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死の淵で見た女の子

 どこまでも続く住宅街を、ぼくは走っていた。

「はあっ……ひゅっ……ひいっ……」

 悲鳴のような声が口から漏れ続けていた。限界はとうに迎えている。体育の授業でもこんなに必死に走ったことはない。

 転びそうになりながら、体をよじって背後に目をやる。

 いる。ずっと追いかけてきている。

 黒い影がぼくにつきまとっていた。

 いびつな手足が不揃いに生えていて、それを触手のように振り回しながら這うようにして追ってくる。動作は緩慢なのに、でたらめに早送りをしたみたいに速度を上げてくるせいで、いつまでたっても振り切れない。その不規則な動きがあまりに不気味でぼくの恐怖心をあおる。

 影の表面には黒い点の入った赤い物体がいくつもくっついていてランダムに明滅している。その赤いものがやつの眼球で、明滅するのはまばたきをしているからだと気づいた時にはおぞましさで膝をつきそうになった。

 理屈じゃなく直感していた。

 追いつかれたら死ぬ。

 とはいえ体力はとうに底をついていた。

 どこまで走っても、どこで曲がっても、同じ塀、同じ家が延々と続いている。助けを呼ぼうにもだれもいない。空は夜みたいに真っ暗なのに、周りの風景はよく見える。陰影のない世界だった。この世界に唯一存在する影は、ぼくを追いかけてきて殺そうとしている。

 どうしてこんなことになったのだろう。酸欠でえずきながら、疲労でぼんやり白い膜がかかった頭を働かせて考える。


 いつもどおりの一日のはずだった。

 放課後、ぼくは川沿いの堤防を歩きながら、絵を描くのにちょうどいい場所を探していた。休み時間、動画サイトでたまたま見ていた風景画の講座が、珍しい描き方をレクチャーしていたのでさっそく試してみたくなったのだ。

 七月の夕方は蒸し暑かった。梅雨はいまだ明けず、昨日まで連日続いた雨はようやく晴れ間を見せたけれど、それでもなおまとわりつく湿度がうっとうしく、歩いているだけで汗がにじむような、そんな日だった。

 いつも使っている橋の下には先客がいた。同じ中学の制服をきた子たちが複数名、楽しそうに談笑していた。ぼくはそれを少しのあいだ遠目に眺め、それから気づかれないようにそっとその場を離れた。

 少し歩いて、ふと「筆記用具を学校に忘れたのではないか」という懸念に襲われた。

 すぐさまその場に立ち止まり、鞄を開いて目的の用具がそこにあることを確かめ、杞憂に過ぎなかったことにほっとする。


 そうして顔を上げると、ぼくはここにいた。

 この場所に放り込まれた直後、状況を理解する間もなく怪物に追われ、逃げ続けて今に至る。

 ひどい話だった。今日これまでの出来事と今起きていることにまるで脈絡がない。結びつくものと言えば、犬に襲われたあの日の記憶ばかり。

 ──いや。

 唐突に思い出した。

 いつだったか、クラスのだれかが話題にしていた都市伝説。

 真っ黒に塗り込められた空と、どこまでも続く偽物の景色の世界に迷い込む話だ。

 哀れな被害者はそこで異形の怪物に追いかけられる。捕まれば最後、命はない。

 助かるには……助かるには、どうするんだっけ。

 肝心なところが思い出せない。思い出せ、思い出せと念じて、嫌な予感がよぎる。いや。そもそも。もしかして。考えるなと思ったけれど、もう遅かった。

 助かる方法なんて、はじめからないんじゃないか。

 気づいたとたん、足が止まってしまって動けなくなった。体力の限界と精神の限界が同時にきた。自分のしたことは無駄なんじゃないか。そう思っただけでこうも簡単に心が挫けるなんて。

 ばくんばくんと鳴る心臓がうるさくて、音に合わせて頭が痛む。焼けつくように熱い肺と喉を酷使して、荒い息をつきながらぼくは呆然と立ち尽くした。息をついたことでもたらされた、ほんのわずかな安堵感。

 その隙間に、恐怖心が滑り込んでくる。

 どうして走り続けていたのか、忘れていたものを思い出したような気分だった。忘れたわけがない。ただ、足を止めてしまったことで、ぼくはぼくを突き動かしていた恐怖と正面から向き合うほかなくなっていた。

