契機
「契約満了のお知らせ」と題されたその書類には1か月後の終了日と入館証の返却手続きの方法が書かれている。2年勤めていたシステム会社から契約終了を通告されたサクライ・アキトは黙ったまま「契約満了」の文字を見つめていた。
アキトは契約先システム会社の顧客である、大手スーパーマーケットを運営する企業のIT部門で働いていた。大手スーパーマーケットのIT部門の仕事がなくなったわけではない。システムの入れ替えや増強、追加のシステム構築などでIT部門の仕事は常に予定で埋まっている。
契約先システム会社の運用部門のノザキ課長から契約終了となること、そしてその理由を告げられた。ノザキ課長はアキトや他のメンバーと共に大手スーパーマーケットのIT部門のオフィスに常駐している。アキトが契約終了となるのは派遣先システム会社の若手社員がここに配属される事が決まったからだという。
ノザキ課長はこれまでも再三に渡って正社員の増員を希望していたらしい。だが、システム運用を中心とするノザキ課長のチームは人員配置の優先度が低く、人員の空きが出ればまずは新規の大規模システム開発プロジェクトに優先的に配置されるようになっている。
ノザキ課長のチームにはノザキ課長以外にシステム会社の社員がいなかった。アキトをはじめ全てのメンバーは、システム会社が外注した下請け会社の社員かフリーランスのエンジニアだった。
アキトは正社員の増員を希望していたという話を始めて聞いた。アキトが働いた2年はただの繋ぎでしかなかったのだと理解した。そして社員の配属が決まれば、躊躇うことなく、即座に繋ぎの人員を切るのだ。
この職場での2年間の人間関係など意味をなさなかった。それは他の下請け会社の社員やフリーランスのメンバーも同じだ。メンバーの増減の調整はこれまでもあったことを見ている。だが、いざ自分が契約終了を言い渡されるとその当たり前の人の入れ替えがつくづく身に沁みる。そう考えると自分はこの職場に期待していたのだ。以前自分が正社員だった時のように契約と対価だけでなく、評価も期待していたのだ。
アキトは契約終了を聞いて、時折現実逃避のように思い描いていた1つの計画を実行してみようと考え始めた。
まず、心当たりがあったのは売上分析システムだ。店舗別、地域別、カテゴリ別に売上金額や販売個数を見ることが出来る。年、月、日ごとに集計されたそれらのデータを見ながら販売状況確認や予算達成、他店舗を参考に新製品の導入判断に役立てている。
本社社員や店舗社員がWebブラウザを使って売上分析システムにアクセスする。問題は社内ネットワークだけでなく、インターネット経由でアクセスできるようにしたことだ。インターネットからアクセスを許可することはセキュリティリスクが格段に高まる。社内の人間しか使わないシステムであれば、インターネットの通信を暗号化させたうえで社内ネットワークとつなぐVPN(仮想プライベートネットワーク)で接続することが一般的だ。インターネット接続を許可することは、仕入販売を統括する役員の一言で決まった。このシステムで利用するための通信をインターネットから許可すると定義されて同僚のコバヤシがFWの設定を行い、IPS(不正侵入防御システム)の通信を監視しているセキュリティ会社に新たに通信許可を追加したことを連絡していた。
アキトはコバヤシが許可した通信パターンに不要なものが混じっていることを知っていたが、特にそれを指摘もしなかった。他人の仕事に口を出していいことなど何もない。それはアキトが工業高等専門学校を卒業してから社会人として5年間の経験で習得したたしなみだった。
アキトはコバヤシが許可したその不要な通信が使えると思った。だが、利用するにはあと少し細工が必要だ。細工の見当はついている。このシステムでメンテナンスが発生するタイミングが2週間後にある。そこを使うつもりだった。もう1つの心当たりはEDR(Endpoint Detection and Response)と呼ばれるシステムだった。このシステムはエンドポイント(PCなどネットワークに接続されている端末)の操作や動きを監視して、ウィルスと思われる動作を検知する機能などを持っている。PC端末群の管理は顧客の社員がやっており、その管理者であるノモト係長はEDRシステムの作業を行う際にディスプレイに付箋でユーザ名とパスワードを貼っている。
ユーザ名とパスワードくらい覚えておけよと馬鹿にしていたが、これが使えると考えた。ユーザとパスワードを同じものを使いまわしているのか、それとも変更しているのか、その場合の規則性や有効期間など1か月もあれば把握することが出来る。
後は各システムのユーザ、パスワードを地道にメモして持ち出せばいい。金融業界や官公庁のように厳しい入退出のルールはない。本当に実行できるのではないかと思うと心臓が縮まるような心地の良い緊張感を感じた。
大手スーパーマーケットのIT部門のオフィスは汐留にあった。オフィスにはIT部門の社員は各自のデスクが用意されている。社員とは別にアキトたちシステム会社のメンバーが常駐するスペースとして一つの会議室が用意されていた。そこには6人掛けの長机を2つ並べただけのもが用意されているだけだった。ノザキ課長をはじめとしたシステム会社のメンバーは8人おり、その小さな会議室では息苦しさを感じる。アキト以外のフリーランスのエンジニアが1人、あとは同じ下請け会社の社員が5人だった。
フリーランスで最年長のセキタと、下請け会社の中でも最も若手のコバヤシに挟まれるように座っているアキトはまさか、自分がこんな大それたことを実行しようとしているなんて、ここにいる誰もが思ってもみないだろうと考えると笑いだしてしまいそうになった。まだ想像だけで何をしたわけでもないのに、どういうわけかさっきとは異なる緊張感で鼓動が早まり、それに刺激されるように興奮して笑いだしてしまいそうな自分がいた。