6話 大ちゃんの、そばにいたくて
「大ちゃんの、そばにいたくて……」
か細い声と共に、リリアが一歩、部屋に足を踏み入れた。
ワシの頭の中では、けたたましく警報が鳴り響いとった。
(あかんあかんあかん! 何がどないなっとんねん! これは完全にアウトなやつや!)
月明かりに照らされた、薄い寝間着姿。
潤んだ瞳に、上気した頬。
52年間、真面目に生きてきたおっさんの理性が、ギシギシと音を立てて悲鳴を上げとる。
一瞬、ほんの一瞬だけ、「これも異世界ならではの役得か…?」なんていう、しょうもない悪魔の囁きが、脳裏をよぎった。
しかし、ワシを信頼しきったリリアのあまりにも純粋な瞳が、その邪な心を打ち砕いた。
(アホか、ワシは。この子、ワシを信じとるんやないか。こんなええ子を、ワシの邪な心で汚してええわけないやろがい!)
脳裏に、スマホの待ち受け画面にしている妻と娘の笑顔が、パッとフラッシュバックした。
あいつらの顔に、泥は塗れん。
ワシは覚悟を決めた。
ベッドから上着をひっつかむと、リリアの華奢な肩に、そっと掛けてやった。
「リリア、アカン。こないな時間に、男の部屋に来るもんやない。風邪引くで」
ワシは、父親が娘に言い聞かせるように、優しく、しかし毅然とした口調で続けた。
「ええか、よう聞きや。お前はな、ワシにとっては娘みたいなもんや。娘が道ぃ踏み外しそうになったら、アカンもんはアカンと言うてやるのが、親父の役目やろ?」
リリアは、ワシの真剣な目を見て、戸惑ったように瞳を揺らしとる。
ワシは、彼女の目をまっすぐに見て、一番大事なことを告げた。
「それに、ワシにはな……海の向こうに、大事な嫁はんと、お前みたいに可愛い娘がおるんや。そいつらを裏切るようなマネは、ワシにはでけん。……すまんな」
ワシの言葉に、リリアは自分の行動の浅はかさを悟ったんやろう。
ぽろぽろと、大粒の涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい……私……」
そう言うと、リリアは部屋を飛び出していった。
ワシは一人、残された部屋で、ベッドにどさりと倒れ込み、天井を見つめて、深いため息をついた。
翌朝、宿屋の食堂は、気まずい空気で満ちていた。
テーブルを挟んで向かい合うワシとリリアは、お互いに視線を合わせられんまま、カチャカチャと食器の音だけを響かせとった。
「……昨日のことは、まあ、気にするなや」
ワシは、ぎこちなく口火を切った。
「リリアが悪いわけやない。ワシが…その…おっさんやのに、紛らわしい態度とったんがアカンかったんや」
ワシがしどろもどろにそう言うと、それまで俯いていたリリアが、バッと顔を上げた。
その瞳には、もう迷いの色も、涙の跡もなかった。
「私、決めました!」
凛とした、芯の通った声が、食堂に響いた。
ワシは彼女のあまりの気迫に、「お、おう…?」と戸惑う。
リリアはテーブルの上で、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
「昨夜、大ちゃんに言われて分かりました。私は、自分のことを大事にしないといけない。そして……もう、大ちゃんに守ってもらうばかりじゃ、嫌なんです! 私、なんとか大ちゃんのためになりたいと思って、役に立ちたいと思って、昨夜はあんなことを……。でも、大ちゃんが私とそういう関係になれないというなら、私もほかの方法で役に立ちたい……!」
「お、おう……」
この子、ほんまにわかってるんやろうか?
「私、大ちゃんの隣に立って、その背中を守れるくらい、強くなりたいんです! そうすれば、役に立てば、もっと一緒にいれると思うから……!」
その言葉は、彼女なりの、昨夜の返事やったんかもしれん。
恋愛感情だけやない、もっと深い、仲間としての尊敬と覚悟が、その瞳には宿っていた。
「せやかて、強くなるて……どないすんねん」
「このグランツの冒険者ギルドに登録します!」
リリアは力強く宣言した。
「回復魔法だけじゃない、攻撃魔法の腕も磨いて、クエストをこなして経験を積んで……必ず、大ちゃんの役に立つ『仲間』になってみせます!」
ワシは、彼女の真剣な眼差しから、その覚悟が本物であることを、ひしひしと感じた。
危ないことはやめとけ、と言いかけた言葉を、ぐっと飲み込む。
この子の覚悟を、ワシが止める権利はない。
「……分かった。お前の覚悟、よう分かったわ。そこまで言うんやったら、ワシも腹括らなアカンな」
ワシはニヤリと笑うた。
「よし! ほな、行こか! 冒険者ギルドっちゅうところに! リリア一人をそんな物騒な場所にやるわけにはいかんからな。ワシも一緒に登録したるわ!」
ワシらは朝食を済ませると、まっすぐに宿を出た。
目指すは、町の中心にあるという、ひときわ大きな建物――冒険者ギルド。
酒と汗と、鉄の匂いが混じったような、荒々しい活気が、建物の外まで漏れ出してきとる。
ワシらは、ギルドの巨大な観音開きの扉を見上げた。
「さて、どんな化け物が出てくるやらな」
ワシは不敵に笑うた。
「面白くなってきたやないか」