第二話 夜の輪郭
食器が触れ合う音が、静かな部屋に小さく響いていた。
翔はすでに寝室で眠り、子どもの寝息が壁越しに微かに聞こえる。
優香はシンクの前で、泡の浮いた皿をひとつずつ洗っていた。
指先にぬるま湯の温度が残る。
その穏やかさが、少しずつ胸を落ち着かせていく。
そのとき——。
「優香さん、少し出てきますね。」
背後から、凛の声がした。
振り向くと、彼女は黒いコートの襟を軽く整えていた。
「こんな時間に?」
思わず問い返す。時計はもう二十二時を回っている。
「少し、用事があって。……大丈夫です、すぐ戻ります。」
凛は微笑み、玄関に向かう。
その横顔は穏やかだけれど、どこか遠い。
「……気をつけて。」
自分でも理由がわからない言葉が、思わず漏れた。
凛は短く頷き、「おやすみなさい」とだけ残して出ていった。
*
静まり返った部屋。
時計の針がゆっくりと進む音だけが、リビングを満たしていた。
優香はふと、落ち着かない気持ちを抱えたまま窓際に立つ。
カーテンの隙間から、下の駐車場が見える。
街灯に照らされた歩道を、凛の姿が横切っていくのが見えた。
黒いコート、整った姿勢。
けれどその足取りは、いつもより速い。
(……どこに行くんだろう)
胸の奥に、説明できないざらつきが残る。
彼女は弁護士として忙しい。夜の呼び出しなんて、珍しいことじゃない——
そう言い聞かせても、違和感は消えなかった。
ガラスに映る自分の顔を見て、優香は小さく息をつく。
「考えすぎだよね……」
そう呟いてカーテンを閉める。
けれど、その手の震えを、優香自身も気づいていなかった。
*
その夜。
凛は暗い車内で携帯を耳に当てていた。
「——確認しました。対象はまだ動いていません。」
電話の向こうの声が、低く短く返す。
凛はハンドルを握る手に力を込めた。
「……彼女たちに近づいたら、すぐに知らせてください。」
「了解。」
通話を切ると、凛は静かに息を吐いた。
信号の赤が車内を照らし、彼女の横顔に影を落とす。
——守るために動いているはずなのに、
その輪郭は、もう正義のそれではなかった。
*
同じ頃。
マンションの寝室で、優香は目を閉じながら、ふと夢と現実の境目で思った。
凛の笑顔はあんなにも優しいのに、
ときどき、どこか遠くの世界にいるような気がする——と。
夜は静かに更けていく。
その静寂の奥で、二人の間の“距離”がほんの少しだけずれていった。




