五 はじめまして黒龍皇帝
寝台には「血塗れの黒龍皇帝」とニ人きり。嵐が過ぎ去るのを待つように、寝たふりでもしてやり過ごすのがいいのは分かっている。
けれど、リンはそれが出来ない訳があった。
(お、お花摘みに行きたい。切実に)
意を決して、腹に回った重たい腕を何とかどかす。毎日の習慣である髪を櫛で梳かしてから着替えを済ませる。
居間から続く外廊下に繋がる扉を開ければ、双子の片割れが待機していた。
他ニ名全然知らない顔ぶれに軽く会釈して、厠に急ぐ。
手を洗いスッキリ顔で戻って来たリンは、よく見たら白い肌着の小山が出来上がっているのを目にして、頬を引き攣らせる。
「あはは。女官のみんな喜びそうだね」
「リン様、その……言いづらいのですが」
察したリンが、多分何もなかったと侍女に向かって言えばホッとされた。どこも傷まないし、汚れた形跡もない。
改めてフェイロン陛下の護衛と挨拶を済ませたリン。問題の御仁はまだ寝ているけど、どうしようかと相談する。
「後はこちらが致しますので、お好きに過ごしてかまいません」
部屋に入る際は声をかけると言われたので、了承する。リンと侍女は肌着共々、その場の道具類を静かに片付ける。
その後、あまり煩くして起こしたらいけないだろうと、いい匂いのする台所の方に、忍び足で逃げるように引っ込んだ。
席に着くなりいつものように白湯を出されて、いつものようにゆっくりと飲み込む。
手が震える振動で、透明な波紋を描く器の表面だけがいつもと違う。
朝餉は夜食の残りだという胡桃の餅が添えられており、食べ終わる頃には恐怖から来る身体の震えはナリを潜めた。
お腹が膨れて落ち着いたら、次は自分じゃない者の心配が湧き上がる。
いつもより遅い起床ですでに日は昇り切っている。
「陛下は公務に間に合うのか……な?」
「早くから朝議があると護衛の方々には伺いましたが」
身支度はこちらで。朝餉の支度もフェイロン陛下の厨房ですると言ってはいたが、あちらで食べるにしても間に合うのか心配ではある。
そんなリンの疑問をかき消したのは、いつの間にか厨房の入り口にいた、熊獣人の護衛だった。
「ご歓談中にすまない。陛下を起こしに寝所に入りたいのだが、どなたか付き添いを願いたい」
「はい。わたくしが参ります」
洗い物をお願いして、ひとりで行こうとしたら両方の腕を掴まれる。
一緒に行くと言われて、自分のところの侍女が頼もし過ぎるとリンは笑顔になった。
結局、寝所に足を踏み入れたのは護衛の熊獣人とリン。後は陛下のお支度品を衣装部屋に、従僕と一緒に運び入れて並べている。
本当に時間がないようで、部屋前で待機している狼獣人の護衛以外、皆バタバタと動き回っていた。
薄い天蓋を寝台の梁に括り付けて、熊獣人の護衛が声をかける。
「陛下、起床の時間を過ぎております。目を覚ましてください」
「…………ん。起きた」
寝台の上で身体を起こしはしたが、ボーっとしたフェイロンの様子は、どう見ても目が醒めているとリンには思えなかった。
眺めていると、真っ赤な瞳と視線が交差する。リンは急いで腕を組み、頭を垂れ、膝をついて礼を取った。
「そなたが西領サイ家の二ノ姫で違いないか?」
「はい、左様にございます」
挨拶の口上を述べると、面を上げろ、近くに来いと言われる。
戸惑うリンに向かってフェイロンが身を乗り出し、腕を伸ばそうとしたところで熊獣人の護衛がやり取りを遮った。
「陛下、時間がございません。お早く」
「今何時だ?」
時間を知らせた熊獣人に向かって、もっと早く教えろと無表情に言い放ったフェイロンはそのまま寝室を後にした。
総出での身支度が終わり頃になると、食事の暇がないと知って、リンが急いで白湯を持って来る。
毒味を済ませて手渡した物をグイッと飲み干したフェイロンは、無言で杯をリンに返す。
そのまま大股で居間を出て行こうとするので、慌てて見送りに。
振り返らず急足で進むフェイロンは護衛を連れ立ってリンに与えられた宮の門を潜り、さらに先へと進んで行く。
(どこでお別れの挨拶すればいいのぉー!?)
