二 主は寝るのが早いので
「わたくしの嫁ぎ先はどこでも構いません」
「……左様でございますか」
後宮の取り締まりを担当するシャナは、サイ家ニの姫であるリンの元気いっぱいな笑顔に、思わず顔を覆いたくなった手を引っ込める。眩しい。
あまりにも屈託のないリンに最近の疲労が洗われるようである。
侍女がちゃんと毒味を済ませたお茶と茶菓子に手をつけて、上品に召し上がる姿に作法がしっかりとした教養を感じた。
普通は手足のように侍女を使うはずの姫。自ら荷物を片付けている姿を見た時はどうなる事かと思ったシャナだが、多分この方は大丈夫そうだと長年の経験が言っている。
付けられた侍女の質に身についた立ち振る舞い。実家では大切に育てられたであろう。
多少気さく過ぎるのもあるが、人族のシャナと違って猫獣人は元来自由な性格の者が多い。
昔の後宮ならいざ知らず、現在は妃同士の交流は不可。
腹の探り合いをしなくて良いなら、シャナはこれはこれで有りだと思った。
ふんわりとした綿雪のような、柔らかい短めの真っ白の髪からのぞくピンとした三角の耳。耳の毛艶がよく健康的そうだが、それでいて肌は白く透き通るよう。
白い中にある一対の瞳は陽の光を受けると煌めく金色で、とても神秘的だった。
見目だけでも、この先どこに嫁いでもきっと可愛がられるだろう。
随分後宮に来るのが遅かったと話せば、皇帝陛下は直ぐに来るわけではないだろうと、リンは訳を説明する。あまり早く来すぎてもこちらの手を煩わせるだろうしと。
長くとも一年しか滞在しないし、皇帝とリンが直接顔を合わせるのは多分一度きり。
宮も模様替えせずに与えられたまま使うらしい。
(この方は自分のお立場を弁え、帝国の現状や、今の後宮の事をちゃんと理解していらっしゃる)
シャナはリンに対して、後宮のまとめ役としてだけではなく、個人的にも好感の持てる相手であると認識する。
内心では、こういう方ばかりなら仕事も少なくて済むのに。と、ちょっとだけ悲しくなった。
いくつかの質問とリンとの談笑を楽しみ、お付きの侍女が戻って来たところで、シャナはお暇する事となった。
一箱分にもなる献上品の反物は「結構力持ちなんです」と、ヒョイッと担ぎ上げられ、部屋に残っていた侍女の手により、一旦シャナの部屋に運び込まれる。
中身を検められたのち、無事にサイ家当主の手紙と共に、その日の内に皇帝の元に届けられた。
入浴を済ませ、夕餉を食し、いつもより早めにリンが寝床に引っ込んだのは十八時半。
まだ日の入りしたばかりで黄昏時の優しい暖かさと光が室内に残る中。
どこに居ても主が寝るのは早いと、双子の侍女は互いの顔を見合わせる。同じ顔は鏡に写し出されたように苦笑いを浮かべていた。
長い旅路でも、どんな場所でも決まった時間に安らかに眠るリン。
主が憂なく安心して寝てくれるのは、自分達を信頼してくれている証拠。
それにしても、恐ろしい「血塗れの黒龍皇帝」のお膝元である後宮で、そんなに早く寝るのもどうかとツッコミも入れる。
前に毒杯を飲み干した妃二名の内一名は、一度の顔合わせでその日の内に。
次の妃は顔も見ずに殺されたと言うから、いつ何時気まぐれにリンに危機が及ぶか分からない。
お渡りが数度続いて寵愛しているかと思えば、位の低い家臣に容赦なく下げ渡されたと聞く。
リンがこの先も生き残れるかは、主も含めて、それ以上に双子の働きにかかっている。
「後は任せた」
「言われずとも」
後宮を取り締まるシャナには、まずまずの印象だったのが救いだ。
実は内心冷や冷やしながらリンとシャナのやり取りを眺めていた侍女。馬が合うのか、双方楽しそうに談笑していた時は胸を撫で下ろしたものである。
まずは、閉鎖的な後宮の現地を知るために情報収集から。
表にいる時は分からない事もあるし、時が経てば新たな事も生まれるもの。
