救済の代償
目を覚ますと知らない天井だった。
「……え?」
ぼくは見知らぬ部屋でベッドに寝ていた。
花のようないい匂いがする。学習机と椅子があり、椅子の背には見覚えのある柄のスカートが無造作にかかっている。うちの中学の制服だ。机の上と脇の本棚には中学三年生の教科書が乱雑に置かれている。
状況が「ここは同級生女子の部屋である」と語っている。しかしなぜそんな場所にいるのかまったくわからない。
混乱していると不意に部屋の奥の扉が開き、
「あ。起きた。よかった」
向こうから現れた部屋着姿の女の子が安心したように表情を緩めた。
その女の子の顔には見覚えがあった。二重の意味で。片方にはすぐに思い至った。眠る前、最後に見た女神のような女の子その人だ。しかしおかしい。あれは幻覚じゃなかったのか? じゃあこれは夢の続き? そもそもぼくはどうなったんだった?
記憶が過去に遡るように芋づる式に甦る。
ドレスを着た少女。
銀色の光芒。
千切れかけたぼくの腕。
怪物のおぞましい造形。
疲労で焼けつく肺。
黒い空に誰もいない住宅街。
息がうまくできなくなっていた。自分の体を確かめる。腕はついている。悪い夢でも見ていたのかと思いたかったが、ずたずたに裂けたシャツがそれを許さなかった。赤黒い血がそこかしこについていて、フラッシュバックする映像が現実の出来事だったことをぼくに突きつけてくる。夢じゃない。痛みがこみ上げてくるような気がした。体が震える。動悸が激しい。前後左右上下すべてがかき混ぜられるようで気持ちが悪い。
「落ち着いて」
凜とした声だった。意識の奥底に届くようなその声のおかげで、ぼくはハッと我に返る。女の子はぼくの背中をさすりながら耳元で穏やかな口調で語りかけてくる。
「まずは息を吐いて。深く、深く……。うん。出し切ったら、今度はゆっくりと肺に空気を入れて。そう、ゆっくり……焦らないでいいから。……そう。良い感じ」
彼女に言われた通りにすると、パニックに陥りかけていたぼくの思考が平静を取り戻していく。
すると今度は、いたたまれなさと恥ずかしさでいっぱいになる。ぼくはなにを怯えているんだろう。ばかみたいだ。もう終わったことだというのに。
心配そうにぼくを見つめる女の子の顔を見返して、ぼくは笑顔を作った。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
平気なふりをしたはずが、女の子は気の毒そうに目を細めた。
そんな彼女の視線がついと横に流れた。
「……え? ちょっ、…………!?」
彼女の細く冷たい指がぼくの右鎖骨を撫でた。シャツがはだけられ、あらわになった肩先に向かって、女の子の指がぼくの肌を撫で上げていく。くすぐったいのとは違う奇妙な感覚が腰の奥のほうにくすぶり出して、ぼくは思わず体を震わせた。
「ごめんね」
女の子が唐突に謝罪を口にした。きれいな顔がつらそうに曇っている。
「残っちゃった」
「え?」
「痕」
少女の見つめる先を見て、ぼくはようやく理解した。そこには皮膚が引きつれたようなあざがあった。「ああ」と息を漏らしたぼくを、女の子は怪訝そうに見た。思わず笑ってしまったのだ。
「ごめんなさい。でも違いますよ。それは小さいころ犬に襲われたときの傷跡ですから」
女の子はきょとんとして、それからぼくの肩口に顔を近づけまじまじと検め始めた。呼吸が肌にかかってこそばゆい。
「……そっか、同じ場所だったから……。ねえ、これもそのときの?」
女の子の指が別の部分を撫でた。「ひゃん」と変な声が出そうになったのをこらえ、「うん」と答える。
「右肩に違和感はない? ちょっと回してみたり動かしてみて」
言われた通りにする。可動域が狭いけれど、それは後遺症によるものでいつも通りだ。だからぼくの腕は、何の変哲もない、ぼくの腕だった。それを伝えると、
「よかった」
女の子が表情を緩め、胸が高鳴った。可憐な笑顔だった。