内心涙目で息を切らせて、追いかけるリン。後宮の門のところで、これ以上は進んではいけない場所だと膝を折り、フェイロンの背中に向かって別れの挨拶をする。
「いってらっしゃいませ」
そんなに大きな声ではなかったのに、ピタリと足を止めたフェイロン。
木材と金属が軋む音をたてて巨大な門が閉まる最中。顔半分だけ振り返ったフェイロンは「また来る」と静かな声でリンに告げた。
ガシャンと閉まった門前にポツリと残されたリンは、横に並んだ双子の片割れに向かって疑問を投げかける。
「社交辞令だよね?」
「…………」
二人のやり取りを眺めていた夜番の侍女は、無言で微妙な顔をしていた。
昨夜にフェイロン陛下の護衛二人に出したお茶は、結局手をつけられる事はなく。
今朝、リンが毒味した白湯をフェイロン陛下が飲み干した事実に胸騒ぎを覚えていた。
数日経って、胸騒ぎは気のせいだったと侍女達が油断していた夜。
シャナがゲッソリとした顔で、女官を手伝いに来ていた昼番の侍女の元を訪れた。
「陛下がこれからお渡りに」
「お待ちください。主はすでに寝ていますよ」
「それでも構わないと仰せで。急で本当にごめんなさいね」
全力で止めたけれど、どうやら突っぱねられたらしい。
シャナの顔を見れば不本意極まりないと言うのがありありと分かったので、誰をどう責めても今は仕方ない。それより受け入れ準備だ。
女官に手伝いが出来ないで申し訳ないと謝ってから、主の居る宮に急ぐ。
先触れより前に宮に滑り込んだ侍女は、急いで半身に訳を知らせた。
絶望に顔を染めた夜番の侍女は頭を抱える。何でこう油断している隙を突くようにこちらに来るのかと。
必要なものはあまりないが、失礼があってはいけないと気疲れはする。
しかも今回は、寝ている主は何も知らされていないのだ。
主に声をかけ、身体をゆすっても「うみゃ〜」と気の抜けた寝言が返って来ただけであった。起きる気配は全くない。
最低限、石畳の掃除をしようと二人で急いで掃き清める。丁度終わる頃に前回と同じ顔ぶれが揃った。
フェイロンが部屋に入り終わると、これまた困り顔の熊獣人の護衛から訳を説明される。
一瞬にして、この方もシャナ同様苦労していそうな雰囲気を感じ取った双子。
食事中に従僕に「寝たい」と呟いたフェイロン。風呂が終わったら白い枕の所に行くと言われて最初戸惑ったらしい。
起きているのに寝言を言っているのかと従僕は理解に苦しんだが、フェイロンは元来口数が少なく、不必要な事は喋らない。
「白い」で最近の出来事で何とかひとつ思い浮かんだのは、この前、朝まで共寝したリン妃の事。
風呂の最中に再度フェイロンに確認したら、肯定が返って来たので急いで後宮に居るシャナに知らせを出したら、風呂場に直談判しに乗り込んで来たと。
その話を聞いて、やっぱりシャナ殿スゲェと内心思った侍女二人だが、顔には出さなかった。
ついでに、前回同様また走り回っている従僕も苦労人認定しておいた。
「「我が主を『枕』呼ばわりですか」」
「俺が言ったのではない。陛下が仰られたのだ。怖い顔をするな」
「でも、許してやってよ。随分前からウチの陛下眠りが浅くて、夜中にちょくちょく起きちゃうんだよ」
軽い雰囲気の狼獣人の護衛の口に大きな手を当てて、今のは他言無用でと目の据わった熊獣人に脅される。
不可抗力に皇帝の秘密を知ってしまった双子は、ヒュッと息を飲んだ。
普通妃の元を夜に訪れるなら、真っ先に閨事を思い浮かべるが、どうやら陛下はただ眠りに来ているだけらしい。
寝ているリンをどうこうする訳じゃないと知れて、良かった。
少し安堵した双子に追い討ちをかけるように、熊獣人の手から解放された口を狼獣人が空気を読まずに再び開く。
「それも時間の問題じゃないかなぁ?」
スパーーンッッッ!! と履き物でシャナに頭を叩かれた狼獣人は、今度こそしっかりと口を閉じた。




