って、紅茶の代金を机に置こうとしたハルを、健吾が制した。
「ここぐらいは、俺が払ってやるよ」
「でも、初対面の人に奢らせるわけには」
「そうか……じゃあ、天城が合格したら返してくれ。それまでは借しておく」
「……それは、ちょっと卑怯ですよ」
苦笑して、ハルは荷物を肩に担いだ。
「でも、わかりました。合格したら返しますね、健吾さん」
「おう」
(死なないようにするだけじゃなくて……合格しないとな)
健吾なりのエールに、ハルは闘志を燃やしたのだった。
そうして、ハルが雑踏の中に姿を消した後、蓮華が不安そうに呟く。
「……天城さん、大丈夫かな?」
「なんとも言えないな……俺達も行くぞ」
「あ、待って、お兄ちゃん」
楠木兄妹も、ハルに続いてその場を後にした。
*****
「よーやく着いた……って、これ、東京に着いた時も言ったな」
今では珍しい、木造の建物を前にして、ハルは一人呟く。
塀に取り付けられた木の板には≪雲月荘≫と、達筆な文字で書かれている。
「しらみつぶしに探して……だいたい、三時間か」
見上げた空はもう赤くなり始めていた。
「……さて、ミキさんはいるかな、っと」
敷地内に足を踏み入れたハルは、雲月荘が思っていたより大きいことに気付いた。
二階建ての雲月荘は中庭もあるので、少し古い豪邸に、見えなくもない。
「っと……あった、あった」
玄関の横に取り付けられたインターホンを押すと、慎ましい音が聞こえてきた。
「……あれ」
しかし、誰かが応答する気配はない。
(留守か? 参ったな)
「……ここに、何か用?」
「え……あ」
背後を振り返ったハルと、一人の少女の目が合った。
どこかの制服に身を包んだ少女は、無感情な目でハルを見据えていた。
「えっ、と……ここに住んでる方ですか?」
「…………」
黙ったまま頷く少女。
無表情なので、ハルは彼女の感情が読み取れないでいた。
警戒しているのか、怒っているのか、面倒くさがっているのか。
「俺、ここの家主の……東雲ミキさんの知り合いでして」
「……大家さんの?」
「はい。天城ハル、って言います」
「天城……ハル……」
少女はハルに近寄り、もう少しで鼻と鼻がぶつかってしまいそうな距離で、見上げてきた。
「…………」
「…………」
「……あの」
「…………」
(……まいったな)
ハルは少し頬を赤くしながら、同じように少女の容姿に目を向けた。
(わぁ……)
サラサラの長い髪を持つこの少女が、とても整った顔立ちをしていることに、ハルはこの距離まで顔を寄せて初めて気付いた。
(俺より年上……健吾さんと同じくらいか。この制服、桜楼じゃないことは確かだよな……どこなんだろ?)
なんて、ハルが考えていると、
「わかった」
唐突に、少女が口を開いた。
「え?」
と、驚くハルの横を抜けて、少女は玄関のカギを開け始めた。
「……入って」
少女は一言だけそう呟き、建物の中に入った。
「…………」
呆然と少女の背中を目で追うハル。
(わかった、って……俺の話を信じてくれたのか?)
だが、少女の様子に変化はなかった。まだ自分を警戒しているのかもわからない。
(……警戒してたら、こんな事しないか)
「……とりあえず、中に入るか」
いつまでもそこにいても仕方ないので、ハルは少女に続いて中に入った。
*****
「はい」
「どうも」
ハルが通されたのは、一階にある大きな居間だった。
中央に大きなテーブルがあるだけのシンプルな畳張りの居間には、現在少女とハルしかいない。
「いただきます」
手渡されたお茶を口に含むと、調度いい苦みが口内に染みわたった。
「美味いですね、このお茶」
「そう」
少女は素っ気なく返し、ハルの隣に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
「…………」
「……あの」
「……何?」
「こういう場合、普通正面に座るのでは?」
「そう」
少女は静かに立ち上がり、ハルの正面に、テーブルを挟んで座りなおした。
(な、何考えてるんだ??)
