第三話 触れない距離
翔は小さな寝息を立て、優香もベッドの上で静かに眠っていた。
その寝顔は穏やかで、まるで長い冬をようやく越えた人のようだった。
凛は手にしたワイングラスを置き、寝室の前で立ち止まる。
扉の向こうから、かすかに優香の呼吸が聞こえる。
その音が、ひどく愛おしかった。
——この人が、ようやく眠れるようになった。
そっとドアを押し開ける。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、白いシーツを淡く照らした。
光に包まれた優香の横顔が、どこまでも静かで、綺麗だった。
凛はゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍らに腰を下ろした。
指先が震える。
“守りたい”だけだったはずの気持ちは、
いつの間にか形を変えていた。
——誰にも、この人を渡したくない。
胸の奥で理性と衝動がせめぎ合う。
伸ばした手が、優香の頬に触れそうになる。
柔らかく波打つ息。
わずかに動く唇。
その一瞬の仕草が、凛の心を揺らした。
唇を寄せ——
けれど、寸前で止まる。
「……だめ」
息のような声が零れ、凛は目を閉じた。
震える手を引き、深く息を吐く。
「これは、守るため」
誰に言うでもなく呟き、そっと立ち上がる。
もう一度だけ優香を見つめた。
眠るその顔は、何の疑いもなく、ただ穏やかだった。
それが、痛いほどに眩しかった。
凛は静かにシーツの端を直し、部屋を出た。
*
リビングに戻ると、スマホが震えた。
テーブルの上で淡く光る画面。
そこに浮かぶ、非通知の文字。
《あんたが動いてるのか? 俺を潰そうとしてるのはお前だろ》
圭介——。
その名を心の中で呟く。
ワインの赤よりも冷たいものが、胸の奥で静かに広がっていく。
凛は何も言わず、画面を閉じた。
グラスを手に取り、残りのワインを一気に飲み干す。
窓の外では、雨が上がり、街の灯が滲んでいた。
その光のひとつひとつが、まるで過去の残像のように見える。
「……あなたが壊したものは、もう戻らない」
声は小さく、けれど確かだった。
グラスの底に残る赤が、月の光を受けて揺れる。
それはもはやワインではなかった。
愛と執着と誓いが溶けた——ひとつの色。
凛は静かに笑った。
その微笑みは、悲しみでも怒りでもなく、決意そのものだった。
——触れない距離のままで、守り続ける。
——誰にも、この穏やかな夜を壊させはしない。
夜の奥で、嵐がゆっくりと息を潜めていた。




