第六話 静かな破音
夜のタワーマンション。
壁一枚の向こうには都会のざわめきがあるはずなのに、
部屋の中は異様なほど静まり返っていた。
キッチンでは食器が整然と並び、
ソファの上では翔の毛布が小さく盛り上がっている。
その中から、かすかな寝息が聞こえた。
「……お風呂、入ってきますね」
優香がタオルを手に、静かに言う。
凛は頷き、彼女の背が洗面所に消えるのを見送った。
時計の針の音。
冷蔵庫の低い唸り。
そのすべてが、やけに遠くで鳴っているように感じた。
——ピンポーン。
一度。
間を置いて、もう一度。
静寂を裂くようなチャイムの音。
凛は一瞬、息を止めた。視線が玄関へと向かう。
足音を殺して近づき、覗き穴を覗く。
そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「……圭介」
髪は乱れ、シャツは皺だらけ。
酒の匂いと焦りが、ドア越しに伝わってくる。
だが何よりも異様だったのは、その目。
まるで何かを失い切った者だけが持つ、濁った光。
「やっぱり、お前か……橘凛」
低い声がドアを震わせた。
「俺の家族を壊して、楽しいか?」
凛はドアチェーンをかけたまま、氷のように冷たい声で答えた。
「ここはあなたの来る場所ではありません」
「シラを切るな!」
圭介の拳が扉に叩きつけられる。
「優香を唆して、俺から奪ったんだろ!」
「やめて!」
浴室の方から優香の声が響いた。
濡れた髪のまま駆け寄り、怯えた目で玄関を見つめる。
圭介はその姿を見て、一瞬だけ息を止めた。
「優香……戻ってこい」
優香の手が震える。
それでも、はっきりと答えた。
「……戻らない」
沈黙。
その一言に、廊下の空気が凍りつく。
「そうか……もう俺のもんじゃねぇんだな」
歪んだ笑いとともに、圭介の目に狂気が滲んだ。
拳が壁を叩き、鈍い音が響く。
凛が一歩前に出る。
優香を背に庇い、低く言い放った。
「これ以上、近づいたら——警察を呼びます」
圭介は荒い呼吸を繰り返しながら、ドア越しに二人を睨みつける。
やがて、かすれた声を落とした。
「……後悔するなよ」
重い足音が遠ざかっていく。エレベーターのドアが閉まる音が、
異様に長く響いた。
静寂。
優香はその場に崩れ落ち、肩を震わせた。
凛はすぐに膝をつき、彼女を抱き寄せる。
「大丈夫。私がいます」
その声は柔らかく、けれど硬い。
慰めと支配のあいだの、危うい温度。
優香は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……怖かった」
凛はその頬を撫で、目を伏せた。
「もう怖がらなくていい。ここは、私たちの場所です」
——その言葉は優しすぎて、
どこか逃げ場を失わせる響きを持っていた。
外の街ではまだ車のライトが流れていた。
しかしその光は、もう届かない高さに彼女たちはいた。
ガラスに映る二人の影は、ゆっくりとひとつに重なっていく。
——静かな破音。
それは、愛が“境界”を失った音だった。




