~第9話~
(これは……マズイ。非常にマズイ)
黒スーツの女性を見上げているハルは、相手と自分の力量の差に改めて驚愕していた。
(あのルークって人が、優しく見える)
もちろん、ハルはルークにもどう足掻いても勝てないが、目の前の女性はそれ以上の≪化け物≫だった。
(……とんでもないな)
思わず、苦笑してしまうハル。こんなことを感じたのは、怒った≪竜≫を前にした時以来であった。
隣にいる五月も、ハルと同じ様なことを思っているのだろう、顔から汗が噴き出している。
そうして、三人のにらみ合いがしばらく続いた。
誰も、動かない。
ハルと五月は、動けない。
「……さて」
唐突に、女性が呟き、二人は限界まで神経を研ぎ澄ました。
はずなのだが、
「がっ!」
気付いた時には、ハルの隣にいた五月が吹き飛ばされていた。
そして、その場には、拳を振りぬいた状態の女性が立っている。
「っ!?」
ハルの全身に緊張が走るのと同時に、女性と目が合った。
(来る!)
直後、女性の右腕がハルの顔面を襲った。
「くっ!」
その豪速とでも言うべき攻撃を、ギリギリで避けるハル。
顔の横を、突風が吹きぬけた。
(よく避けた、俺!)
そのまま、間を置かずに、ハルは右の拳をカウンターとして繰り出す。
すんなりとカウンターが出たのは、反射に似た行動だったのだろう。
しかし、今回はそれが災いした。
「甘い」
女性は、そっ、と左手をハルの右腕に添えて、簡単にその軌道を逸らせてみせた。
(っ!? 完全に見切られてる!)
お互いの腕が交差し、再度目が合い、女性が呟いた。
「確かに……良い目をしている」
「っ!?」
女性は交錯した右腕を曲げ、ハルの右腕を自分の腕と肩で固定した。
(やばい! 動きが!)
ハルは自由な左腕で女性の顔を狙った。
だが、やはり女性のほうが何枚も上手だった。
「腕に気を取られ過ぎだ」
単純な足払い。
「っ! が!」
それだけで、ハルは簡単に倒されてしまった。
(馬鹿か俺は!)
自分の注意力の散漫さを悔いるが、もう遅い。
背中から倒されたハルの顔に、女性の左拳が迫る。
(っ!)
ハルは、ありったけの氣を左腕に集め、女性の腕を寸での所で掴んだ。
女性の攻撃が余りにも速かったので、ハルの顔を中心に突風が発生した。
「ほお」
少し驚いたような声をあげる女性。まさか、止められるとは思わなかったのだろう。
(と、止められた)
ハル自身もこれには驚いていた。
この時、素人と言ってもいいハルがかなりの密度の氣を操れたのは、五月との闘いで≪空歩速≫が成功したことと、持ち前のバトルセンスがあったからだろうが、それだけだはない。
「火事場の馬鹿力、と言うやつか」
窮地に陥った者が、普段では考えられない力を発揮する。潜在能力、という奴である。
今の動きは、殆ど無意識的にその潜在能力を行使した結果だった。
だから、ハルも驚いている。
「…………」
自分の左腕と、女性の左腕を、ハルはじっと見た。この時のハルは、≪違う意味≫で驚き、困惑していた。
(今の……?)
「ぐっ!」
そんなハルを、女性は無造作に蹴飛ばした。
「さっきのは、中々の集中力だったぞ。天城ハル」
「はぁ、はぁ……俺の名前を……?」
「さっき、男の鬼とやり合っただろう」
ハルの頭にルークの顔が浮かんだ。
「それに、もう一人、お前の知り合いからな」
「……ミキさん、ですね」
「そうだ。昨日、ミキがお前のことを楽しそうに話すから、私も興味が出てきてな」
(……恨みますよ、ミキさん)
ため息をつくハル。しかし、その表情は、柔らかい。
「でも……そうですね……うん」
ハルは何かを納得し、頷いた。
「ミキさんの名前を聞いて、少し落ち着きました。やっぱり、今の俺にはあの人がいないと駄目みたいです」
自嘲気味に呟くハルだが、その雰囲気に恐怖や緊張は窺えない。
「落ち着いて……それで、どうするんだ?」
「変わりませんよ」
腕組みをしながら尋ねる女性に、ハルはほほ笑み、腰を少し落として答えた。
「やれるだけやる、です」
「……ふん……面白い」
女性は口を緩め、腕組みを解いた。
「【神埼玲奈】。私の名前だ。とことん付き合ってやる……来い」
「行きます……ふっ!」
ハルは脚に氣を溜め、一息で玲奈に近付き、右脚の蹴りを放つ。≪自分の意思≫で氣を操ったハルの速さは、今までとは段違いだった。
(やっぱり、あの感覚が氣の応用だったんだ)
空歩速を使った時と、ついさっき無意識に氣を操った時で、ハルは氣の使い方を理解していた。
(これだったら!)
