第四話 蜜の誘い
数日後の夜。
圭介のスマホに、見覚えのある名前からメッセージが届いた。
《お仕事の件で少しご相談があります。社外の方が安心かと思いまして——》
送り主は、橘凛。
地図のピンは、都心の落ち着いたバーを示していた。
(……やっぱり、俺に気があるんだな)
都合のいい解釈に、口元が緩む。
鏡の前でネクタイを締め直し、圭介は軽い足取りで家を出た。
*
バーの中は、柔らかなジャズと琥珀色の照明。
カウンターの奥で、凛がグラスを指先で回していた。
黒のワンピースに身を包んだ彼女の横顔は、学生時代よりもずっと冷たく、美しい。
「いやぁ、綺麗になったよな」
圭介が笑いながら隣に腰を下ろすと、凛はわずかに目を細めた。
「お仕事の話をしましょうと言いましたよ」
「まぁまぁ、そんな真面目な顔すんなって。今夜は二人きりだろ?」
軽口を叩く圭介に、凛は小さく微笑んだ。
けれど、その笑みは氷のように薄い。
「……奥様は、お元気ですか?」
唐突な問いに、圭介の眉がわずかに動いた。
「元気? あいつはもう家政婦みたいなもんだ。
飯作って、ガキの面倒見て……それだけだ」
氷がグラスの中で静かに鳴る。
凛の目は笑っていたが、その奥には静かな炎のような光が揺れていた。
「……そうですか。では、理想の奥様像は?」
「そりゃあ……凛みたいな女だよ。
綺麗で、賢くて、俺を立ててくれる。あんなのと違ってな」
酔いが回り、言葉がだんだんと軽くなる。
凛はグラスを口元に運び、赤いルージュをわずかに残した。
「——正解、ですか」
その声は、柔らかいのに冷たかった。
圭介はその意味に気づかないまま、さらに身を寄せる。
「なぁ凛……今夜はこのあと、どうだ?」
返事はなかった。
ただ、凛の目の奥で小さな光が弾けた。
——それが、静かに開かれた“罠の扉”だった。




