第四話 静かな侵入
トーストの焼ける匂いが、静かな部屋に広がっていた。
テーブルの上では、翔がケチャップで描いた卵のスマイルを見せびらかしている。
「ママ見て! にっこり顔だよ!」
「ほんとだ、上手にできたね」
その笑顔に、優香も自然と笑った。
キッチンのカウンターからその様子を見ていた凛の口元にも、かすかな微笑が浮かぶ。
「朝から元気ですね、翔くん」
「昨日いっぱい遊んだから、まだテンションが高いのよ」
優香の声には、安心と少しの照れが混じっていた。
凛はその横顔を見つめる。
久しぶりに見た“生きている表情”だった。
(……この穏やかさを、誰にも壊させたくない)
*
買い物の帰り道。
翔は新しい靴の音を響かせながら先を歩き、優香が笑いながら追いかけていた。
「翔、そんなに走ったら転ぶわよ!」
「だいじょーぶ!」
二人のやり取りを後ろから眺めながら、凛はほんの一瞬だけ微笑む。
まるで、ずっと昔からこの並びで歩いていたように自然だった。
「なんだか、普通の家族みたいね」
優香が振り向いて言う。
「“普通”って、案外難しいものですよ」
凛の声は穏やかだったが、その奥には小さな寂しさが潜んでいた。
一瞬、風が通り抜ける。
三人の影が歩道に並び、ゆっくりと伸びていった。
*
食卓の上には、湯気の立つカレー。
翔はスプーンを握ったまま、眠気と戦っている。
「……眠そうね」
優香が笑った瞬間、翔の頭がコトンと落ちた。
「もう限界みたいですね」
凛が立ち上がり、そっと抱き上げる。
小さな体が肩にすっぽりと収まり、自然と手が背を撫でていた。
シーツを掛け、髪をなでると、翔の寝息が穏やかに整っていく。
その寝顔を見つめる優香の瞳に、じんわりとした熱が宿る。
「……ありがとう。翔、ここに来てから笑うことが増えたの」
凛は短く頷き、優香をまっすぐ見つめた。
「それは、優香さんが隣にいるからですよ」
その言葉の響きが胸に残る。
言葉にできない何かが、二人のあいだに静かに満ちていた。
——ピンポーン。
突然のチャイムに、空気が一瞬で凍る。
「……宅配?」
優香は立ち上がり、覗き穴を覗いた。
しかし、廊下には誰の姿もなかった。
足元に、一通の白い封筒が落ちていた。
拾い上げ、封を切る。
中には一枚の紙。印字された言葉が、蛍光灯の光に浮かぶ。
《居心地はどう? “仮の家族”さん》
下には、タワーマンションの外観写真。
高層階の一角に、赤い丸印が付けられている。
「……っ」
優香の顔から血の気が引いていく。
「……圭介? 見張ってるの……?」
凛は封筒をすぐに取り上げ、冷静に確認した。
「中に戻りましょう」
扉を閉め、鍵を二重にかける。
リビングの明かりだけが、夜を遮っていた。
「大丈夫です。すぐに管理会社へ連絡します」
凛の声は落ち着いていたが、その瞳は冷たい光を宿している。
「……ごめんなさい、私、怖くて……」
「怖くていいんです。守られる側は、それでいい」
彼女は優香の手を包み込み、低く囁いた。
「ここでは、もう誰にも触れさせません」
*
外の街は、いつも通りに光っていた。
だけど、その光は少しだけ沈んで見えた。
——幸福の灯は、静かに沈み始めていた。