防御された蹴りに続いて、左手に氣を溜め、玲奈の腹目掛けて振り抜く。
しかし、いくら氣の応用を理解したとは言え、それが付け焼刃である事に変わりなかった。
「遅い」
「っ!? がっ!」
ハルは玲奈の右拳を腹に受け、吹き飛ばされてしまう。
(明らかに、俺より出だしが遅かったのに!)
ハルは、一瞬前まで玲奈の右手が腰元にあったのを、確かに見ていた。しかし、ハルを遥かに上回る速さで、玲奈は拳を振り抜いていた。左肩の怪我を差し引いても、玲奈の速さには遠く及ばない。
着地し、口元を拭うハル。
(そもそも、根本的なレベルが違いすぎるんだから、やっぱり何か考えないと)
しかし、玲奈はルークのように、魔法を使う気配もないし、[桜舞]を使う隙も与えてくれない。
(桜舞は、大振りの攻撃と数の攻撃を避けるの専門だからな。だからと言って、逃げられるはずもないし……だったら)
ハルはゆっくりと息を整え、静かに、その場から≪消えた≫。
「ほお」
音も、気配も消して移動するハルに、玲奈が驚く。
(氣の応用が素人とは思えないな……さて、どうでるか)
一見、その場にいるのは玲奈だけに見える。だが、冷静に、息を殺して、ハルは攻撃の機会を窺っていた。
「…………」
そして、玲奈が右手を横に突き出したのと同時に、パァンと音が鳴った。
ハルの攻撃が防がれた音だ。
「く、そ!」
ハルが右腕を突き出しながら歯を噛み締める。
「ルーク先生とミキが、お前を天才と言った理由がわかったよ」
だが、玲奈は意外にもハルを褒めた。
「今の一瞬で数十もの攻撃パターンを『私に予測させた』。中々出来ることではない」
(やばっ!)
玲奈の左手が動いたのを見て、ハルがその場を跳び退こうとしたが、
「だが、まだまだ、だな」
「が、あぁ!」
その前に、玲奈の拳が五発叩きこまれた。
(ま、全く見えなかった)
身体がよろけ、意識も飛びそうな中、ハルは玲奈の右拳に力が溜められているのを見た。
(あれを……食らってたまるか!)
歯を食いしばり、腹から、肩から出血するのもお構いなしに、ハルは右手に全ての力を込める。
「あぁぁー!」
瞬間、ハルの右拳と玲奈の右拳が真っ向からぶつかった。
地面が陥没し、そこを中心に衝撃波が撒き散らされる。
「はぁ、はぁ」
「本当に……面白い奴だ」
今の玲奈の一撃は、かなり力を込めた、ハルでは絶対に耐えられない攻撃のはずだった。
しかし、ハルはその攻撃を真正面から迎え討ち、相殺した。
「……はぁ、はぁ」
息の荒いハル。もう限界をとうに超えているのだろうが、その目は未だに闘争心に燃えている。
「……いいだろう」
そこで、玲奈が口を開いた。
「お前の気概に敬意を表して、私の本気を見せてやる。ありがたく思え。こんな事をするのは、お前が初めてだ」
「?」
その言葉の意味をハルが理解した頃、彼は遥か上空にいた。
「……へ?」
思わず、間抜けな声が出てしまう。
目の前に広がるのは、大きな青空。地面に足がついていない。
理解出来ない状況の中、感じるのは、背中の激しい痛み。
(……もしかして……吹き飛ばされたのか、俺)
玲奈が、ハルの感知できるレベルを遥かに超えた速さと力で、ハルを上空に吹き飛ばした。そうとしか思えなかった。
(だとしたら……本当に……化け物……だな)
疲れやら、痛みやら、今の状況やらで、段々とハルの意識が朦朧としてきた時、玲奈の声が聞こえた。
「安心しろ。殺しはしない……精々、半殺しだ」
(全然安心できない。それにしても、本当に……世界は広い)
ハルが心中でそんな事を思った瞬間、ハルは上空から一瞬で地面に叩きつけられ、意識を失った。