 背後に気配を感じた。見てはいけない。どうせろくでもない。結果は見えている。恐ろしいものがそこにいるだけだ。見るな。

 しかしぼくは耐えられなかった。意味もないのに、恐る恐る後ろを振り返ってしまった。

 当然のように、目の前に不気味な怪物がいた。

「あ……」

 後悔したけれど今さら遅かった。

 ヒュッと素早く影が動いた。

 頬を張られたような感覚がした。目の前が激しく揺れ、火花が散った。体が浮いていると気づくのと背中から叩きつけられるのとがほとんど同時だった。

「……かはっ……」

 息が戻ってくる。白黒に反転した視界がじんわり色を取り戻していく。ぼくは塀を背にして道路に足を投げ出すように座り込んでいた。全身がぼんわりと熱くて輪郭を失ったようだった。

 特に、右腕。燃えるような熱を感じる。熱は腕の付け根を起点としてじっとりと広がっていく。体内から熱そのものが抜け出るような奇妙な感覚に、ぼくは虚ろな頭で自分の体を検める。

 ぼくの体が右肩から胸の下あたりまで縦に裂けていた。

 右腕は引き千切れたぬいぐるみみたいにかろうじてくっついている。裂け目からは凄い勢いで血が流れ出ている。赤黒い液体は熱湯みたいに熱く、湧き出るほどにみるみる寒くなる。不思議と痛みは感じなかったけれど、みるみる息ができなくなっていくのが苦しかった。じんじんとした痺れが広がっていて、苦痛がすぐそこまで急迫しているのを感じるのが怖い。

 ぼくの眼前に影が立った。

 影の体の中心部に、真横にぴっと一条、赤い線が入る。線に沿って上下に大きく開き、現れたのはぬらぬらとした真紅の粘膜でできた壁だった。

 壁がその表面を波打たせながら迫ってくる。ぼくは悟った。違う。これは口だ。

 喰われる。

 動けなかった。迫りくる赤い肉壁が視界を埋め尽くすのをただ見つめる。

 なんでこうなったんだろう。ぼくは同じ問いを繰り返す。それから犬のことを思い出す。あの日噛まれたのも右肩だったな、なんてどうでもいいことを考える。怖い。ぼくはちゃんと怖がってるよミカ。だから安心してほしい。あの日からミカは犬を怖がるようになったけど、当のぼくが全然平気なのも不気味がっていたっけ。

 だめだ。自分が何を考えているのかもだんだんわからなくなっている。思考が血と一緒に流れ出ていく。

 寒い。震えが止まらない。


 そこからの光景は、都合の良い幻覚を見ていたのだと思う。

 ぼくはすんでのところで怪物に喰われなかった。

 銀の光芒がぼくの鼻先をかすめるように流れてきて、影をなぎ払ったのだ。

 光の束は、人間の姿をしていた。

 妖精みたいに美しい女の子だった。

 身にまとうガーリーなデザインのドレスは、銀色のベースカラーに金の差し色が入った大人っぽいカラーリングをしている。その煌びやかな衣装に負けないくらい美しいブロンドの髪と、強い意志を感じさせる形の良い目鼻立ち。

 そして一際目を惹く、星の海を宿したように輝く碧色の瞳。

 そんな神々しさをたたえる彼女が、ぼくを見て眉根を歪めた。駆け寄ってきて傍らに膝をつき、ぼくの体の上に手をかざす。白い華奢な指が、可憐だと思った。

 彼女の手に白い光が灯った。

 とたん、熱を奪われ続けていた体が優しい温もりに包まれる。

 しかし同時に急速に気が遠のいた。耐える間もなく眠りに落ちるような感覚。外から与えられる温かさより内からの寒さのほうが強かった。

 女神のように美しい女の子が、目を閉じようとするぼくに向かって何か叫んでいる。たぶん、寝ちゃだめとか、しっかりとか、そのようなことを。

 そのきれいな顔を悲しそうに歪ませてしまったことを、申し訳なく思ったぼくは、

「────、──……」

 大丈夫だから。そう言いたかったのに声は出せずに。

 やがて意識が落ちていく。


 ──そういえば、

 この子の顔、

 どこかで────、──。

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