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壊れた春に芽吹く、しずかな愛  作者: 婀娜
第三章 揺れる距離
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第一話 揺心

「わぁ! 高い! すごい!」

玄関を抜けると、翔は靴も脱ぎきらないうちにリビングへ駆け込んでいった。

窓一面に広がる夜景を前に、彼は小さな体を思い切り伸ばして指さす。

「見てママ! 車がちっちゃい! 星みたい!」

床から天井まで届くガラスの外には、都会の光の海。

無数の赤や白のテールランプが流れ、遠くには高層ビル群の青い光が瞬いている。

タワーマンション特有の静けさが、かえってその光を鮮やかに見せていた。

「翔、走らないの」

優香は慌てて声をかけた。だが、頬には自然と笑みが浮かぶ。

——こんなふうに無邪気にはしゃぐ顔を、どれほど見ていなかっただろう。

胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えながら、彼女は靴を揃えた。

「夕飯、もうすぐできますよ」

キッチンから凛が顔を出した。

白いエプロン姿の彼女は、手際よくパスタの麺を茹でながら、横でオリーブオイルを熱している。

香ばしいガーリックの匂いが広がり、食欲をそそった。

やがてテーブルに並んだのは、彩り豊かなサラダと湯気を立てるパスタ。

薄くスライスしたバゲットにはハーブバターが塗られ、ローズマリーの香りが漂っていた。

「すごい……まるでレストランみたい」

優香は思わず声を漏らす。

翔はスプーンを大きく握りしめ、目を輝かせた。

「いただきますっ!」

三人で囲む食卓。

パスタを頬張る翔のほっぺたが膨らみ、その姿に優香は自然と肩の力を抜いた。

「……なんだか夢みたい」

ぽつりと呟いた言葉に、凛は静かに微笑んだ。

食後、翔はすぐに眠気に襲われ、ソファに転がるように寝息を立てた。

ブランケットを掛ける優香の横顔は、どこか安堵と寂しさが入り混じっていた。

「今日は色々ありましたからね」

凛がそっとグラスに赤ワインを注ぎ、優香へ手渡す。

「ほんの少しだけでも。お疲れさまの乾杯を」

二人きりのリビング。

大きな窓の向こうで夜景が揺れ、グラスの中でルビー色の液体が光を映す。

「学生の頃、よく語り合いましたよね。将来のこととか……」

凛の言葉に、優香の胸に懐かしい記憶が蘇る。

教室の片隅で笑い合った放課後。互いに夢を語り、未来を信じて疑わなかったあの頃。

「……私、あの時の夢なんて、全部忘れてしまった」

優香が小さく笑うと、凛は真剣な眼差しを向けた。

「忘れてもいいんです。ここから、もう一度描けば」

赤ワインの温かさと、彼女の声の柔らかさに包まれ、優香はゆっくりと目を伏せた。

——そして、テーブルに突っ伏すようにして、そのまま眠りに落ちていった。

「……優香さん?」

凛はそっと呼びかける。返事はない。

眠りに落ちた横顔は、穏やかで、無防備だった。

凛は椅子を立ち、優香の肩に手を回す。

「失礼しますね」

そっと支えながら、彼女を寝室へと導いた。

ベッドに横たえ、髪を撫でる。

その柔らかさに、胸が苦しくなるほど鼓動が跳ねる。

指先は無意識に唇の輪郭をなぞり、触れかけた唇に凛は息を止めた。

——キスを落としかけて、寸前で止まる。

「……あなたが眠る顔さえ、私には宝物なんです」

囁きは愛に震え、同時に狂気の影を帯びていた。

触れたい衝動と、守りたい衝動が入り混じり、凛の瞳には熱と影が揺れていた。

静かな寝室に、優香の寝息と凛の荒い呼吸だけが溶けていく。


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