七 黒龍に攫われる白猫
予定であったフェイロン陛下のお渡りが急に無くなった夜。
次の日には後宮にある宮の一つが空いたと、女官が噂しているのを侍女から話され、リンは頭に疑問を浮かべる。三番目の妃の宮だ。
フェイロンが顔も見ずに妃の一人を処分したと聞いて、何かの間違いだと思った。
双子の侍女はいまだにビビっているが、リンは最早フェイロンが近くに居るのには慣れて来たので、あの寝起きにポケ〜っとしている御仁と結びつかない。
この間など、リンが起きようとしたらまだ眠いと胸に顔を埋めて駄々を捏ねるので、幼子のようだと呆れた。結局根負けして「これが母性か」なんて背中を摩ってやったりもした。
何を考えているかは分からないし、口数は極端に少ないけれど、たまに可愛らしい行動をするので、リンの中でフェイロンの印象はそんなに今は悪くない。
むしろ、ビクビクしている方が失礼なんじゃないかと思ったけれど、リンも本能には逆らえなかった。
お気に入りの毛布を丸めて、庭の見える縁側で日向ぼっこしていたその日。
ウトウトしていつの間にか寝入ってしまい、誰かが頬をさする。微睡の中でもくすぐったくて、寝ている自分にこんな事をするのは歳の離れた妹かと思った。
その手が顎下に伸びて来て触るので、悪戯仕返して本物の猫のように喉を鳴らす真似をする。
「ゴロゴロゴロゴロ……」
ピタリと止まった手に擦り寄って、指に噛み付ついたら笑い声でも上げるかと思えば、何の反応もない。
何だか手が硬い気がするし太い気もするし、兄や父はこんな事はしない。
目を開けると、口元を大きな手で押さえて顔の下半分が隠れ、眼光鋭く睨み付けて来る恐い顔のフェイロンが陽を背にして己を見下していた。
絶望に顔を青くし、頭の上の三角耳が意識せずに垂れて来る。
いつも無感情に見える龍人だったがために、はじめて向けられた激情にリンは恐怖した。しばらく動けないでいたが、自分が汚した指を涙目になりながら、震える手で何とか動かす。塵紙で拭く太い指には、ちょっと化粧どころか涎までついていた。
実家ではいざ知らず、今は曲がりなりにも妃なので昼間なら軽い化粧くらいするが、今日のは特に濃い色合いの口紅だったので、少々付着したぐらいとは言え肌には目立つ。
「もうよい」
「ごめ……ッ……?! ? ぅっ??」
反射的な謝罪の言葉を言い終わる前に、リンの身体は浮遊感に見舞われる。
フェイロンの肩に担がれたリンは、振り落とされないように広い背に必死に両手でしがみついた。
大股で歩くフェイロンの後ろには軽薄そうな雰囲気を今は潜めた、見知った狼獣人の護衛がいた。
助けを求めるために声を出さないで口だけ動かせば、無理だと首を横に振られる。
昼番の侍女の姿を探したいが、すでに宮の外に出てしまってここからは姿が見えない。
他に人はいないかと辺りを見渡すけれど、震えながら平伏した女官がまばらに。あとは警備の兵が直立で任務を遂行していたので、助けてくれと叫べる雰囲気ではなかった。
「陛下……時間が──」
「黙れ狼」
いつもより低く唸るように発したフェイロンの声を聞いて、さらに身を固くするリン。
仕方がないと、深呼吸してから逆に身体の力をぐにゃりと抜いた。疲れたのだ。
そのままどんどん進む景色を眺めて、後宮と本殿を繋ぐ門に到着。リンは降ろされるかと思ったら、フェイロンの歩みは変わらず敷居を跨いでしまった。
どこまでも続く歩みに、ある建物の前で沓を投げ捨てるように脱いだフェイロン。
「呼ぶまで誰も入るな」
ピシャリと閉じた扉は漆黒。キョロキョロと部屋を見渡す隙もなく、奥に進んで、簾のかかる違う部屋に入る。思いのほか優しく降ろされると、柔らかなものが臀部に当たる。
寝所だ。何人でも寝れそうな身の沈む寝具の上に運び込まれたリンは、部屋の豪華さと位置からフェイロンの自室あたりに来たと知る。
