離任
「サクライ君、次の案件は決まっているの?」
「いえ、まだ決めてないです。しばらく休もうかなと思っています。」
「そっか、俺たちフリーは休める時に休まないとね。」
今年で50歳になるというフリーランスのセキタとたわいもない会話を交わす。長い髪を一つに結んでポニーテールにしているセキタは笑顔を絶やさないが、目は笑っていない。無遠慮に本心を覗き込むようなセキタのその目を見て確信していることがあった。セキタの様な他人の目を気にして、目端を利かせるような人間に本心を話すのはリスクでしかない。
ノザキ課長が席を外している間、セキタは時折本音の様に契約先のシステム会社に毒を吐く。小さな毒を吐き、オレに同調を要求する。セキタが求めているものは同調したオレがシステム会社に毒を吐くことだ。だから務めて相槌を打つことだけに徹底した。他の5人は同じ下請け会社から来ている。全員が聞き耳を立てる。
「聞いた?田町の拠点のシステム移行の話。失敗してリトライなんだって。やっぱりこないだ打合せした時からダメそうだなと思ってたんだよな。よくわかってないやつが説明してたじゃん?大丈夫かよって思ってたんだよな。だからもう一回打ち合わせしましょうって言ったじゃんオレ?」
自分は自由な身であり、契約先にさえも皮肉を言えるのだとでもいうように、セキタはシステム会社に毒を吐く。ノザキ課長と同年代のコバヤシの上司がセキタの話に合わせる。セキタはすぐに飽きて別の話を始めている。
「オレたちの単価から、エージェントが何パーセント抜いているか知っている?」
セキタは金の話が好きだ。隣の席のコバヤシが必死に仕事をしているふりをする。オレは分からないというような顔をする。
「こないだノザキさんがオレの契約書に判子押すの見えちゃってさ。」
セキタは目端が利く、だがそれは馬鹿にしてはという前提付きだ。ノザキ課長は共有フォルダにオレたちの契約書のデータを入れている。オレたちはメンテナンスの際に顧客から管理者権限を借りて作業を行う。そのタイミングで契約書を自分の端末にコピーするくらい誰でも思いつく。だからオレは全員の契約金額を知っている。セキタが70万でコバヤシが55万だ。オレは90万で自身の報酬が75万だからエージェントの取り分は17%程度だ。
セキタやコバヤシは契約書データの存在を知らない。管理者権限でどんな操作をすると、セキュリティスキャンシステムで検出されてしまうのか分かっていないからだ。原理、原則、そのレギュレーションも分かっていない。だから手順以外の操作をすることを極端に恐れている。何か悪いことが起こらないように、お互いがお互いの操作を監視し合っている。村人が山の神を恐れるのと同じだ。災害が起こらないようにただひたすら先人が行った通りに祈るだけだ。こいつらは。
コバヤシの寝癖の残る髪としわになったYシャツの裾がベルトの上から出ているのを見る。こいつらは自分が何をやっているのかほとんど意味を理解していない。なぜそうなるのか、疑問に思うこともない。だからこの前のアプリケーションサーバの入れ替えの時に仕込んだコンフィグレーションにも気が付いていない。これからこいつらはこのコンフィグレーションを正として何の疑いもなく更新し続ける。
ノザキ課長が戻ってきたタイミングで入館証と貸与されていた端末を返却する。ノザキ課長はオレの顔を見ることもなくディスプレイを見つめたまま「はい、了解」と返事をする。8月最後の日は17時に六本木を出ることが出来た。