八 すれ違い
「嫁ぎ先の希望に変更はありませんか?」
あれからフェイロンのお渡りがピタリと止まり、次はいつ来るかと待ち構えて楽しみにしていたリン。
後宮を取り締まるシャナにされた質問に対して、リンは人形のように頷くしかなかった。
どこでもいいと答えた声に元気がないのは、どこに行ってもきっと同じだと思ったからだ。
(ここ以外のところなら、きっとどこも同じ)
胸がズキリと痛む。離れたくない、ずっと一緒にいたい。
家臣に下げ渡されるとわかって、今更ながら完全に自覚したフェイロンに対しての恋ごころ。
最初は確かに怖かった。
しかし、それが薄れるほどの時を過ごし、靡かない猛獣が自分に懐いたと。
物言わぬ顔とは裏腹に優しくリンの頭を撫でる手つき。
菓子を口元に運ぶと、信頼して必ず開ける口。
的を外して、カケラがついた唇をこちらが拭う前に、お行儀悪くペロリと舌で舐め取る姿が好きだった。
まだ眠いと縋り付く腕に、脚を絡められて行くなと言われて、自分が求められていると勘違いしてしまったのだ。
攫われるようにフェイロンの寝床に連れて行かれた時。正直、顔と雰囲気は怖いと思ったけれど行為自体は嫌ではなかった。
むしろ、もっとして欲しいと本能的に思ったくらい。
冷静になった今なら分かる。あの顔は怒っていたのではなくて、自分に欲情してくれていたんだと。
フェイロンにならそう思われても、そうされても素直に嬉しいとリンは思っていた。
フェイロンの事をもっと知りたいと思うし、普段は隠された感情をリンはもっと見たい。
でも、きっともう無理だ。
次の嫁ぎ先の確認などされて、リンは前のようにフェイロンと共に穏やかに過ごすなど、出来ない。
顔を見た瞬間泣いてしまう自信がある。知れば知るほど好きになってしまう自覚もある。
この持て余した感情を持って、次に行くには辛すぎる。
その日。久方ぶりに顔を出すと知らせを受けて、フェイロンからの訪問をはじめてリン側から断った。
いっそ不敬な奴だと、その手で直接殺されたいくらいにはリンはフェイロンの事をすでに愛していた。
お気に入りの毛布に包まっても眠気が来ない身体は、新鮮な空気を求めて夜の庭の散策に出かける。
心配する夜番の侍女が付き添い、飛び石を逸れて玉砂利の敷き詰められた庭を当てもなく彷徨う。そんなに広い場所ではないけれど、何もしないよりかは気が紛れた。
夜空を眺めて、欠けた月を見ていると無性に故郷が恋しくなる。
家族はこの月の下で、変わらず元気に過ごせているだろうか。
「リン妃。陛下がお見えです」
夜の庭に似合う透き通る男の声。いつも変わらず穏やかな声の主は、昼間リンに残酷な事を告げたシャナの顔と似ていた。
寝室に足を踏み入れたリンは、寝台に腰掛けたフェイロンに礼を取ってから、決まり切った夜の挨拶をする。
頭を下げながら口上を述べれば、相手の顔を見なくて済むからだ。
戯れのようなものなど、今のリンには辛いだけだった。
ただ寝るだけだと自分に言い聞かせて、声が掛かるのを待っていると衣擦れの音。すでに裸足の、武骨な足先が見えて緊張する。
返事もないのでそのまま居るしかないのだが、ひと言も聞き漏らすまいと耳をピンと立てて音を拾おうとする、素直な身体が今は恨めしい。
「リン」
「……っ!?」
名前を呼ばれただけで、火が灯るような嬉しさが込み上げて来る。次いで何でよりにもよって今、はじめて呼ぶんだと、若干キレ気味で返事をすれば顔を上げろと言われた。
はじめて普通に名を呼ばれた嬉しさと同時に、虚しさが胸を掠める。あとで思い出して、恋しく辛くなる事が増えてしまう。
リンに視線を近づけるために膝をついたフェイロンは、眉根を寄せて悲痛な顔を晒していた。見た事ない表情でリンは困惑する。
こんな苦しそうな顔をさせてしまったと申し訳ない気持ちと共に、こんな顔をさせたのが自分かも知れないと思うと。酷く嬉しくて、リンはそんな性格悪い自分が何だか嫌になった。
目を逸らせば、控えめに頬を指先で撫でられる。甘やかな吐息どころか、変な声が出そうになり、リンは何も漏らすまいと必死に口に力を入れた。
「私が怖いか?」
「…………いえ」
いつもの抑揚のない音とは違い、困ったような、それでいてリンを探るような、心配を滲ませた低い声色。
頬に触れていた指が滑り落ちて、リンの引結ばれた唇を撫ぞる。
怒っているのかと聞かれれば、また短く否定の言葉で答えた。
「顔も見たくないか」
そんなわけない。本当はずっとでも眺めていたい。でも、やっぱり見たくない。
感情が上手く整理出来なくて、答えは出ずに涙で前が見えなくなる。
スッと離された指にため息を乗せて、フェイロンは寝所を出て行ってしまった。
「……ぁ」
(嫌われ……た? 呆れられたのかも)
追いかけるために身を跳ね上げて、居間に続く扉に手をかけただけで、その場に崩れ落ちる。引き止めて、いったい自分はどうしようと言うのだろう?