部屋に沈黙が訪れる。
女の子の部屋。ベッドで寝るぼくの衣服は乱され、女の子の白く細い指が肌に触れている。すぐそばに、彼女のきれいな顔がある。色素が薄く日本人離れした色の瞳がじっとぼくを見る。
改めて、どういう状況なんだこれは。
「もういいだろうカンナ」
渋い声が聞こえた。正確には頭の中に響いてきた。
続いて銀色の小さな塊が、宙を舞ってぼくの顔の上に落ちてきた。
「ぶっ!」
衝撃でベッドに倒れ込む。痛みはそれほどなかった。ぶつかってきたものがなんだかもふもふしていたからだ。
顔の上から飛び退いたそれはぼくの胸の上で見得を切るように佇んだ。四つ足で地に立ち、銀色の体毛に覆われていて、すらりと伸びた凜々しいマズルを持つその姿はまさしく、
「犬じゃないからな」
胸の上の動物が脅すような声音で言った。思考でも読んだみたいなタイミングだった。
「俺は銀狼だ。カンナがそう決めた。だから間違うな」
「……銀狼……」
相手の言葉を繰り返すと、銀狼はなぜか嫌そうに顔を歪めて舌打ちをした。
「やはり聞こえるのか」
「聞こえるもなにも……話してる、よね?」
またしても舌打ちされた。なんなんだ一体。
「この子は話してないんだよ」
女の子──カンナと呼ばれた少女がぼくの胸の上の小動物を抱き上げた。
「あ、この子の名前はアルトだよ。よろしくね」
頭を撫でつけられて、気持ちよさそうに目を細める銀狼。ずるい、という感情が湧く。
「話してないって、でも声が」
「紫童くんとわたしにしか聞こえてないんだ。関係者にだけ聞こえる声を頭の中に流してて、音は出してない」
「関係者にしか……。それならどうしてぼくなんかに」
「そこの説明をしたいんだけど」
少女は困ったような顔をして、
「どうやらわたしと紫童くんは、少し特別な関係になったみたいなんだ」
特別な関係、というフレーズが聞こえた瞬間、アルトが不機嫌そうに顔を歪めた。
「どこから説明したらいいかな……」
女の子は考え込む素振りを見せたけれど、質問ならもう決めていた。聞きたいことなら山ほどあったが、あまりに山盛りすぎてもはやどこから手をつけたらいいのかわからない。差し当たっては、目の前の疑問から片づけることにする。
「ぼくの名前」
「うん?」
「知ってるんですか」
彼女はさっき、さらりとぼくの名を呼んだ。それが気にかかっていた。
女の子は嫌みのない笑みを浮かべて、
「同級生だからね。紫童リンネくん」
その表情は、同級生ならそれができて当たり前だと疑っていなかった。ぼくは二百名以上いる同級生の名前を全員覚える自信はない。
しかし、この子のことは知っている。
「ぼくも、あなたの名前、わかります」
少女の瞳に好奇の色が宿った。ぼくの次の言葉を待っている。その事実に少しだけ胸が沸き立つ。
「星崎カンナさん、ですよね?」
「知ってるんだ」
「ど、同級生なので」
同じ言葉で返すぼくに、星崎さんは目を細めた。破壊的な表情にくらくらする。
彼女の顔に見覚えはあって、十中八九間違いないと思っていたけれど、銀狼が呼んだ名前で確信できた。ぼくの学校で彼女を知らない生徒はいないだろう。
星崎カンナ。中学三年生。人目を惹く日本人離れしたルックスは東欧出身のお父さん譲りらしい。
高い身長にすらりとした手足、ブロンドの髪、透明感のある肌、目鼻立ちがはっきりとした顔。見た目の麗しさだけでなく、彼女の佇まいには得も言われぬ雰囲気があった。廊下の向こう端にいたり体育館で他の生徒とともに整列していても、その存在感に目が留まる。
そこにいるだけで誰しもが心を奪われるような少女。それが星崎カンナだった。
その星崎さんがぼくを助けてくれた。
ぼくは左手で右の鎖骨のあたりに触れた。何の変哲もない、ぼくの体。それが異常だった。あのときたしかにぼくの体はずたずたに引き裂かれたはずだ。
だが傷は塞がっている。治してくれたのは星崎さんに違いない。でもどうやって? そんなことが可能なのか?
