第四話 小さな違和感
夜のリビング。
書類の山を閉じ、凛は静かに立ち上がった。
「少し出てきます。今日も戻りは遅くなるかもしれません」
声はいつも通り穏やかだった。
だが、その言葉に優香の胸がわずかにざわつく。
「こんな時間に……本当に、お仕事お疲れさまです」
口ではそう言いながらも、胸の奥で別の言葉が渦を巻いていた。
——また、夜に。
——どこへ行くんだろう。
「ええ。なるべく早く帰りますね」
そう言って、凛は柔らかく微笑んだ。
けれど、その笑顔が少しだけ遠く見えた。
ドアが閉まる音。
静けさが部屋を包み込む。
(……なにか、大事な案件でも抱えてるのかな)
(もしそうなら、私、何かできること……)
そう思うたびに、心の奥で小さな棘がひっかかる。
「信じているのに、なぜ不安になるんだろう」
言葉にならない違和感だけが、部屋の中に残った。
*
その週末。
青空の下、翔は凛と砂場で夢中になって遊んでいた。
小さなバケツに水を汲み、凛が砂山を固める。翔は笑い声をあげる。
優香はベンチからその光景を見つめていた。
平和で、あたたかくて、何もかもが“理想的な日常”のように見えた。
——なのに、胸の奥が少し冷たい。
「……凛ちゃん」
思わず呼びかける。
けれど、言葉が続かない。
(どこに行ってるの? 誰と? ……どうして言えないの?)
「砂、固まってきましたね」
凛が笑いながら顔を上げる。
その笑顔は、何も変わらない。
だからこそ、言えなかった。
その完璧さが、少しだけ怖かった。
*
遠くで子どもたちの笑い声が響く。
けれど優香の胸の奥では——
“小さな違和感”が、確かに息をしていた。




