第三話 残る香り
午後の光が、カフェの窓を優しく照らしていた。
カップを拭く手元に、やわらかな木漏れ日が差し込む。
優香は深く息をつき、微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
新しい職場にも、少しずつ慣れてきた。
ここで働くようになってから、日々のリズムが戻りつつある。
朝は翔を送り出し、夜は凛と三人で食卓を囲む。
そんな“普通の暮らし”が、ようやく心を癒していた。
——穏やかな午後。
「すみません。おかわり、お願いできますか?」
低く落ち着いた声に、優香は顔を上げた。
「はい、かしこま……」
その言葉の途中で、息が止まる。
見覚えのある顔。
冷静な目元、柔らかな声。
「……石田先生?」
男性が微かに笑う。
「覚えていてくださって光栄です。橘の同期で……石田です」
その名前を聞いた瞬間、心の奥がざらりと波立った。
「……あの時の」
「ええ。離婚調停のとき、お会いしましたね」
喉が少し乾く。
圭介の隣で、冷静に書類をめくっていた男——。
つまり、“相手側”だった人。
「まさか、こんなところで……」
「偶然です。近くで打ち合わせがあって。落ち着いたお店ですね」
石田は穏やかに笑いながらカップを受け取る。
優香は、笑顔を作りながらも、胸の奥の緊張を隠せなかった。
「その……、あの時は……お世話になりました」
「いえ。お互い、仕事でしたから」
そう言って笑う石田の声は、思ったよりも柔らかかった。
*
しばらくして、客足が落ち着く。
石田はカップを傾け、窓の外に視線をやりながら口を開いた。
「橘さん、元気にしてますか?」
「ええ……とても。毎日忙しそうで」
「そうでしょうね。あの人、昔から“抱え込む”タイプですから」
「抱え込む……?」
「依頼人の痛みを、そのまま自分の中に入れてしまうんです。
それが橘の強さでもあり、危うさでもある」
その言葉に、優香の胸が小さくざわめいた。
昨夜、静かにドアを閉めて出て行った凛の背中が脳裏に浮かぶ。
夜の街に溶けるその姿は、どこか、孤独だった。
「……橘さんが、私のことを話していたんですか?」
石田は軽く笑い、頷いた。
「ええ。“あの人を守りたい”と。
——あの橘が、そんな言葉を使うのは珍しいですよ」
優香はカウンター越しに俯いた。
“守られている”はずなのに、なぜか胸が苦しくなる。
「彼女にとって、あなたはただの依頼人じゃない。
そう感じました。……まるで、何かを取り戻すように話していた」
「取り戻す……?」
「ええ。彼女自身も、誰かを守ることで救われたいのかもしれません」
静かな沈黙が流れる。
カップの中のコーヒーが、冷めていく音が聞こえる気がした。
石田は立ち上がりながら、やわらかく微笑む。
「……橘さんのこと、見ていてあげてください。
彼女、自分を追い詰めるまで頑張ってしまう人ですから」
「……はい」
会計を済ませ、石田は軽く頭を下げて出て行った。
扉のベルが鳴る。
午後の光が傾き、テーブルの上に影が落ちる。
残されたカップの香りが、少しだけ苦く感じた。
*
ふと、視線を上げる。
窓の外——人の流れの中に、ひとつだけ止まった影。
黒いコート。
風に揺れる髪。
——橘、凛。
優香の胸が一瞬強く脈打つ。
その姿は、通りの向こうでじっとこちらを見ていた。
けれど、次の瞬間には人波に紛れ、姿を消す。
(……気のせいよね)
小さく息を吐き、目を逸らした。
けれど胸の奥には、ざらついた違和感が残る。
まるで、ガラス越しに“見られていた”ような。
——その頃。
道の角。
凛は立ち止まり、スマホの画面をゆっくりと撫でていた。
画面には、さっきのカフェの写真。
店の外から撮られた、優香の横顔と、向かいに座る石田の姿。
「……邪魔だ」
呟きは風に溶けて消える。
けれど、その瞳には、静かな炎が確かに灯っていた。
——守るという名の愛が、
ゆっくりと、狂気へと変わりはじめていた。