疑問はいくらでも湧いてくる。けれどいちいち自分の常識と照らし合わせているともはや目の前の現実が処理しきれない。だからまずはあるがままを受け容れることにした。傷は治った。星崎さんは治せる。犬……いや狼か、狼が喋るのもまあ、いいだろう。オーケー。飲み込もう。それじゃ次だ。次にぼくが聞くべきことは。
「……なにが起きてるんですか」
星崎さんは少し考えてから、
「わたし、魔法少女なんだ」
なんでもないことみたいに彼女はそう言い切った。
星崎さんの話を要約すると、こういうことだった。
ぼくたちのいる人間界とは別の次元には、魔法を使える妖精たちが住む妖精界が存在する。
本来なら別の次元に存在する世界が交わることなどなかったはずなのだが、未知の原因で人間界と妖精界、ふたつの世界が繋がってしまった。
以来、突如現れた影法師の怪物シャドウによって、妖精界は壊滅の危機に瀕している。
窮地に陥った妖精たちは起死回生の策として、妖精と契約することで絶大な戦闘力を得ることのできる人間、魔法少女を探すため人間界へとやってきた。
そして星崎さんをはじめとした四人の選ばれし少女が魔法少女となって、人間界にも現れるようになったシャドウと人知れず戦っていた。
「……そういうことで合ってますか?」
「すごいね。頭いい」
星崎さんが微笑んだ。よく笑う人だと思った。というか、口角が上がっているからいつもほのかに笑んでいるように見えるのか。素敵な表情だった。
星崎さんに見惚れている場合じゃなかった。彼女の話をどう受け止めればいいのか考えないといけない。
荒唐無稽。それが率直な感想だった。
けれど、聞いた話をどれだけ「信じがたい」と感じたとしても、ぼくはすでに知っているのだ。化け物の存在も、喋る狼の存在も。なにより、ぼくの命を救ってくれた少女のことを。
「カンナはお前の命を救うために無茶をした」
銀狼アルトは不機嫌さを隠さない態度で告げた。
「瀕死のお前を外から治すのでは間に合わなかったから、カンナはお前にも魔法を使わせようと考えた。内と外から治せば治療速度は二倍だと」
「ぼくに魔法を使わせるって……そんなことが」
「できない」
断言するアルト。だけどすぐに苦虫を噛みつぶしたような表情で「……普通はな」と付け加えた。
「契約とは本来、我々妖精が女王から与えられた〝祝福〟を介して行うものだ。妖精と人間、一対一でだ。多重契約も、人間同士の契約も想定されていない」
だけど星崎さんはその『想定外』を実現してみせた。妖精アルトと契約をして魔法少女となった、そのただ一度きりの経験と記憶をもとに、ぼくとの契約を果たしたということらしい。一時的な契約を結び、ぼく自身に回復魔法を使用させることに成功したから、この命は今もある。
「わたしとアルトが結んでいる契約とはまったく別物になったから、そうだね、疑似契約ってところかな」
補足を加える星崎さんに、アルトはたしなめるような視線を向ける。
「疑似なんてぬるいものじゃない。あれは似非だ。詐欺に近い」
「手厳しいなあ」
「厳しくもなる。そのせいできみは死にかけたんだぞ」
「心配かけたのは悪いと思ってるよ。ごめんね」
「……謝らせたいわけじゃない。ただ俺はきみに自分を大切にしてほしいだけで……」
「ちょ、ちょっと待って!」
ぼくはたまらず割って入った。死にかけたって? ぼくを助けようとして? どんな顔をすればいいかわからないまま、ぼくは星崎さんを見た。彼女は「気にしなくていいから」と眉を下げた。気にしなくていいわけないだろう、と考えたところで我に返る。違う。これはぼくが気を遣わせているのだ。危険な目に遭わせた上に、気配りまでさせてしまっている、強烈なみじめさが突き上げてくる。