優しく降ろした手つきとは裏腹に、噛み付くように唇を奪われて、リンは混乱した。
「鼻で呼吸しろ。んっ」
息継ぎすら食われるので、言われた通りに変えると……何だか鼻に抜ける声が出る。
リンは口付けの苦しさと甘さから、目に涙を溜めた。滴ったそれを長い指が拾う。
いつの間にか押し倒されていたリンは、目前に広がる光景に胸を高鳴らせる。
寝そべるリンの肢体を、長い脚を広げて跨ぎ、膝立ちになり、上から見下ろす熱情を孕んだ瞳に、荒い呼吸を整えるフェイロン。リンが口をずらした際に付いた紅がフェイロンの薄い唇からはみ出して、頬の方に筆で一直線に描いたみたいに艶やかに色付いていた。
唾液まみれの口元は、まるで獲物を貪った後の気高い猛獣。
肩で息する龍人に、いつもはない溢れる感情を向けられて──リンは状況も忘れ、あまりの美しさに見入ってしまった。
再びのしかかられるも、手足の先まで動かない。いや、動きたくない。
そこに突如第三者の声がしたものだから、リンはびっくりして変な鳴き声を上げた。
「陛下」
「ぴゃっ!?」
「……ゴホン。陛下、お時間です」
先ほどは見かけなかったシャナの息子である従僕が、フェイロンに向けて手巾を差し出していた。
恐い視線をいまだにリンに向けたまま、フェイロンは無言だ。
奪うように手巾を受け取ったフェイロンが上から退くので、リンは寝台に身体を起こす。腰が抜けて立つことは出来なかった。
フェイロンが舌打ちしたために、小さな身をすくませる。
「ここで待て」
「陛下、お早く。リン妃には護衛を付けますから」
簾の向こうに消えて行く人影に、扉を開閉する音を聞いたのを最後に、だだっ広い部屋に嵐の後の静けさのような静寂が訪れた。
しばらくしたらリンは再び寝具の上に横になり、服が皺になるのも構わず身体を丸める。ため息のために吐いた息は、先ほどの口付けの甘さがまだ少し残っていた。
寝具から薫る香の匂いが、フェイロンのいつも身につけている物と一緒で、今はとても落ち着かなかった。
少しの間をおいて、物音に顔を上げたリンは、シャナの息子である従僕が寝所に入って来た事を知る。他はいない。
「リン妃、お髪とお顔を整えても?」
「自分でやります」
「ふふ。それは助かる」
繊細な女人の相手などした事もなくてと冗談混じりに細工物の櫛を手渡されて、化粧の崩れた顔を同時に拭われる。
足長の机に導かれて、お茶と菓子を振る舞われた。
小さな花弁の浮かぶ薄桃色のそのお茶は、ほのかに果実のような風味がする。何だか可愛らしくてホッとする味。
お茶を一杯飲み干す頃に、来客を知らせる声がして従僕が入室を促すと、双子の侍女が血相変えてリンの方に文字通り飛び込んで来た。
椅子が倒れるのも構わずに、双子に抱きすくめられたリンは二本の腕を回して、二人の頭を撫でる。
妃がひとりいなくなった後にフェイロンに連れ去られたのでは、確かに心配されても仕方ないとリンは思っていた。
双子の侍女達の啜り泣きが落ち着くまで、しばらく床の上で三人仲良くくっついて過ごす。
ちょっと猛獣に齧られただけで無事だと侍女に説明すると、微妙な顔をした従僕が何か言いたそうにしては口を噤むを繰り返していた。
(あの陛下を獣扱いか……いや、陛下はリン妃を枕と呼んでいるしお相子か)
結局その日はフェイロンの仕事が終わるのが遅くなり、リン達は顔を合わせる前に、自分達へ与えられた宮に戻されるのであった。
その事を寂しいと感じたリンは、自分のこころにフェイロンに対して、少なくない好意のようなモノが芽生えていると自覚する。
後日、シャナに「嫁ぎ先の希望に変更はありませんか?」と聞かれて胸が痛み、あの時自覚したものは恋情であったと確信した。




