第三話 再会の灯
夜更け。
翔を寝かしつけたあと、私はリビングのソファに沈み込んでいた。
静かな部屋で、スマホの白い光だけが私を照らす。
「……離婚 手続き 方法」
震える指で文字を打ち込む。
検索結果には、見たくない言葉が並んだ。
《慰謝料》《親権》《浮気の証拠》
どれも胸を抉るようで、息が詰まる。
スクロールを繰り返すうち、ふと広告が目に留まった。
《初回相談無料/女性のための法律サポート》
ただの広告のはずなのに、なぜか胸に引っかかった。
「……ここなら」
自分に言い聞かせるように、送信ボタンを押す。
その瞬間、ほんの少し胸の重さが和らいだ気がした。
*
数日後。
緊張で喉を乾かしながら、私は法律事務所のドアを押した。
落ち着いた木目調のロビー。控えめなアロマの香り。
どこか懐かしい匂いだった。
「ご予約の中村様ですね。担当の者がお迎えにあがります」
受付の女性にうなずいたその時、奥のドアが開く。
「……優香先輩?」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねた。
黒髪をすっきりと結い上げ、スーツ姿で立っていたのは、
学生時代に忘れられなかった後輩――橘凛だった。
「……凛ちゃん?」
「やっぱり、優香先輩ですよね」
凛が弾けるように笑う。
「まさか、こんな形で再会するなんて」
胸の奥に懐かしさと安堵が広がる。
弱さを打ち明けられるかもしれない。
そんな期待が、静かに灯った。
*
相談室の静けさの中、私の声だけが落ちていた。
「それでね……本題なんだけど」
震える指でハンカチを握りしめ、胸に溜めたものを吐き出す。
圭介の浮気、冷たい態度、翔への無関心。
「……証拠なんて、何もない。ただ、一度だけスマホを覗いただけで……」
言葉が詰まる。
凛は静かに頷き、手元のノートに書き込んだ。
「大丈夫です。証拠はこれからでも集められます。
LINEの履歴やレシート、外泊の記録……そうしたもので十分です。
親権についても、翔くんと暮らしている優香先輩が有利です」
私は苦笑し、俯いた。
「……まさか、凛にこんな夫婦の恥を相談するなんて。正直、恥ずかしいわ」
「何を言ってるんですか。私は弁護士として聞いてます」
凛は微笑んで続けた。
「……それに、後輩としても先輩を守りたいんです」
胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……これから先、不安でしかないの」
弱々しい声に、凛はまっすぐ答える。
「できます。法律的にも、心の上でも。
あとは、優香先輩がどう生きたいかを決めるだけです」
冷たい絶望しかなかった胸に、
かすかな光が差した気がした。
*
「もうこんな時間……翔のお迎えに行かないと」
時計の針は五時を少し過ぎていた。
「保育園ですか?」
「ええ。すぐに行かないと」
「じゃあ、私も一緒に行っていいですか?」
「え?」
「先輩の息子さんに会いたいんです。
帰りに三人でご飯でも行きましょう。子ども用メニューのある店、知ってます」
突然の提案に戸惑いながらも、
“誰かと夕食を囲める”という響きに、思わず頷いていた。
*
保育園の門をくぐると、翔が駆け寄ってくる。
「ママ!」
小さな手の温もりに、心が溶けていく。
「翔くん、はじめまして。凛です」
凛はしゃがみ込み、柔らかく微笑んだ。
「今日はママとご飯、行こうか」
翔は少し恥ずかしそうに頷き、私のスカートに隠れる。
その姿に、私は思わず笑った。
——こんな穏やかなやり取り、久しぶりだ。
*
駅近くのファミリーレストラン。
温かな照明の中、翔の顔がぱっと明るくなる。
「ハンバーグ!これにする!」
「先輩、さっきより表情が柔らかいです」
「……そうかしら」
「ええ。翔くんといるときの先輩、すごく素敵です」
恥ずかしくて視線を逸らす。
その横顔を見つめる凛の瞳には、
優しさと、ほんのわずかな光の濃さが宿っていた。
*
店を出る頃には、夕暮れが街を染めていた。
翔は眠たそうに私の手を強く握る。
「今日はありがとうございました」
「礼なんていりません。これからも一緒に考えていきましょう」
——もう一人じゃない。
そう思えるだけで、足取りが少し軽くなった。
*
家に戻ると、リビングは暗く静かだった。
テーブルの上には、朝片づけ忘れた食器が残っている。
圭介はまだ帰っていない。
翔を布団に寝かせ、その寝顔を見つめながら、胸の奥で誓う。
「……また、相談しよう」
自分の弱さをさらけ出せる場所がある。
それだけで、崩れそうな心に支えが生まれた。
けれどその支えは、
透明な糸に静かに絡め取られていく。
その糸の先が、どこへ結ばれているのかも知らないまま――。