アルトは嫌悪感をにじませた表情でぼくを見上げていた。大切な人に危ない行動を取らせる原因となったぼくが憎いのだろう。彼の悪意に、むしろ安心感を覚えた。にらまれるくらいのほうが今は居心地がいい。
「魂が拒絶反応を示したんだろう。カンナの肉体は崩壊寸前に陥った」
「言わなくていいのに」
星崎さんの指摘にアルトは首を振る。
「いいや。小僧は知っておくべきだ。そして五体投地の姿勢で感謝にむせび泣き今後一生をかけて恩に報いねばならない」
「そんなことされたらむしろ困るって。助けられたんだしそれでいいんじゃないかな。結果オーライってことで」
「本当にそれだけなら、俺も口うるさく言わないよカンナ」
「……あー……」
ぼくに向き直った星崎さんは申し訳なさそうな表情をしていた。そんな顔をしないでほしかった。その顔はぼくがするべき表情だ。
「さっき、『少し特別な関係になった』って言ったじゃない」
こくりとうなずいて今までのやりとりを思い返す。ぼくと星崎さんは疑似契約を結んだ。そのことを指しているのかと思っていたが。
「わたしたちの間の契約はもう解消してある。アルトの言うとおり、そのままだとどっちも死んじゃいそうで危なかったから」
「……はい」
「けどね、見えない繋がりが切れてないんだ」
「見えない繋がり?」
「わたしたちは『因果の縁』って呼んでる。わたしとアルトの間にもあるんだけど。というか、因果の縁が契約の証だと思ってたんだよね。だけど違った」
「ど、どういうことですか」
「契約はたしかに切れてるのに、因果の縁は繋がってる状態ってこと」
ぼくは思わず自分の右手を見た。もちろんそこに何が見えるわけでもましてや感じたりするわけでもない。けれど、たとえば小指の根本を縛る糸を想像してみた。星崎さんへと目を向ける。その糸が彼女と繋がっている、と。そういうことだろうか。
「……その、因果の縁? が残ってると、何が起きるんですか」
星崎さんは少しだけためらって、「わかることとわからないことがある」と告げた。
「なにしろ前例がないからね。わかるのはほんの少しだけ。そしてそれはいい話じゃない」
空気が少し重くなった。ぼくはごくりとつばを飲み、星崎さんの言葉を待つ。
「紫童くんを襲った怪物、シャドウは因果の縁をたどることができる」
星崎さんは淡々とした口調で述べた。言われたことの意味を理解できるまで少し時間がかかった。
「……また襲われるかもしれないってことですか」
「かもじゃなくて確実にだ」
アルトがぼくの発言を訂正する。腹の底がひゅっと冷たくなる。
「問題はそれだけじゃない。因果の縁の一端に小僧がいる。となればもう一端がどこにあるかも知ることができるだろう」
「……それは、えっと」
「鈍いやつだな。おまえを通してカンナの位置を知ることができるということだ。それが何を意味するか、わかるか」
「……敵に星崎さんの正体が露見してしまう」
さっきよりもさらに強い寒気が全身を覆った。それは、それだけは、まずい。
「ようやく事態の深刻さを理解したか」
ため息をつくアルトに、
「どうすればいい?」
食ってかかるように質問をしたぼくに、アルトは少したじろいだ。はっとして、乗り出した体を元の位置に戻す。けれど気持ちばかりが焦る。早く。早くなんとかしないと。
「焦ったところでどうにもならん。目障りだから落ち着け」
「でも……」
「おまえにやってもらうことはもう決まってる」
「! 教えて。ぼくにできることならなんでもするから!」
「……できるかどうかは怪しいところだな」
アルトはなぜか自嘲するようにつぶやいた。
「魔法だよ。おまえには魔法を使えるようになってもらう」