うずくまって盛大に叫ぶように泣きはじめた声は、寝室と言わず外にまでこだました。
毛布を抱きかかえて幸せそうな寝顔を眺めているだけで、こちらの頬まで緩みそうになった、あの日。
陽の元で長らく眺めていたが、かまいたくなって手を伸ばし、ふにゃりと笑った口の下。
本物の猫が寛ぐようだと顎をくすぐれば、喉を鳴らして、フェイロンはリンに噛みつかれた。
笑いを抑えるために自身の口元を隠すように置いたはずの手は、次第に違う意味で力が籠る。
夜とは違い、紅を塗った色っぽい小さな口から、これまた小ぶりな牙を覗かせ、噛みつかれ。
抗えないほどの情欲が、フェイロンの身を焦がしたのは言うまでもない。
リンに訪れを拒否されたフェイロンは、素直にそれを受け入れた。
衝動にかられて急にあんな事をした後で、許されるとも思わなかった。
どこに嫁いでも良いなら、いっそ自分のところでもいいだろう。最後にもう一度シャナに確認させたら、今も変わらず希望はないらしい。
リンを手に入れるために、中立の猫の一族ごとこちらに引き込む計画をしていたフェイロン。最初は色良い返事が貰えず、諦めそうになった時もあった。
何度も何度も、やり取りを重ねたサイ家の当主は、リンの許可が出たら許すとやっと了承の返事が来た。
残るはリン次第だが、本当にあと一歩の我慢が出来ずに、怖がらせてしまって。己の未熟さが悔やまれる。
独り寝の自室の寝台で、何度目か分からないため息をついたフェイロンは、寝顔だけでも見に行こうとリンの宮に向かった。
まさか、リンがこんな時間に起きているとも思わなくて先に寝所で待っていると。入室して来たリンが家臣の礼を取って挨拶して来るので、軽く絶望した。
自分を写さない金色の大きな瞳は潤み、薄暗い部屋の明かりが反射して揺めき、今にも泣きそうな顔をしていた。
(ここまで嫌われたか……)
無理やり囲ってしまいたいが、あまりにもそれではリンが可哀想だ。
『おかえりなさい』
ころころと表情をかえる、優しさが溢れるリンが好きだった。自分を怖がる姿ばかりをこの先見続けるのは、フェイロン自身も身を裂かれるように辛い。
指先にリンの唇の柔らかさを最後に感じて、フェイロンは足早に寝所を後にした。
ズカズカと石畳を進み、宮の門の手前まで来たところ。
傅いた従僕が、行く手を遮る。
「何の真似だ」
「恐れながら陛下。リン妃といま一度話し合いを……後生にございます! どうか陛下、お戻り下さい」
これがここまで声を荒げて物申すのは珍しい、と気が立っていた頭で考えていると────。
リンの泣き叫ぶ声が聞こえた。
フェイロンは居ても立ってもいられなくて、踵を返して駆け出した。




