第二話 揺朝
「わぁ! 空が近い! 雲が見えるよ!」
翔は窓辺に駆け寄り、両手をガラスに広げて外をのぞき込んだ。
高層階から見下ろす街は、まだ朝靄に包まれていて、ビル群の間を縫うように川が光っている。
「もう!翔、走らないの」
優香は小走りに追いかけ、苦笑しながら肩に手を添えた。
「ほんとに……昨日からお世話になりっぱなしで、ごめんね」
「謝らないで。私も賑やかな朝は久しぶりだから」
凛がテーブルにカップを置き、目元を和ませる。
その言葉に、優香の胸の奥で緊張がほどけるのを感じた。
*
朝食は、凛が手際よく作ったオムレツとサラダ。
バターの香りがふわりと広がり、翔は夢中でフォークを動かした。
「おいしい! これ、毎日食べたい!」
「そっか、じゃあ特別メニューにしようか」
凛は軽く笑い、皿を回す。
その自然な仕草に、優香はふっと目を細めた。
食卓の上で一瞬、二人の手が触れ合う。
優香は慌てて引っ込め、頬を赤く染める。
「ごめん……」
「謝ることじゃない」
凛は声を和らげるが、その瞳の奥には昨夜の記憶が残っていた。
——寝室へと支えながら導いたとき、触れてしまいそうになった柔らかな唇。
一呼吸の間、視線が交錯した。
だが凛は静かに話題を変える。
「今日は買い物に出ましょう。翔くんの服や日用品、揃えなきゃ」
「うん……ありがとう」
優香は小さく笑い、気持ちを整えるように紅茶を口にした。
*
昼下がり。駅前のショッピングモールは賑わい、人波のざわめきに音楽が重なっていた。
「見て! 恐竜のシャツ!」
翔が子ども服売り場のラックにぶら下がるようにして声を上げる。
「サイズは……116かな。ほら、試着してみよ」
凛はタグを確かめ、翔を鏡の前に立たせて肩幅を合わせる。動きが妙に慣れていて、優香は笑った。
「凛ちゃん、なんか子ども扱い上手すぎ」
「数字合わせより簡単よ」
軽い冗談に、優香の笑みが深まった。
試着室から元気に飛び出す翔。
「どう? 似合う?」
優香が拍手をすると、翔は誇らしげにポーズを決めた。
「保育園用はこのシンプルな方にして、公園ではこっちの恐竜柄を」
凛が並べると、翔は迷わず恐竜を指さした。
「公園行ったら絶対泥だらけにするね」
優香が苦笑する横で、凛は「それが子どもだから」と柔らかく答えた。
*
靴売り場。足型測定器に乗った翔がくすぐったそうに笑う。
「20.0センチ……成長早いな」
凛が呟き、メモを取るふりをする。
「そんなに大きいんだ……」
「走るのが好きな足してる」
彼女は片方に運動靴、片方に上履きを並べ、翔に試させた。
「どっちもほしい!」
翔は目を輝かせ、二人の笑いを誘った。
*
雑貨屋では、タオルや歯ブラシ、寝具を選んだ。
色で迷う優香に、凛が落ち着いたベージュを手に取る。
「長く使えるし、目にも優しい」
「……最近ずっと疲れてたのかも」
思わず零れた本音に、凛は静かに頷いた。
「だからこそ、休める場所を作らないと」
タオルの柔らかさよりも、その言葉の方が優香の胸に沁みた。
*
帰りの電車。翔は新しいリュックを抱えたまま眠りに落ちた。
優香はその寝顔を見つめながら、そっと呟く。
「なんだか……家族みたい」
言ってから顔を赤らめ、慌てて視線を逸らす。
だが凛は少し驚いた後、ふわりと微笑んだ。
「そうですね、今日は、私もそう思った」
電車の窓に映る二人の横顔。
揺れる車内の静けさは、どこか心地よく続いていた。
*
夜。マンションに戻ると、翔はベッドに倒れ込むように眠った。
荷物を整理しながら、優香は歯ブラシスタンドに新しい三本を並べた。
「……ほんとに、家族みたいだ」
思わず零れた言葉に、胸の奥が熱くなる。
リビングの奥から、凛が静かに声をかけた。
「お茶にする? それとも、昨日みたいにワインにする?」
「……少しだけ、ワインを」
グラスが触れ合い、カランと涼しい音を立てた。
その夜景の向こうにある未来はまだ形を持たない。
けれど、三人で過ごす暮らしの輪郭は、少しずつ確かに描かれ始めていた。