二、三言葉を交わした双子の片割れは、手伝いと称して、とりあえずの仕事を探しに主の宮を後にした。
妃達の交流は認められていないが、他は駄目だと規制はない。まあ、女官に断られたら引っ込めばいいかと思うが、多分そんな事にはならないだろう。
こちらに来る前に、外で可能な限り調べ上げた。女官達の人数と経歴には目を通してある。
シャナの部屋に向かう道すがら、辺りをよく観察しつつも、その足取りは今は軽やかであった。広い後宮を維持するだけでも、猫の手も借りたいほどであろうと。
早朝五時すぎ。実家からわざわざ持って来た、お気に入りの厚手の毛布からズボッと勢いよく顔だけ出したリンは、大きな欠伸をかます。
「ふぁあぁぁ〜〜〜〜……」
十分すぎる広さがある寝台の上で、まだ少し眠い目を擦りながら、身体を起こす。
天蓋の透けるほど薄い布をかき分けて、内履きに素足を引っ掛ける。
居間には敷物を用意したが寝所にはないので、起き抜けで足袋を履く前は足が冷えてしまうのだ。
そのまま鏡台の前まで歩みを進め、包まったままの毛布ごとモフリと座布団に腰掛けた。
細くて毛量のある髪の毛は毎朝好き勝手に広がるので、櫛を丁寧に入れていく。
髪を伸ばしていた時期もあったけれど、髪質の問題もあるが、白い色味をひとつに結ぶと、まるで筆のようだと言われてから、肩にも付かないほど短く整えている。
長髪でも完全に結い上げて固めてしまえばいいのは分かってはいる。しかし、長い時間はどうにも頭が重く、肩が凝って合わなかった。
短くしたらしたで、綿のようだと言われたけれど、フワフワとした手触りになった髪型をリン自体が気に入っていた。
櫛を置いて、毛布に顔を埋めて別れの挨拶をしてから寝台に戻す。着替を済ませて、寝巻きは所定のカゴに。
台所に向かうと侍女の一人が鍋の中身をかき回していた。深皿によそった粥から熱々を知らせる湯気が立ち上る。
「おはよう。まだ起きてたんだね」
「おはようございます。しばらくは朝もいますよ」
朝と夕に分かれて、最初はどちらか片方だけでも起きていると事前に決めていた双子の侍女。
宮の門前には兵がいるとは言え、いささか主ひとりにするには心許ない。
昨日女官から仕入れて来た情報や台所の使い方をリンに話ながら、椅子に腰掛けた主に白湯を手渡し、おかずを次々に盆の上に乗せていく。
もやしと青菜の和え物に、根菜と芋の煮物。川魚の塩焼き。それに卵の粥。箸休めにピリッとする、辛さを効かせた茄子の漬け物。
ゆっくりと白湯を胃に流し込みながら、リンは台所の設備に感動していた。
昨日の風呂でも思ったけれど、井戸水を汲まなくても蛇口を捻ればお湯が出る。
台所はお湯が出ない代わりに水が出るは、竈門を使う際に薪がいらない。
海の向こう側の技術らしいが、数が少なく、まだ一般的には広まっていないと。昨日食材を貰いに行った時に侍女は説明を受けた。
物自体は知っていたリンだが、まさか後宮で自分達が使う事になろうとは思いもしなかった。
台所に備え付けの机に三人分の朝餉の乗った盆を置いて、侍女はリンの迎え側の椅子に腰掛けて粥を啜る。
ゆっくりよく噛んで食事を楽しむリンより先に食事を終えて、仮眠のために台所を後にした。
入れ違いで、もう片方の侍女が挨拶を済ませてリンと共に食事の席に同席する。
侍女は今日の予定を話し始めた。午前中は医女の診察。
健康診断に、身体検査では生娘であるかを調べられる。その間に並行して荷物検査だが、そちらは女官と侍女が対応する。誰か訪ねてくるまでは掃除と昼餉の支度。
昼をすませたら、午後は庭に植えてある柿の木から、実をいくつかもいでしまおうと。食いしん坊のリンも初日見た時から気になっていたので全力で頷いた。
均一に入った色合いの食べ頃の大ぶりな物は、すでにいくつかリンは目星をつけていた。夕餉に並ぶのが楽しみである。