少女は相変わらず無表情なので、今のが彼女なりの冗談なのか、本気なのか、全くわからない。
「……【御柳千】」
「え?」
「私の名前」
「あ、ああ。……御柳さん?」
「千でいい」
「……千さん?」
「…………」
千は黙って頷き、ハルを指差す。
「……ハル」
「あ、はい」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
またしても、沈黙。
(だ、駄目だ……こっちから話を振らないと、一生このままな気がする)
ハルは心中で深呼吸をし、意を決して口を開いた。
「あの……もしかして、ミキさんから俺のこと聞いてました?」
「……聞いてない」
「そ、そうですか」
(つまり、知らない男を家に入れたのか……それってやばくないか?)
「知らないけど、ハルが大丈夫なのはわかる」
「え?」
ハルの考えを見透かしたように、千が言った。
「何でですか?」
「目」
千はハルの目を指差した。
「ハルの目は、優しい目。私が見てきたなかで……一番」
今までと違って、感情の籠った言葉を紡ぐ千。本気でそう感じたのだろう。
「あ、ありがとうございます」
(そ、そんなに自信満々に言われたら……)
顔を紅くしたハルは、それを感ずかれないように、少し頭を下げたのだった。
それから数分後、
「ただいまー」
そんな声が、玄関から聞こえてきた。
(あれ……今の声って)
「……帰ってきた」
千が呟いた直後、居間の襖が開かれた。
「千ちゃん、誰か来てるの? って、あら……」
両手に買い物袋を持った女性が、ハルを見て動きを止める。
長い髪を腰辺りで一つに結び、明らかにハル達より年上なのだが、未だに蓮華や千にも負けないほどの若さと美貌を保っている女性。
彼女こそが、この雲月荘の家主【東雲ミキ】だ。
「お久しぶりです。ミキさん」
「……もしかして……ハル君?」
「はい」
と、ハルが頷いた瞬間、ミキは買い物袋を落としてハルに駆け寄った。
「ハル君! 久しぶり~! 大きくなったわね~!」
「わっ、ぷ」
大きくはないが、形のいい胸にハルは抱かれた。
「私、ハル君が来るの、ず~っと待ってたんだから!」
「ん、ん~……っぷは。それは……はぁ、はぁ……嬉しいです」
自力で拘束から抜け出したハルが荒く息をしながら言うと、ミキは改めてハルの顔をじっくり見て、再度抱きしめた。
「んっ!? ん~!」
「ハル君の抱き心地も久しぶり~」
「……大家さん」
こんな状況を見ても無表情なままの千が、ミキの落とした買い物袋を机の上に置いた。
「あ、ごめんね、千ちゃん」
「気にしなくていい」
「んんっ……ん~、っぶは……はぁ、二回目は、流石に……死ぬ」
ミキの拘束から抜け出したハルが、二人の間で息を荒くしていた。
「……凄い仲いい」
「私とハル君は、将来を約束したから」
「て、適当なこと言わないで下さい。ミキさんには昔お世話になったんですよ」
「昔……」
呟き、千はほんの少し驚いたような目をミキに向けた。
「そ、私が『竜国』にいたときからの仲よ」
その言葉に驚いたのはハルだった。
「え? そ、そんな簡単に話していいんですか?」
「? 何が?」
「ミキさんが『竜』だ、ってことですよ」
「ん~……まぁ、ここに住んでる人にしか言ってないから、大丈夫よ」
「ほ、他の人にも言ってるんですね……」
竜が伝説の存在だったのは昔の話なんだな、とハルはしみじみ思った。
「……ハルも、大家さんと同じ?」
「え、あ、いえ。俺は普通の人間ですよ」
「……本当?」
「はい」
「…………」
ハルとミキの二人に目を向けて、千は首を傾げた。
珍しく、感情の起伏が動作として表れている。
「竜国にハル君がいたのが信じられないの?」
「…………」
千は黙ったまま頷いた。
竜は基本的に他の種族を毛嫌いしているというのが、この世の常識。
人間社会に溶け込んでいるミキなどは、例外中の例外だ、と千は思っている。
「その考え方って実は古いのよね。まぁ、ハル君は確かに特別だけどね」
「特別……」
「そ♪ 千ちゃんもいずれわかるわよ……ハル君の魅力に」
意味深にほほ笑み、ミキは立ち上がった。
「さ、ハルくんの歓迎会の準備をしましょ」
「俺の?」
「ええ。ハル君は座って待ってていいわよ。千ちゃん、手伝ってくれる?」
「……わかった」
千は、いずれわかるなら、とそれ以上考えるのを止め、ミキと一緒に、隣の台所に向かったのだった。